田舎の少女と都会の女の子たち
大きな玄関ホールは、これまた大きな広間につながっていて、こちらにも客が大勢集まり賑やかに談笑している。
「お嬢様、お名前をお聞かせ願えますか?」
広間の入り口に立っていた、派手なお仕着せを着た従僕に尋ねられ、
「シャー……キャサリンです。キャサリン・シルヴァートン」
シャーロットが答えると、従僕は軽く頷き、どうぞと広間に招き入れた。
「キャサリン・シルヴァートン嬢!」
大声で名を告げる。
シャーロットは驚いたが、上流階級のパーティでは、客が広間へ移るときは従僕がこうやって名を響かせて、すでに集まっていた人たちに新たなゲストの到来を告げるのが慣わしだった。
その場にいた人たちが一斉に会話を中断し、シャーロットに目を向ける。沈黙の中一人注目を浴び、シャーロットは一瞬逃げ出したくなったが、ここで踵を返してはあまりに不自然だ。何とか勇気を奮い起こし、あからさまな好奇の視線の中に足を踏み出す。
「キャサリン・シルヴァートンですって」
「まあ……」
「じゃあ、あの子が」
「シルヴァートン家の……」
「田舎で農夫に育てられたという?」
「驚いた」
「お母様によく似ているわ」
「ほんとに」
「ねえ」
「びっくり」
広間の隅から年輩の婦人方の囁き声が聞こえてくる。そんなに私はお母様に似ているかしらと、シャーロットが落ち着かない気持ちで考えていると、
「こんばんは」
「ご機嫌いかが?」
華やかな若い娘たちのグループがにこやかに近づいてきた。どの娘も美しいドレスに身を包み、リボンや花で髪を飾っている。同じ年頃の女の子たちに話し掛けられたことで、シャーロットはほっとして笑顔になった。
「はじめまして。こんばんは」
「シルヴァートン嬢ね?」
一際目立つ緑のドレスを着た赤毛の娘が、きびきびと進み出て言った。
「ようこそ。わたくしはドリス。ドリス・レッドモンドよ。よろしく」
「レッドモンド?」
シャーロットは聞き返す。
「じゃあ、この屋敷の」
「ええ。今夜のパーティは、わたくしのお父様の主催なの」
赤毛の娘はそう言ってにっこりと笑った。華やかで完璧で、どこか押しつけがましい笑顔だ。
「来てくださって嬉しいわ、シルヴァートン嬢。キャサリンとお呼びしてかまわないかしら?」
「ええ、もちろん」
「じゃ、わたくしのことはドリスと呼んで」
「わたくしはグラディス・エヴァンズ」
「わたくしはラヴィニア・ブルンスウィック」
「ジョセフィン・ボーフォートよ」
「ジェニー・ジャクソン、よろしく」
娘たちが口々に名乗る。とても覚えきれずシャーロットが困惑顔になると、ドリスが緑のドレスの裾を翻して言った。
「ちょうどいいわ、キャサリンに決めてもらいましょうよ」
「それはいいわ!」
娘たちが賛同する。
「決めるって何を?」
尋ねるシャーロットに、
「『ファウスト』のマルガリーテ役は誰が一番か話していたのよ」
栗色の髪にバラを飾った娘が言った。
「え?」
「ほら、グノーよ、グノー」
栗色の髪の娘はじれったそうに言った。
「わたくしは絶対マダム・オスボーンが最高だと思うわ! ね、キャサリンもそう思わないこと?」
ドリスが親しげにシャーロットに腕を絡めて言うと、
「だめだめ、マダム・ルチエが一番よ! マダム・ルチエに決まっているわ! そうよね、キャサリン?」
カールした金髪の娘が力説する。シャーロットが戸惑っていると、
「まさか、あなたまだ観に行っていないの?」
栗色の髪の娘が尋ねた。
「観に行くって何を?」
シャーロットの問いに、一瞬沈黙が落ちる。
「ねえ、あなたもしかして『ファウスト』が何かも知らないの?」
呆れたという顔で尋ねる栗色の髪の娘に、
「まあまあ」
ドリスが取り成すように言った。
「仕方ないわよ。彼女、田舎から出てきたばかりなんですもの」
「ああ、そうだったわね」
娘たちの間に軽い笑いのさざなみが広がる。
「ねえ、田舎の話を聞かせてくださらないこと?」
ドリスが笑顔でシャーロットに言った。
「わたくしたち、田舎なんて行ったことがないんですもの」
「ね、田舎では丸太でできた小屋に住んでいるって本当?」
「ブタやニワトリと一緒に暮らしているんですって?」
「冬には飢えた狼が家の前まできて吠えるって聞いたことあるわ」
「まあ、恐ろしい!」
「そんな野蛮な環境、わたくしたちには絶対に耐えられないわ!」
ドリスが大袈裟に身震いしてみせる。
どういうわけだか知らないが、この娘たちが自分に嫌がらせをしているらしいということはシャーロットにもわかった。田舎娘だと馬鹿にしているというわけか。
「狼なんかしょっちゅうきたわよ」
シャーロットはにっこりと微笑んで言った。
「一度、父さんが留守だったときに、大きな熊がやってきたことがあったわ。もう少しで頭からバリバリ食べられちゃうところだったんだから。兄さんがライフルで追っ払ってくれなかったら、今ごろこうしてあなたたちと話なんかしていられなかったでしょうね」
「まあ!」
娘たちが今度は本物の恐怖に引きつった顔で立ち尽くす。
と、その背後でくすくすと笑い声がした。
「面白い人ね」
娘たちがはっと振り返る。
美しいレディが立っていた。歳はシャーロットよりひとつふたつ上、ドリスと同じくらいだろう。淡いラベンダー色のドレスが、彼女の黒い瞳に黒い髪、それに抜けるような白い肌を際立たせている。落ち着いた雰囲気の大人びた美女だ。
「イザベラ」
ドリスが尖った声で言った。
「いつ来たの」
「たった今」
娘はさらりと受け流す。大人が子供をあしらうような態度。明らかにドリスとは格が違う。シャーロットを見ると微笑んで、
「こんばんは、シルヴァートン嬢。私はイザベラ・ローズデイル。よろしくね」
「こちらこそ、よろしく」
「ちょっとイザベラ!」
険悪な声を上げるドリスにかまわず、イザベラはシャーロットに言った。
「シルヴァートン嬢、よかったらあっちのソファに座らない? 晩餐会が始まるまでは、まだ間があってよ」
「ありがとう」
ドリスとその取り巻きの輪から抜け出し、人の少ない広間の片隅の赤いソファにイザベラと並んで腰かけたところで、シャーロットはため息をつき礼を言った。
「助かったわ」
「あら」
イザベラは面白そうに小さく微笑む。
「そうは見えなかったけど。あなた、一人であの人たちをやり込めていたじゃない」
「それにしても意地悪な人たちね」
シャーロットは憮然と呟いた。
「私、あの人たちに何か敵意を持たれるようなことした?」
「気にすることないわ」
イザベラは肩をすくめて言った。
「社交界には色々あるのよ。あなたにもそのうちわかるわ。ところで、さっきの熊の話、あれは本当のことじゃないんでしょう?」
「本当のことよ」
シャーロットは答えた。
「あのとき私を庇ってロジャー……兄さんはひどい怪我をしたわ。肩から腕にかけて爪で引き裂かれて」
そのときのことを思い出し、シャーロットはため息をつく。巨大な熊を前に恐怖ですくみあがっている自分を背後に庇い、守り通してくれた兄。
あたりを見回すと、洒落た夜会服を着た華やかな若い紳士たちが、美しいレディたちを囲み、楽しげに談笑しているのが目に入る。すらりと痩せていて、気取っていて、上品そうな金持ちの子息たち。この中に、命の危険も顧みず、凶暴な熊に立ち向かう勇気のある人がどれくらいいるだろう。しかもあの時ロジャーはわずか七歳だったのだ。
「何を考えているの?」
イザベラに尋ねられ、シャーロットは首を横に振った。
「私、ここには馴染めそうもないわ」
「カントリーサイドが恋しいの?」
シャーロットは黙り込む。イザベラはちょっと笑った。
「気を悪くしないでね。私、あなたのことが気に入ったの。あのドリスをやり込めることができる子なんてそういないもの。お友達になりたいわ。あなた、ニューヨークの社交界に顔を出すのは今夜がはじめてでしょう。私でよければ色々教えてあげるわ」
そう言うと、ふと顔を強張らせて席を立ち、
「ちょっと挨拶をしてこなくてはならない人が来たわ。また後でね。それにほら、あなたのお父様もいらしたみたい」
見ると、確かに父親が、一人の紳士を連れてこちらにやってくる。
立ち去るイザベラにシャーロットが声をかける暇もなく、
「やあ、キャサリン、ここにいたのか」
父親に言われ、シャーロットはソファから腰を上げた。
「紹介しよう。こちらはハミルトン家のご子息、ローレンス・ハミルトン氏だ」
「やあ」
父親の隣りに立っていた、長身の若い紳士が微笑んで、シャーロットに片手を差し伸べた。
「またお目にかかれましたね、お嬢さん」
シャーロットは目を見張って立ち尽くす。
「おや、すでに娘と話をされたのですか」
驚いた顔をする父親に、
「ええ、まあ」
紳士は朗らかに笑って頷いた。
目の前に差し出されたままになっていた手に、シャーロットがほとんど無意識に手を伸ばすと、若い紳士はその手を軽く持ち上げ、礼儀正しく口づけた。淡いブロンドがかすかに揺れる。鋭く整った顔立ち。上げた瞳は、氷のように澄んだブルー。
驚いて口もきけずにいるシャーロットに、紳士は穏やかな声で言った。
「何か、お飲み物を?」
「……ストロベリーソーダはなさそうだけど」
「シャンパンかパンチですね、ここでは。そうだな、レモネードがある」
通りかかった給仕係からレモネードのグラスを受け取り、シャーロットに手渡す。
「どうぞ」
柔らかな物腰に、上品な話し方。シャーロットは父親が別の紳士に挨拶しに行ったのを横目で眺め、鋭く目の前の男にささやきかける。
「ラリー!」
自分用にはシャンパングラスを取って、ゆったりと微笑んでいる青年紳士。それは服装こそ違うが、二週間前シャーロットが公園で出会ったあのならず者風の男、ラリーに間違いなかった。