田舎の少女と家出
「いやったらいや! 絶対にいや!」
農場を離れて、会ったこともない実の両親のもとへ戻るよう言われたとき、シャーロットは泣いて駄々をこねたのだ。
「シャーロット、待ちなさい!」
引き止める父親の言葉を無視して、納屋の梯子を昇り、ワンピースの裾をひるがして屋根裏に飛び込むと、さっさと梯子を引き上げて、誰も後から昇ってこられないようにする。
父が怖い声で降りてくるよう言っても、黒ずくめの弁護士がお嬢様を連呼しても、シャーロットは屋根裏の隅に隠れて、降りようとしなかった。
「すみませんが、しばらくそっとしておいてやってくれませんか。何しろ、あまりに急なことで……あの子が動揺するのも無理はないでしょう」
父がそう言って黒ずくめの弁護士を促し、皆を連れて納屋を出て行ったときには、心底ほっとしたものだ。
一人きりになると、シャーロットは膝を抱えて、思う存分泣いた。やがて日が落ち、辺りが真っ暗になっても、シャーロットはその場にうずくまり、じっとしていた。開けっ放しにしていた屋根裏の窓から、青白い月の光が差し込み、床をぼんやりと照らしはじめた頃、
「シャーロット」
不意に下から名を呼ばれ、シャーロットは顔を上げた。
「シャーロット。僕だ」
「ロジャー」
「少し話がしたい。傍に行ってもいいかい?」
この兄にだけは逆らえない。シャーロットは黙って梯子を下ろし、頬の涙をそっと拭った。
ぎしぎしと兄が梯子を昇ってくる音がする。
ロジャーは梯子を昇りきると、シャーロットのすぐ隣りに腰を降ろした。掘りたての土の爽やかな匂いと、温かな体温が伝わってくる。
「シャーロット」
「ここを離れたくなんかないわ」
シャーロットは拗ねた口調で切り出した。
「ね、ロジャー、父さんも母さんも私をよそにやったりしないわよね」
「シャーロット、よそにやるんじゃないよ。本当のご両親のところに帰るんだよ」
「いや!」
シャーロットはまた泣き出してしまう。
「私の家はここだけだもの! 知らない人の家の子になるなんて嫌よ!」
それから恨めしそうな顔になって、
「父さんも母さんもロジャーも、私がいなくなっても平気なのね」
「平気なわけないよ」
ロジャーは言った。
「寂しいよ。僕も、父さんも母さんも、お前を手放したくなんかない。でも、本当の両親が見つかったのなら、お前はそっちに帰さなくては。僕らにお前をここに留めおく権利はないんだ」
「そんなこと」
シャーロットは言いかけて、
「ロジャー、ロジャーはずっと前から知ってたの? 私が本当の妹じゃないってこと」
ロジャーは少しためらってから頷いた。
「何年か前に、偶然、父さんと母さんが話しているのを聞いてしまって」
「そうなの……」
では、長いこと知らないのは自分だけだったのだ。この家族の一員だと思っていたのに、実は自分だけよそ者だったとは。
「そうね」
シャーロットは無意識に掴んでいたロジャーのシャツから手を放し、半ば茫然と呟いた。
「よその子なのに、これ以上ここに置いてもらうわけにはいかないわよね。私、本当の両親のところへ行くわ」
「シャーロット、お前をよその子だなんて思ったことは一度もないよ」
「じゃ、どうして本当の両親のもとへ帰った方がいいなんて言うの?」
「ご両親に会ってみたくないのかい?」
反対に尋ねられ、シャーロットは軽く目を見張る。
「……わからないわ」
本当にわからなかった。考えたこともなかったのだから。自分を育ててくれた父と母のほかに、本当の両親がいるなんて。
「本当のご両親がどんな人たちかもわからないのに、会う前から拒絶するのかい?」
「だって」
「会ってみないと、好きになれるかどうかもわからないだろう?」
「それは、そうだけど」
「それにシャーロット、もう僕たちと会えなくなるわけじゃないんだよ」
ロジャーはちょっと笑って言った。
「たしかに、お前のご両親が住んでいるのは、ここからずいぶん離れた大都会らしいけど。ここまで遊びに来たくなったら、遊びに来られない距離じゃない。一生僕たちと離れ離れになるわけじゃないんだ」
「また会えるの?」
「もちろんさ」
ロジャーはシャーロットの頭を軽く叩いた。
「あの弁護士が言っていた。お前が望むのなら、来年の春、一度ここに戻ってきてもいいそうだよ」
「来年」
十五歳の少女にとって、来年とは気が遠くなるほど先のことだ。黙ってしまったシャーロットに、ロジャーは明るく笑って言った。
「一年なんてあっという間さ。それに、そうだ、手紙を書こう。農場の様子や、父さんと母さんが元気にやっているか、定期的に知らせるよ」
「手紙」
シャーロットはそれを聞いて、少し明るさを取り戻した。
「絶対よ。私もたくさん手紙を書くから、きっと返事をちょうだいね、ロジャー」
「ああ、約束しよう」
そういうわけで、シャーロットはシルヴァートン邸に着くなり、さっそく兄に手紙を書いた。週に一回、多いときは二回、新しい家での出来事を書き綴って、兄に送ったのだ。
兄から返事は来なかった。
一週間が経っても。
二週間が経っても。
一ヶ月が過ぎても兄からは、一通の手紙も届かなかった。
実は、シルヴァートン邸には、ロジャーからの手紙が、すでに二通も届いていたのだが、それらはシャーロットの手に渡る前に、執事頭によって処分されてしまっていた。シャーロットが早く農夫の家族のことなど忘れて、ここでの生活に馴染むようにと、シルヴァートン夫人が命じたことだった。同じ理由で、シャーロットが兄に宛てて書いた手紙も、投函される前に処分された。結果、シャーロットの手紙はロジャーに届くことがなく、またロジャーからの手紙もシャーロットに届くことはなかったのだ。
「きっとロジャーは、私のことなんか忘れてしまったんだわ」
シャーロットは手の中のカップを見下ろし、しょんぼりと呟く。
「仕方ないわよね。本当の妹じゃなかったんだもの」
「お嬢様」
コリンズが慰めた。
「何かの都合で手紙を出せないだけかもしれませんよ」
つまり、他にすることがあって忙しく、手紙など書いている暇もないということか。それはそれで寂しかった。絶対書いてくれると約束したのに。
ドアを軽くノックする音がして、ブリジッドが顔を覗かせた。
「礼儀作法の先生がいらっしゃいました」
シャーロットはため息をつく。一日中屋敷の中に閉じ込められて、次から次へとやってくる家庭教師に、教養だの作法だのを詰め込まれるのにはもううんざりだった。
「わかったわ、すぐ支度をするから」
小さく頷いて、ブリジッドが下がるのを見届けると、
「コリンズ、ダイニングに本を忘れてきちゃったみたいなの。取りに行ってきてくれる?」
「かしこまりました」
コリンズも一礼して部屋を出て行く。
ドアが軽い音を立てて閉まると、シャーロットは急いで立ち上がり、部屋の窓を大きく開いた。この部屋があるのは二階だが、ちょうどいい具合に、前庭の大木の枝が一本、手を伸ばせば届く距離に伸びてきている。シャーロットの体重を支えるには、充分な太さだ。
シャーロットは洋服ダンスに駆け寄ると、高価なドレスの束を掻き分けて、農場の家から持ってきたトランクを引っ張り出した。
数分後。
「お嬢様、本は見つかりませんでしたよ」
言いながら戻ってきたコリンズは、部屋のドアを開けるなり、目を見張って立ち尽くした。
部屋はもぬけの殻だった。
窓は大きく開け放たれ、吹き込んでくる風にレースのカーテンが揺れている。傍の椅子には、先ほどまでシャーロットが着ていた絹の室内ドレスが無造作に掛けられ、床には開けっ放しのトランク。中を引っ掻き回した形跡があり、質素なワンピースやブラウスが辺りに散らばっている。
テーブルの上にはメモが一枚。それを読みコリンズは唖然となった。
夕食までには戻るわ。心配しないで。
「お嬢様あああ!」
コリンズの叫び声が、シルヴァートン邸にこだました。