田舎の少女と大都会のごろつき
シャーロットは目を丸くして、石畳の通りを歩いていた。
着ているのは、緑のキャラコのワンピース。農場の母が仕立ててくれた着慣れたもので、足には茶色の編み上げブーツ。これは農場から都会に来たときに履いていたものだ。引きずるほど長い絹のドレスや、凝った刺繍入りのサテンの靴より、この格好の方が自分にはあっているわと、シャーロットは心の中で呟いた。身につけているものを破りはしないか汚しはしないかと一日中気を使っているのは、とても疲れる。
それにしても、とシャーロットは、改めて辺りを見回す。通りの両側に並ぶのは、石造りの大邸宅ばかり。どれも、思わず立ち止まって見上げたくなるような立派な建物だ。シルヴァートン邸が高級住宅街の真ん中にあるのは、疑う余地がなかった。コリンズが後を追ってきても見つからないよう、いくつもでたらめに角を曲がったのだが、豪邸の列は途絶えることがない。
ときおり、馬車が石畳の上を通り過ぎ、その凄まじい音にシャーロットは首をすくめる。きれいに舗装された道路が、こんなに音を響かせるものだとは知らなかった。何しろ、シルヴァートン邸に来てから毎朝、馬車の音で目が覚めるくらいなのだ。車輪が敷石を軋ませる音は、シャーロットにはひどい騒音に思えたが、都会の人間は気にならないらしい。
その音を除けば、こうして晴れた空の下、外を歩くのはなかなか気持ちが良かった。一ヶ月も屋敷の中に閉じ込められていたわけだから、余計そう感じるのかもしれない。シルクハットにスーツ姿の紳士や、パラソルをさした婦人がのんびり散歩している。
何となく人の流れにそって歩いているうちに、シャーロットは住宅街を抜け出し、巨大な公園に足を踏み入れていた。
都会の中心にいきなり緑の公園が現れたのに、シャーロットは唖然と目を見張った。広々とした芝生、大きく枝を広げた木々、小道の左右には色とりどりの花が咲き誇り、その向こうには池が見える。老人がベンチで本を読んでおり、若い娘たちが木陰でおしゃべりをしている。ステッキを持った紳士が、乳母車を押す婦人に付き添って水辺を散歩している姿もあった。
物珍しさにきょろきょろしながら歩いていると、不意に後ろから声をかけられた。
「失礼、お嬢さん」
振り返ると、真鍮のボタンがついた青い制服姿の小太りの警官が立っていた。
「ひとりかね?」
「そうですけど」
シャーロットの返事に、警官は胡散臭そうな顔になった。
「君の名前と、保護者の名前、それから住所は?」
詰問口調で尋ねられ、シャーロットは言葉につまる。
「どうしてそんなこと訊くの?」
「いいから質問に答えなさい」
どうしよう。どういうわけでこんな質問をされるのかわからないが、何だか厄介なことになりそうだ。
と、そのとき池の方で派手な水音がした。ボートをこいでいた青年が水の中にオールを落とし、慌てて拾おうとしているのが目に入る。
警官の注意が一瞬そちらへ逸れた隙に、シャーロットは踵を返しその場を逃げだした。
「待ちなさい!」
警官が後を追ってくる。
小太りの警官一人くらい、簡単に引き離せるはずだった。なにしろ農場ではしょっちゅうロジャーと追いかけっこをしていたのだ。足の速さでは絶対に負けない。
だが、ひとつ誤算があった。今朝、ブリジッドにコルセットを思い切りきつく締められたのを忘れていたのだ。少し走るとたちまち呼吸が苦しくなり、足元がふらつき、走る速度が格段に落ちた。
シャーロットは締め上げられたニワトリのように喘ぎながら、心の中でブリジッドを呪った。あまりの息苦しさに眩暈がしてくる。
前方の角をよろけるように曲がると、そこは人気のない小道だった。木陰に男が一人寝そべり、のんびり煙草をふかしている。男は閉じていた目を片方開けて、今にも倒れそうな様子で駆けてくるシャーロットを見るなり、興味深げに眉を吊り上げた。
しばらくして通りかかった警官が、寝そべっている男の前で足を止め、居丈高に尋ねる。
「おい、今ここを、緑の服を着た金髪の女の子が通りかからなかったか」
「ああ、その子ならあっちに走っていったよ」
警官が頷いて再び駆け出し、指で指示した先の角を曲がるのを見届けると、男は寝そべったまま頭を仰け反らせ、後ろの茂みにむかって声をかけた。
「もう出てきても大丈夫だぞ、お嬢ちゃん」
「ちょっと待って!」
茂みの陰から声がした。
「おい?」
訝しげな顔をして身を起こす男に、
「まだ来ちゃだめ!」
茂みの向こうでワンピースのボタンを外し、コルセットの紐を緩めようと悪戦苦闘していたシャーロットは、焦ってそう声をかけた。こんな姿を見られるのはあまりに格好が悪い。
何とかまともに息ができるようになって服のボタンを留め直すと、シャーロットは茂みから顔を出して、まだ少し息を切らしながら、男に礼を言った。
「あの、かくまってくれてありがとう」
「どういたしまして」
男は軽く帽子に手をやり微笑む。色褪せたフランネルのシャツに、薄汚れたズボンという出で立ちの青年だ。瞳はアイスブルーで、髪は金色。気だるげな顔をしているが、目つきは鋭い。
「それにしても、警官に追いかけられるなんて、一体何をやらかしたんだ?」
面白そうな表情で尋ねてくる。
「何もしてないわ」
シャーロットは首を振った。
「いきなり名前と住所を訊かれて、答えなかったら追いかけてきたのよ」
「なるほど」
男はシャーロットの顔を見てちょっと笑った。
「ひとりか?」
「だったらどうなの?」
「いや。この季節、お嬢ちゃんみたいな若い娘が、一人で公園をうろうろするのはよした方がいいぞ」
「どうして?」
「娼婦と間違われる」
唖然と目を見張るシャーロットに、
「春になると、客を求めて娼婦が公園をうろつき始める。だから、エスコートもなしに女が公園をうろうろしてると、警官に声をかけられるんだ」
「そんな!」
「そんなことも知らないとは、お嬢ちゃん、このあたりの人間じゃないな?」
「田舎からきたばかりなの」
「どうりで」
男が頷いたそのとき、さっきとは違う若い警官が、別方向からやってくるのが見えた。シャーロットははっと身構える。その様子を見て男は小さく笑うと、体を起こし、シャーロットに片手を差し伸べた。
「俺でよければ、しばらくエスコート役をしてやるが」
数分後、シャーロットは公園のベンチに腰かけていた。男がソーダ・ファウンテンで飲み物を買い戻ってくる。差し出されたカップをシャーロットは素直に受け取り、一口飲んで男に尋ねた。
「これは何?」
「ストロベリーソーダだ」
「おいしいわ」
警官に散々追いかけ回された後だけに、甘く冷たいソーダが乾いた喉に心地よかった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
男は微笑むと煙草に火をつけ、ベンチの端に腰を下ろす。
「で、本当はどうしたんだ、お嬢ちゃん? パパとママとはぐれちまったのか?」
「違うわよ」
シャーロットは首を振った。
「家、このあたりなんだけど……抜け出してきたの」
「これは参った。家出少女か」
男が驚いたような、呆れたような顔になる。
「名前くらいは聞かせてもらえるかな?」
「シャーロット」
「シャーロットか。俺はラリー」
名乗ると、困惑の笑みを口端に浮かべ、
「どうやら、さっき警官に追われているところを助けてやったのは、間違いだったようだ」
「だったらもう私のことは放っておいてよ」
「そうはいかない」
ラリーと名乗った男はかぶりを振った。
「一人でふらふらするのはあんまりお勧めしない。警官に引き渡してもいいが――」
ベンチから立ち上がりそうになるシャーロットを見て苦笑して、
「そうだな、田舎から出てきたばかりで色々物珍しいんだろ? よかったら、家出に飽きるまで、この公園を案内してやろうか?」
どうしよう。シャーロットは考える。相手はまったく見ず知らずの男だ。信用していいのだろうか。でも、一人になったら、また警官が追いかけてくるかもしれない。
「あなた、この公園に詳しいの?」
「しょっちゅうぶらぶらしているからな」
ラリーは答えて立ち上がった。
「お嬢ちゃんの気に入るものも、あるかもしれないぞ」
そう言って煙草をくわえたまま歩き出す。ついて来たければついて来ればいいが無理強いはしない、というその態度に、シャーロットは一瞬迷ったものの、ベンチから飛び降りて後を追った。一見ならず者みたいだが、悪い人とは思えない。
しょっちゅうぶらぶらしていると言うだけあって、ラリーは公園の地理に詳しかった。それに、人通りの少ない小道は避けて、賑やかで明るい道を選んで案内してくれたので、シャーロットも安心してついてゆくことができた。気さくな会話とさりげない気配りに、いつしか警戒心が溶けていく。
それにしても、呆れるほど大きな公園だった。丘があり、小川があり、林があり、花園があり、あちこちで芝生の上に布を広げてピクニックをしている人たちや、乗馬を楽しんでいる人に出会う。カフェや写真館、アイスクリーム売り場なども、いたるところに点在していた。
「きれいだけど、人工的なところね」
鴨が泳いでいる池の傍の小さなベンチに腰かけ、シャーロットが感じたままを口にすると、
「剥き出しの自然は、繊細な都会の人間の美意識に合わないんでね。いいところだけを寄せ集めて、加工して、きれいに配置してあるわけだ。これが文明化ってやつだよ」
ラリーは煙草をふかしながら肩をすくめた。
「まあ、公園はどこも大体こんなものだと思うが。お嬢ちゃんが住んでいたところにはなかったのか?」
「ないわ」
シャーロットは首を振った。
「あるのは草原と畑と広い空」
「カントリーガール」
ラリーは呟いて微笑んだ。
「まったく。最初見たときから、都会の人間にしてはずいぶんあか抜けないと思ったよ」
「ありがとう」
シャーロットは、目の前を通り過ぎてゆく着飾った都会の若い娘たちを眺めながら、肩をすくめた。
「都会の人みたいになりたくないわ」
「ほう?」
ラリーは煙草をくわえたまま首を傾げる。
「面白いことを言うお嬢ちゃんだな」
「そう言うあなたは何なの?」
「俺か?」
ラリーは片方の眉を吊り上げた。
「何に見える?」
シャーロットはまじまじとラリーを眺める。薄汚れたシャツにズボン、ならず者めいた微笑み、鋭いアイスブルーの瞳、昼間からこんなところでのらくらしている若い男。
「……ごろつき?」
ラリーは声を立てて笑い、濁った池に煙草を投げ捨てた。
「大体当たっているな」