田舎の少女と従者
「あがり」
シャーロットはトランプカードをテーブルに投げ出して言った。
「約束どおり、何でも言うこときいてもらうわよ」
コリンズはため息をついて腰を上げた。
「お茶でもおいれしましょうか、お嬢様」
「そんなのいつもやってくれてることじゃない」
良家の令嬢ならベジークくらいできないと恥をかくと作法の教師に言われ、その新しく教わったトランプゲームをコリンズ相手にやっていたところだ。負けた方が何でも勝った者の言うことをきくという条件で始めたのだが、十分と経たないうちにシャーロットが勝ってしまった。令嬢に花を持たせるためにわざと負けたのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。コリンズはトランプは苦手なようだった。
それにしても。トランプゲームなどして時間をつぶすより、ケーキを焼くなり刺繍をするなりして過ごす方が楽しいし、有益な時の使い方だと思うのだが。上流階級の人間の考えることはわからない。シャーロットはカードを弄びながら思う。
「さてと。じゃ、何をやってもらおうかしら?」
シャーロットがテーブルに頬杖をついて上目遣いに見上げると、コリンズは先回りして言った。
「屋敷を抜け出す手助けだけは勘弁してくださいよ」
シャーロットが屋敷を抜け出したことで、一番迷惑を被ったのはコリンズだった。お前の監督不行き届きだと執事頭に叱責され、その後シルヴァートン夫妻にも厳しく責められ、解雇されそうになったところを、シャーロットがコリンズは悪くないと割って入って、何とか首が繋がったのだ。
「ごめんなさい、コリンズ。あなたにこんな迷惑がかかるなんて思わなかったの」
シャーロットが謝ると、
「気になさることはありませんよ、お嬢様。たしかにこう何日も屋敷に閉じ込められていては……お気持ちはわかります」
コリンズは笑って慰めてくれた。そのせいで自分がクビになりかけたというのに、シャーロットを責めるようなことは一言も言わない。そのコリンズを再び窮地に陥れるようなことはできない。シャーロットは小さくため息をつくと、カードをまとめながら頷いた。
「わかってるわ。でも他にやってもらいたいことといってもね、ちょっと思いつかないわ。しばらく保留にしておくわね」
屋敷を抜け出してひと騒動起こしてからすでに二週間が過ぎ、シャーロットは相変わらず籠の鳥だった。ロジャーから手紙はこないし――実は昨日また一通届いたのだが、例によってシャーロットの手に渡る前に、執事頭に処分されてしまった――家庭教師の一団によってたかって田舎娘から良家のレディへ改造される毎日は、楽しいとは言い難い。
なぜ料理が上手くできることよりピアノとダンスの方が大事なのか理解できなかったし、なぜフランス語を話せることが洗練された人間の条件なのかもわからなかったし、相変わらず一家団欒より仕事と社交を優先させる両親も理解できなかったし、そういった疑問を口にすれば、「農夫の家庭で身についた習慣や考えは早く捨ててしまいなさい」と、教師たちに厳しく諌められる。まるでこれまでの自分を否定されているようで辛かった。
一人きりのとき考えるのは、農場の家族のこと、陽気な父と優しい母と、信頼できる兄のこと。それから、屋敷を抜け出した日に公園で出会ったあの男――ラリーのことだ。
「そろそろ家出にも飽きたんじゃないか」
一通り公園を回り終えた後、噴水の縁に腰かけ、沈み始めた夕日を見上げてラリーは言った。
「ご両親がきっと心配してるぞ」
「そうね。戻った方がいいかも」
頷いて答えたシャーロットに微笑んで、
「俺もそろそろ帰らなきゃまずいしな」
「え?」
ラリーはベンチから立ち上がると、シャーロットを連れて公園を出て、通りかかった辻馬車を止めた。
「これで帰るといい。最後まで面倒を見てやれなくて悪いが」
「でも」
「旦那、どこまで?」
尋ねる御者に、
「このお嬢ちゃんが望むところまで」
そう言ってさっさと支払いを済ませる。
「旦那、こんなにいいんですかい?」
御者が目を丸くしたのを見て、シャーロットはラリーがかなりの大金を払ったことを知った。
「待って! こんなことまでしてもらうわけにはいかないわ!」
首を横に振るシャーロットを、ラリーはさっさと抱き上げ馬車に乗せた。
「女子供には親切にしろというのが家訓なものでね」
そう言うと、片手を胸に当てて一礼する。その気取った仕草が驚くほど優雅で決まっていて、思わず目を見張るシャーロットに、ラリーはにやりといたずらっぽく笑った。
「それじゃあ。おやすみ、お嬢ちゃん。また会えるといいな」
「待って!」
踵を返し去ってゆくラリーを呼び止めようとすると、御者が振り返って尋ねてきた。
「それで、お嬢さん、どちらまで?」
シャーロットはふと思いついて、育った農場の場所を言ってみたが、
「大陸横断旅行に出かけるには、ちと時間が遅すぎるんじゃないですかい」
冗談だと思われたらしく、一笑に伏された。
「……じゃ、シルヴァートン邸まで」
がたごと辻馬車に揺られながら、シャーロットは先ほどラリーが言った『女子供』のうち、自分がどちらに分類されたのかぼんやりと考えていた。
疑いの余地なく後者だろう。
「……コリンズ、ベジークもう一回やらない?」
シャーロットがカードを切りながら誘うと、コリンズは慌てて首を横に振った。
「もうお休みになられる時間ですよ」
言いながらテーブルの上を片付け始める。時計の針は八時半をさしていた。
「すぐにブリジッドがお召しかえを手伝いに――」
言いかけたとたん部屋のドアが開いた。だが、入ってきたのはブリジッドではなく、
「奥様!」
コリンズは慌てて背筋を伸ばし一礼した。
「お母様」
シャーロットも驚いて目を見張る。シルヴァートン夫人がシャーロットの部屋にやってくるなど、これまでなかったことだった。それ以前に、シャーロットはこの新しい母親とまだほとんど言葉を交わしたことがない。普段は顔を合わせることすらないのだから。
「キャサリン、こんな時間にごめんなさいね」
夫人は優しく微笑むと、初めて会ったとき見せたのと同じ、値踏みするような目でシャーロットを眺めた。夫人は紺のサテンのドレスを身に纏い、栗色の髪を凝った形に結い上げていた。胸には大きなダイヤのネックレス。これから社交に出かけるところらしい。椅子から立ち上がったシャーロットに歩み寄ると、もう一度にっこり微笑んで、
「まあ!」
と、大袈裟に驚いた声を上げた。
「本当に。すっかり見ちがえたわ。とてもきれいに、レディらしくなりましたね、キャサリン」
言われてシャーロットは曖昧な顔をする。レースとリボンだらけのドレスに包まれてはいるものの、中身は田舎から出てきたときから何ら変わっていないのだ。
「コリンズ、娘はダンスができるようになったのかしら?」
夫人はシャーロットに背を向け、コリンズに尋ねた。
「はい、奥様」
コリンズが答える。シャーロットが毎回ダンスの教師を散々てこずらせているのを目にしているはずなのだが。
「それじゃ、ちょっと踊ってみてちょうだいな」
夫人はシャーロットを振り返って言った。
「今ですか?」
目を見張るシャーロットにかまわず、
「コリンズ、あなたがパートナー役を務めて。ワルツを」
コリンズは一瞬戸惑ったものの、すぐに、はい、と頷いて、シャーロットに恭しく片手を差し伸べた。
母親の監視のもと、シャーロットはコリンズを相手に慣れないステップを踏んでみせる。
「悪くないですね」
しばらく黙ってシャーロットのステップを見ていたシルヴァートン夫人は、やがてにっこり笑ってそう評価を下した。
「なかなかいいですよ、キャサリン」
それが本心ではなかったことは、翌日からダンスのレッスンの時間が二倍に増やされたことで明らかになったのだが。夫人は軽く手を叩くと、コリンズから手を離したシャーロットに言った。
「もうすぐ晴れて社交界にデビューするのですから、ワルツくらい完璧に踊れなくてね」
「え?」
「今日、レッドモンド家主催の晩餐会の招待状が届きました」
夫人は言った。
「あなたも招待されたのですよ、キャサリン。来週の金曜日の晩です。名門シルヴァートン家の一人娘として、恥かしくない振る舞いをしてちょうだいね」