田舎の少女と青年紳士の邸宅
「シャーロット」
ロジャーは驚いた顔をした。「どうしたの?」
「ローレンスは?」
「朝からお父上の書斎にこもりっきりだよ。遺品の整理をしているらしい」
「そう」
ローレンスの父の葬儀の翌日。シャーロットがハミルトン邸を訪れるのはこれが初めてだった。応対に出た執事にロジャーはどこにいるか尋ねると、その方なら庭にいますと広々とした中庭に案内された。花の手入れをしていたロジャーはシャーロットを見て微笑みかけたが、その固い表情にただ事ではないものを感じたらしく、シャツの袖の埃を払って近づいてきた。
「何かあったのかい?」
「フラッフィが」
言ったとたん、涙が瞳から溢れ出た。「フラッフィが死んでしまったの」
俯くと堪えきれずに嗚咽が洩れる。肩にそっとロジャーの手が置かれた。包み込むように優しく抱き寄せられる。「何があった?」
「事故よ」
「事故?」
「キッチンにおいてあった掃除用の石炭酸が、何かの拍子に誤って焼く前のパイに」
その話を聞いたシルヴァートン氏は、即行料理長をクビにした。
「そんな旦那様、私は絶対にそんなミスは――」
料理長の弁明は聞き入れられなかった。
「シャーロット」
しばらく黙って泣きじゃくるシャーロットの髪を撫でていたロジャーは、やがてほっとため息をつき言った。
「フラッフィのことは気の毒だけど、そのパイを食べたのがお前でなくてよかった」
そう、私が先に食べていたら、死んでいたのは私だった。
考えてシャーロットはぞっとなる。
石炭酸は猛毒。だが、レモンの強い匂いと酸味がその味を隠してしまっていただろうから、気づかず口にしていただろう。
事故。本当に事故だったのだろうか。
黒いもやのような不安が胸に広がってゆく。
今朝のことだ。起きて着替えを済ませ、部屋から出て階段を降りようとすると、いきなり後ろから誰かに背中を強く押された。そのまま落ちていたら踊り場で首を折って死んでいただろう。農場にいるときは庭の木やら梯子やら高いところからしょっちゅう落ちていたので、そういった時するようにとっさに身を捻り、うまく踊り場に着地して事無きを得たのだが。急いで振り返って見上げると、そこには誰もいなかった。
気のせいだったのか。いや、たしかに何者かの手が背中を押すのをはっきりと感じたのだ。
このことはまだコリンズにも話していない。何だか気味が悪かった。どういうことなのかわからないが、まるで、誰かが私を――
「シルヴァートン嬢」
頭上で声がし見上げると、二階の窓からローレンスが顔を出していた。淡い金髪が日の光を受けきらめいている。白いシャツの腕には服喪中であることを示す黒い腕章。いらっしゃい、とシャーロットに向かって微笑みかけて、その頬を濡らす涙に気づき驚いたように目を見張る。
「どうしたんです?」
「仔猫が死んだんだ」
「仔猫? ロジャーが農場から連れてきたあの仔猫ですか? それはまたどうして――」
「石炭酸よ」
「石炭酸? 猫がそんなものを飲むとは思えませんが」
ローレンスは困惑顔で答えて、
「とにかく中へどうぞ。すぐにお茶の用意をさせましょう」
そう言って窓の向こうへ引っ込んだ。
「シャーロット、僕は手を洗ってくるから先に行っていてくれ」
ロジャーがズボンについた土を払いながら言う。シャーロットが屋敷に入ると、すでにローレンスは二階から降りてきていて、てきぱき女中に指示を出しているところだった。すっかりハミルトン家の主人が板についてきている。
「すみません、気がきかなくて」
言いながらシャーロットに椅子をすすめる。
「いいの、そんな気を使わないで。急に訪ねてきたのは私だもの」
答えるシャーロットの涙の跡の残る顔を見て、ローレンスは気遣わしげに眉を寄せた。
「猫が……大丈夫ですか」
「ええ」
シャーロットは椅子に腰を下ろし頷く。猫を失った自分より、父を失ったローレンスの方が何倍も辛いはずだ。見たところローレンスは、まだ顔色はあまりすぐれないものの、その瞳は以前の明るさを少しずつ取り戻しつつあるようだった。
「ローレンス。よかった、ちょっと元気になったみたい」
「ロジャー」
ローレンスは微笑んで言った。
「え?」
「あなたのお兄さんですよ。慰めるのがうまい人ですね。話していると、どういうわけか心が癒される。彼がいてくれてよかった」
「そう」
シャーロットは思わず笑顔になる。ロジャーが褒められると自分が褒められたみたいに嬉しい。
「昔からそうなの。ロジャーはね、どんな人の心にだって明かりを灯すことができるのよ」
「それは素晴らしい才能だ」
ローレンスは微笑んで、
「あなたは本当にあの青年のことが好きなのですね」
「好きよ。大好き。たとえ血の繋がりはなくても私の大事な兄さんよ」
「そうですか」
女中が紅茶とクッキーを運んでくる。
「羨ましい」
ローレンスは呟くと、女中を下がらせてカップに紅茶を注ぎ、うやうやしくシャーロットに手渡した。
「私のことも、少しは好きになってくれるかな」
「ローレンスのことも、もちろん好きよ。初めて都会にやってきたとき、心細くてたまらなかった。ローレンスがいてくれたから、都会のことが少しは好きになれたの。ロジャーの次くらいにローレンスのことが好きだわ」
「これは嬉しい」
ローレンスはにっこりとして、シャーロットの胸元のブローチに視線をやった。
「つけてきてくれたのですね。父も喜んでいることでしょう」
「ええ。あなたのお父様には会ったことがないけど――」
「シャーロット」
ロジャーが客間に入ってきた。
「おっと、お兄さんのお出ましだ」
ローレンスが笑って席を離れる。
「それでは、あなたのお相手はロジャーにまかせるとしましょう。どうぞゆっくりしていって下さい」
「ローレンス? お茶くらい一緒に飲んでいけばいいのに」
首を傾げ、引き止めようとするロジャーに、
「そうしたいところだが、やらなくてはならないことがある」
シルヴァートン嬢を頼むよと言い残し、ローレンスは一礼して客間を出て行った。
「忙しそう」
「ああ、今朝からずっとだ。食事もろくにとらずに、お父上の書斎の整理をしてる」
ロジャーが気遣わしげに言う。
亡くなった父親の書斎の整理。
「ロジャー」
シャーロットは席についたロジャーに紅茶をすすめながら言った。
「ローレンスがね、ロジャーがいてくれたおかげで、気持ちが慰められたって」
「僕は何もしてないよ」
ロジャーは首を横に振った。
「僕にできることといえば、ただ話を聞くことくらいだ。それに、ローレンスはあまり多くを話さない。哀しみや苦しみを人に見せようとしない。強い人だよ」
それからふっと小さく微笑み、
「ローレンスならいいかな」
「え?」
「お前と結婚するかも知れないんだろう?」
シャーロットは危うくカップを取り落とすところだった。
「ロジャー!」
「わかってる」
ロジャーは軽く片手を上げて、
「ローレンスから聞いたよ。お前がシルヴァートン家のために、ローレンスと結婚するよう、ご両親に言われてること」
「でもロジャー、それは――」
「お前の意思じゃない、だろう?」
シャーロットは急いで何度も頷く。
「それもローレンスに聞いた」
ロジャーはちょっと笑って、「ローレンスなら、僕は反対しないけど」
「もう!」
からかわれていることに気づき、シャーロットは頬を膨らませる。
「あいにくローレンスにだってその気はないわ。ローレンスには好きな人がいるのよ。これも聞いた?」
イザベラ。昨日執り行われたハミルトン氏の葬儀に、イザベラも両親と一緒に参列していた。いつもローレンスに関しては冷淡な態度を崩さないイザベラが、このときはひとり父の墓前に茫然と佇むローレンスを見て、そっと辛そうに顔を背けたのだった。
イザベラもローレンスのことを愛していたのだ。ヒキガエル氏と婚約したのは、ローレンスの愛が偽りだったと思ったからで。もし、ローレンスが本気で自分のことを愛していると知れば、あるいは――
タイトルつながりで、ローレンスがラリーのシーンでは「長いー煙草をー キザにくわえたー」という歌詞が頭をめぐるが、煙草以外に共通点がない、、、




