序・ミニマリズム
酒も入っていたからだろうか、私にとって唯一の友人であると云っても過言ではない葉子を除いて、その話を語る気になり、実際語ってしまったのは尚だけだった。おぼろげに私の中に在った彼への感情が、そんな要らない気を起させたのかも知れない。
「まだ若いのに」
そう彼は言った。そう言った彼だってまだ若い。
私は確かに彼のことを憎からず思っていたのだが、例えば我々が恋愛的に結ばれて、それで上手くやって行けただろうかと考えると、どうもそれは無理なことのように思われた。彼は本当の私を見ても幻滅しない?恋をしていられる?そもそも、本当の私とは?
私は病気だ。そうでなければ、世間の方が病気だ。だからこれほどまでに、私と周囲の間には常に目に見えぬ隔たりがあるのだ。彼は私のどこを見て、何を思うのだろう。余りにも薄いその付き合いの中で、我々は一体何を育んだと云うのだろうか。
流されているだけだ、彼のその、態度に。
私は酷い女だ。つくづくそう思う。嫌気が刺す。ほらまた、眼を合わさない。
「両想いだったんでしょ」
両想い。なんて可愛らしい響きだろう。何だか遠い昔の言葉みたい。
「ならしょうがないよ」
一体何が“なら”“しょうがない”のだろうか。
「誠意は見せてるんだしさ」
誠意とは何だ?この場合、何が誠意だと云うのだ?何も知らないくせに。
私は言葉を飲み込む。当然だ。だって彼女には何も語っていない。話したのは本当に当たり障りのない、まるでおとぎ話のように美化した真実だけだ。彼女には何もかもを話す気にはなれない。彼女は、私にとって何でもない。対人恐怖の情をちくちくと刺激する、中途半端な存在だ。そんな奴に本当のことなど、話してたまるか。
それでも私は昼休みにこうしてわざわざ待ち合わせして彼女と会って、話をする。相談をしたりする。本質を話さない相談。その意味は?眼を合わさずに通り過ぎる。それを横で、彼女も見止めていた。それでもなお、彼女はそう言って綺麗なことを言い続けるのだ。
「でも、今は好きなんでしょう?」
葉子はそう言って笑った。この問いには確かに肯定することが出来た。しかし始め、私の心が痛んでいたのは事実なのだ。私は何の感情も、本当は覚えていなかった。好きだと口にした時、私の心は酷く軋んだのだ。それは何と酷い話だろうか。
「私の言動には誠意が無い。気にしているのはそこなんだ」
三つの顔が脳裏をよぎる。それはどれも酷く苦かった。
時間が全てを解決する。彼女が出した結論はそれだった。確かにその通りだと思った。そして実際にそうだった。
「海は伸のことが好きでしょ、私はそれを知ってたんだよ。だからこれは裏切りだ」
そう言うと彼女は困ったような顔をした。その答えはもう出ていると言いたいのだ。だって両想いだったのだから、これはしょうがないことなのだ、と。違う、これは少女漫画に在りがちな三角関係ではないのだ。何故なら私から出た線は、どこへも繋がっていない。
事があってからしばらく、海は私と眼を合わせようとしなかった。言葉もほとんど交わさなかった。元々さして親しい間柄であったわけではないが、もうこれ以上どこへも進めなくなったことを私たちは感じていた。海が私のことをどう捉えているのかは分からなかったが、少なくとも私は彼女を裏切ったと感じていて、そのことに対する自責の念が強く巣食っていた。しかし時間は確かに何かを解決したのだ。海は私の眼を見るようになったし、世間話も出来るようになった。しかしそれが、一体何になると云うのだ?
「まだ若いのに」
尚はそう言って苦笑した。確かに私はまだ若い。人生の何を語るにも未熟だ。
私の人生に於いて、手を差し伸べてくれたのは今までただの一人しか居なかった。少なくとも、分かり易い形で提示してくれたのはただの一人だった。私はその手を取った。そうしなければ、私はいつまでもからのままの両手をぶら提げていないといけないのかも知れないと思ったからだ。
「次にいつ現れるか分からないから、応えておかなくちゃ、と思った」
私の告白はただの自慰行為に過ぎなかった。彼に対しての誠意などどこにも無かった。尚が私の方へ伸ばしかけていた手を、静かに引いていくのを感じた。彼は大人だ、私とは違う。
「幸せになれよ、お前は」
お前は?幸福になるべきなのは、彼のような人間だ。
いまだに信じ切れないでいる。何も無い私をここまで気に掛けてくれる人間が居るということに。彼の言葉を疑っているわけではないのだが、かといって心の底から信用しているというわけでもない。
「参ってるんだよ」
彼はそう言って、大きな眼で私のことを見た。彼の眼は大きい。一重で、いつも眠たそうで、でも何かをじっと見詰める時には大きい。
「もうずっと、参ってる」
彼の眼はとてもきれいだった。揺れなかった。彼は誰とでも上手くやれて、何でも上手くこなすことが出来る。展望の開けた将来、私とは違う、何もかも正反対。
「好きなんだよ、君が思ってるよりもずっと、でも君が、それを信用しないのも分かってる」
真っ直ぐに私を見据えたまま彼はそう言った。ほらやはり、私は不誠実なのだ。