学園の女神と称される完璧な生徒会長は、放課後に俺の膝の上で怠惰を貪る
学園の女神――神楽坂葵を形容する言葉は、いつだって大層だ。歩く造形美、成績優秀・品行方正の体現者、一年に一人咲くかどうかの高嶺の花。
黒髪ロングの艶やかな髪をなびかせ、背筋をピンと伸ばして廊下を歩けば、すれ違う男子生徒は一瞬息を呑み、女子生徒すらもうっとりと見惚れる。教員の信頼も厚く、二年生にして生徒会長を務める彼女は、この私立鳳凰学園において一種の「聖域」のような存在だった。
少なくとも、僕――一橋航が、あの日の放課後、旧校舎の資料室のドアを開けるまでは。
「ふはぁ〜っ! やっぱり放課後のポテチはコンソメ味に限るわね! 味の濃い塩分が五臓六腑に染みわたるわ〜っ!」
薄暗い資料室の奥、普段は使われていない埃っぽいソファの上で、一人の少女が尊厳をかなぐり捨てて転がっていた。
着古されて首元がヨレヨレになった高校時代の指定ジャージ。あろうことか、胸元には『かぐらざか』とひらがなで刺繍が入っている。黒髪の美しい髪は適当なお団子状に結い上げられ、頭頂部からはあほ毛が一本元気に跳ねている。膝の上には大盛りのポテトチップス、片手にはエナジードリンクの缶、そして足元には少女マンガが散乱していた。
僕があ然として立ち尽くしていると、バリバリと豪快にポテチを咀嚼していた少女が、ゆっくりと首をこちらへ向けた。
「あ」
「あ」
しばしの沈黙。放課後の静寂の中、資料室の古びた時計がカチカチと音を立てる。目の前にいるのは、紛れもなく神楽坂葵だった。しかし、その顔にはいつもの気品あふれる微笑みはなく、口角にはコンソメパウダーの橙色の粉がくっついており、目は丸く見開かれている。
「見なかったことに、してくれるかしら? 一橋くん」
「無理があるだろ。完璧な生徒会長の仮面が跡形もなく粉砕されてるんだが」
「ううううっ! 違うの! これは違うのよ一橋くん! これは私の中に眠るもう一人の人格『怠惰の悪魔・アオイ』が勝手にやっていることであって、本来の神楽坂葵はもっとこう、エレガントで――」
「苦しい言い訳をするな。口元のポテチの粉を拭いてから言え」
葵は慌ててジャージの袖で口元をゴシゴシと拭った。その仕草があまりにも「女子高生」というより「駄菓子屋の前にいる小学生」のようで、僕は思わず深いため息をついた。
これが、僕と学園の女神――もとい、極度のズボラ女子・神楽坂葵との、異常な放課後の始まりだった。
「お願い! 誰にも言わないで! お父様にも、教頭先生にも、クラスのみんなにも! もしこの姿がバレたら、私の『完璧な生徒会長』としての地位が失墜して、生徒会の予算が削られて、何より私のお小遣いが減らされるの!」
資料室の床に正座し、頭を床に擦り付けんばかりの勢いで頼み込んでくる葵。普段の彼女を知る者がこの光景を見たら、卒倒するに違いない。
「お小遣いの心配かい。つか、別にバラす気はないよ。他人の秘密を言うほど僕も暇じゃないし、関わり合いたくない」
「本当!? ああ、よかった……! 一橋くんって、クラスでは『影が薄くて何考えてるかわからない男ランキング1位』だけど、実はとっても話がわかるいい人なのね!」
「余計なお世話だし、そんな失礼なランキングが裏で存在するのかよ」
ホッと胸を撫で下ろし、再びソファに深く腰沈める葵。すると、彼女は怪訝そうな顔で僕を見上げてきた。
「ところで一橋くん。あなた、どうしてここに来たの? ここは鍵がかかっているはずだけど……」
「僕は図書委員の頼みで、古い寄贈本を取りに来ただけだよ。鍵は職員室から借りてきた。……というか、君こそどうやってここに入ったんだ?」
「フフン、甘いわね一橋くん。生徒会長の権限を使えば、旧校舎の予備鍵くらい簡単に手に入るのよ。ここ、誰も来ないから私のお昼寝兼オアシスにしてたの」
「権力の私的利用の極みだな」
呆れ果てながら僕が古い段ボール箱を持ち上げようとすると、葵がじーっと僕の顔を見つめてきた。その瞳は、先ほどまでの焦りから一転して、何やら怪しげな光を帯びている。
「ねえ、一橋くん」
「なんだよ」
「私、ひらめいちゃったの」
「嫌な予感しかしないから、ひらめかないでくれ」
葵はソファから立ち上がると、ヨレヨレのジャージ姿のまま僕に一歩寄ってきた。ふわりと、彼女の髪から甘いシャンプーの香りと、ほんのり香ばしいポテチの匂いが混ざり合った独特の香りが漂う。
「あなた、口が堅くて、私の秘密を知っていて、しかも放課後に暇そうにしているわね?」
「暇そうは余計だ」
「私、決めたわ。あなたを――私の『プライベート・マネージャー』に任命します!」
「却下だ。なんだよその怪しい役職」
「だ、だって! 秘密を知られた以上、あなたを野放しにしておくのは危険だもの! 私の近くに置いて、監視兼サポートをしてもらうわ! 勿論、報酬として……そうね、私が毎日『ご苦労様』って優しく微笑んであげる!」
「いらん。一銭の得にもならないどころか精神的損害が大きい」
「お願いよ〜! 私、一人だとついつい部屋を散らかしちゃうし、ポテチの袋も捨て忘れるし、テスト前もマンガ読んじゃうの! 完璧な私を維持するためには、裏で私を甘やかして……じゃなくて、手なずけてくれる存在が必要なのよ!」
ついに本音が出た。甘やかされたいだけじゃないか。
「断る。僕は平和で平穏な高校生活を送りたいんだ」
「なら……放課後、私の家に来てくれたら、手作りの……ううん、出前の美味しいお寿司をご馳走するわ!」
「釣られるか」
「じゃあ、私が膝枕してあげる!」
「……は?」
唐突に出てきたパワーワードに、僕は思わず耳を疑った。
葵は自分の太ももをポンポンと叩きながら、ドヤ顔で胸を張る。ジャージ越しでもわかる、その整ったプロポーション。
「学園の女神の膝枕よ? 男子生徒なら喉から手が出るほど欲しい権利でしょう? これで手を打ちましょう!」
「君、自分の価値を雑に売り切りすぎじゃないか?」
呆れつつも、必死にすがりついてくる葵の目を見て、僕は悟った。ここで断ったら、この生徒会長は僕が秘密をバラさないかヒヤヒヤしながら、毎日怪しいストーキングをしてくるに違いない。それならいっそ、適当につきあってやった方が平和かもしれない。
「膝枕はいらないから、放課後の片付けだけ手伝う。それで手打ちだ」
「本当!? やっやったー! 一橋くん、大好き!」
子供のように歓喜して、僕の手を両手で握りしめてくる葵。その笑顔は、学校で見せる作りものの完璧な笑みよりも、ずっと眩しく、そして罪深く可愛らしかった。
学園の表と、ふたりだけの裏。それからの毎日は目まぐるしく変化した。
「ごきげんよう、一橋くん。今日の図書委員会の資料、素晴らしかったですわ」
大勢の生徒が行き交う廊下で、完璧な姿勢と天使のような微笑みを浮かべて僕に声をかけてくる神楽坂葵。周りの男子生徒からは「なんだあの陰キャ、神楽坂さんと話して……!」「羨ましすぎる、代われ!」という殺気立った視線が突き刺さる。
……やめてくれ。僕を視線で殺さないでくれ。
僕は軽く会釈だけして、そそくさとその場を立ち去る。
そして放課後、旧校舎の資料室。
「ふあぁぁぁ〜っ! 今日も疲れたぁぁぁ! 教頭の長い話、マジで不眠症の治療薬レベルだったわ〜!」
バサッと生徒会役員の制服を脱ぎ捨て、ソファにダイブする葵。下にちゃんとジャージを着ているとはいえ、無防備だ。
「神楽坂さん、脱ぎ散らかすな。あとそのジャージ、昨日と同じやつだろ。洗ってるのか?」
「失礼ね! ちゃんと洗ってるわよ! 同じデザインのやつを三着回してるの!」
僕はため息をつきながら、散らばったポテチのゴミを拾い、コップに冷たい麦茶を注いでやる。
「はい、麦茶」
「ありがとー、航くん。んぐ、んぐ……ふはぁ、生き返るぅ」
いつの間にか、彼女は僕のことを「航くん」と呼び始めていた。
最初は威圧的だった態度も、日が経つにつれてどんどん崩れていき、今や僕の前では完全に「実家の炬燵でゴロゴロしている妹」のような状態だ。
「ねえ、航くん。肩揉んで」
「何で僕が君の肩を揉まなきゃいけないんだよ」
「生徒会長の職務で肩がガチガチなのよ〜。ほら、ここ、ここが凝ってるの」
葵はソファでうつ伏せになり、無防備に背中を向けてくる。
制服の上着を脱いでいるため、薄手のジャージ越しに彼女の華奢な体のラインがはっきりと分かった。
「はぁ……。ちょっとだけだからな」
僕は諦めて、彼女の肩に手を置いた。触れた瞬間、その線の細さに少し緊張する。いくらズボラでボサボサ頭でも、彼女は紛れもなく女の子で、しかも全国レベルの美少女なのだ。
「あ、そこ……ううん、気持ちいい……。航くん、手つきが慣れてるわね……」
「変な声出すな。実家の祖母の肩をよく揉まされてただけだ」
「んふふ、航くんって絶対にいい旦那さんになるわね……」
気持ちよさそうに目を細め、うとうとし始める葵。夕暮れの赤橙色の光が資料室の窓から差し込み、彼女の頬を優しく照らしている。ボサボサのお団子ヘアから零れた黒髪が、夕風に揺れていた。さっきまでの横暴な態度が嘘のように、眠りにつこうとする彼女の横顔は、儚いほど美しかった。
……こういうところだけ見れば、本当に女神なんだけどな。
僕がそっと手を離そうとすると、葵がキュッと僕の制服の裾をつかんできた。
「……いかないで、航くん……」
「起きてるのか?」
「……ん……半分寝てる……。もうちょっとだけ、ここにいて……」
微かな声で呟き、僕の手に自分の小さく温かい手を重ねてくる。ドクン、と胸が跳ねた。昼間の完璧な彼女と、目の前にいる無防備で寂しがり屋な彼女。そのギャップに、僕の心が少しずつ侵食されていることに、僕は気づかない振りをしていた。
◇
季節は進み、秋の文化祭が近づいていた。生徒会長である葵の忙しさはピークに達していた。学園全体の出し物の取りまとめ、他校との調整、予算の分配。彼女は連日、放課後遅くまで生徒会室で書類と格闘していた。当然、資料室で過ごす僕たちの「秘密の時間」は減っていった。
「一橋くん、最近神楽坂さんと話してる?」
クラスの男子に話しかけられる。
「いや、別に。図書委員の連絡くらいだけど」
「だよなー。神楽坂さん、最近めちゃくちゃ忙しそうだし、なんか他校の生徒会長と噂になってるらしいぜ? 合同文化祭の打ち合わせで、すごくお似合いだったって」
「へえ。そうなんだ」
胸の奥が、ちくりと痛んだ。他校の生徒会長。きっと、顔も良くて、成績も良く、葵の「完璧な表の顔」にふさわしい人物なのだろう。僕のように、彼女のズボラな姿を知り、ポテチのゴミを拾うだけの存在とは違う。
……元々、僕らは秘密を共有していただけの関係だ。彼女が忙しいなら、それでいい。
そう自分に言い聞かせ、僕は一人で放課後の図書室で作業を終え、帰路につこうとした。
その時、旧校舎の影から、見覚えのある人影がフラフラと現れた。
「あ……航、くん……」
葵だった。制服姿の彼女は、顔色が青白く、足元がおぼつかない。生徒会室から戻る途中で倒れそうになっていたのだ。
「神楽坂さん!? 大丈夫か!?」
僕は慌てて駆け寄り、倒れそうになった彼女の身体を抱きとめた。腕の中に収まった葵の身体は驚くほど軽く、そして信じられないほど熱かった。
「あはは……なんか、世界がグルグル回ってるわ……」
「バカか君は! 熱があるだろ! 何で無理したんだ!」
「だって……完璧な生徒会長だから……みんなの期待に、応えなきゃ……」
弱々しく微笑む彼女を見て、僕の中で何かが弾けた。
「完璧なんてどうでもいいんだよ! 君はただの、ズボラで、ポテチ好きで、僕の前でゴロゴロしてるただの『神楽坂葵』だろ!」
思わず叫んでいた。葵は目を丸くし、それからポロポロと大きな涙をこぼし始めた。
「ううっ……航くん……助けて……頭が痛いの……お腹も空いたの……」
「わかった。とりあえず僕の家に来て」
僕のアパートに葵を連れ帰り、ベッドに寝かせた。冷えピタを額に貼り、スポーツドリンクを飲ませると、彼女は少し落ち着いたようだった。
「ごめんね、航くん。服、汗で汚しちゃった……」
「気にしなくていい。それより、何であんなになるまで放置したんだ」
「生徒会の仕事、ちゃんとやらないと……みんな『神楽坂さんはすごい』って言ってくれるから……失望されたくなくて……」
布団の中から、潤んだ瞳で僕を見つめる葵。いつも強がっている彼女の、本当の弱さがそこにあった。
「誰も君に完璧なんて求めてないよ。少なくとも、僕は『完璧な生徒会長』の君より、ジャージを着てポテチ食べてる君の方が……ずっと好きだ」
言った瞬間、自分の口走った言葉の重さに顔が熱くなった。
「……え?」
葵の顔が、熱のせいだけではない真っ赤な色に染まる。
「あ、いや! 今のは語弊がある! 好きっていうのは、人間としてというか、友達としてというか――」
「……私は」
葵が布団から手を伸ばし、僕のシャツの袖を強く引っ張った。
「私は……航くんの前の自分が、一番好きなの」
「葵……?」
「学校にいる時の私は、ずっと演技してるの。仮面をかぶって、息が詰まりそうで……でも、航くんと資料室にいる時だけは、本当の自分でいられた。私を『女神』じゃなくて『神楽坂葵』として見てくれたのは、航くんだけだったの……」
葵は起き上がり、僕の胸にポンと頭を預けてきた。彼女の体温と、甘い香りが全身に伝わってくる。
「他校の生徒会長さんと噂になってるって聞いたとき……凄く嫌だった。だって、私の本当の姿を知ってるのは、航くんだけがいいんだもん……」
「葵……」
「これって……なんていうか、分かるでしょ? 航くん」
葵は僕の胸の中で、モゾモゾと身をよじらせながら呟いた。
「私……航くんの『特別な存在』になりたい。ただのマネージャーじゃなくて……その、恋人、とか……」
甘くて怠惰な関係。熱の勢いもあって飛び出した彼女の告白。けれど、その瞳には一切の迷いはなかった。
「僕でいいのか? 影が薄くて、何考えてるか分からない男だぞ」
「それがいいの! 航くんじゃなきゃ嫌なの! 責任取ってよ、私の素顔を知ったんだから!」
最後はいつものワガママな葵に戻って、僕の胸をポカポカと叩いてくる。僕は困ったように笑いながら、彼女の華奢な肩を優しく抱きしめ返した。
「わかったよ。責任、取るよ」
「本当!? えへへ……やったぁ」
安心して全身の力を抜く葵。そのまま僕の膝の上に頭を乗せ、スヤスヤと気持ちよさそうな寝息を立て始めた。
「寝るのか?」
「んー……航くんの膝、落ち着く……。恋人になったんだから、膝枕のサービス……あげる……」
「僕が膝枕されてるんじゃなくて、君が僕の膝を使ってるだけだろ」
「細かいことは……いいの……」
数分後、完璧な生徒会長は、僕の膝の上で完全に爆睡していた。
こうして、僕と学園の女神の不純で甘い関係は、正式な「恋人」へと昇格した。
相変わらず学校では完璧な美少女として振る舞い、僕とは他人行儀な会話を交わす彼女だが――放課後になれば、僕の部屋でジャージ姿になり、膝の上で満足そうにポテチを食べている。
「航くん、あーん」
「自分で食べろ」
「えー、恋人同士なんだから甘えさせてよ〜」
完璧な女神の、完璧にズボラで愛おしい素顔。
それを独占できる権利は、世界中で僕だけのものだ。




