田舎の少女とはじめての海
「着きましたよ」
「わあ!」
ローレンスの手を借り馬車を降り、シャーロットは目を丸くした。これまで内陸部の田舎でずっと暮らしていた彼女にとっては、生まれて初めて見る海だった。
「すごい。広いのねえ!」
歓声を上げるシャーロットに、ローレンスは微笑んで、
「夕食の時間には戻れそうもありませんね。レ・フィロゾフでディナーを食べて帰りましょう。予約を入れてありますから」
「ローレンス様」
ジョーンズが眉を吊り上げる。
「そんな話は伺っておりません」
「言わなかったか?」
ローレンスは首をひねった。
「そうか。うっかりしていたよ。悪かったな。とにかく帰りはレ・フィロゾフで降ろしてくれ。あそこは予約を取るのが大変なんだ」
「いい加減にしてください」
ジョーンズは尖った声で言った。
「こんなことばかりしていては社交界の噂になります」
「噂?」
ローレンスは穏やかに言った。
「くだらないゴシップなど放っておけ。都会に来てまだ間もない小さなレディを慰めるのに何の問題がある?」
「ですが、レッドモンド嬢が快く思っていません」
「レッドモンド嬢? レッドモンド嬢とこれとどういう関係があるんだ?」
ローレンスはさも驚いたという顔をして、自分とレッドモンド嬢を何とか近づけようと密かに苦心している従者を見た。
「……いえ、なんでもありません。失礼いたしました」
内心歯ぎしりしたい思いだろうが、何とか無表情を装って、ジョーンズはゆっくりお辞儀をし、馬車を近くの厩舎に預けに向かう。
「……あんまりお目付け役の神経を逆撫でしない方がよくない?」
シャーロットが小声でささやきかけると、ローレンスは笑って言った。
「あいにく私は楽しんでいるのですよ。いつもあれこれうるさいジョーンズを、ああやってやり込めることができるのは、気持ちのいいものですね」
「私をだしにして?」
咎めるような視線をシャーロットが向けると、
「あなたも楽しんでいるではないですか」
ローレンスはにっこりと微笑んだ。
「こうして毎週気晴らしに連れて行ってあげているでしょう? 私はジョーンズの苛立った様子が見れますしね。お互い様ではないですか」
「それはそうだけど」
お互い様どころか、助かっているのはシャーロットの方だ。ローレンスのおかげで窮屈な屋敷をおおっぴらに抜け出すことができる。それにローレンスは会話が巧みで、一緒にいて退屈することがなかった。ローレンスといる間だけは、シャーロットは農場の家から手紙がこないことも、母親だと思っていた女性が実は義理の母親で、どう思われているのかと悩んでいることも、忘れることができるのだった。
「でも、最近ドリスったらかんかんなんだもの」
シャーロットはローレンスが開いて差しかけてくれた日傘を手を伸ばして奪うと、頭上でくるくる回して言った。
「この前のお茶会の時だって、近づくとはっきり敵意が伝わってきたわ。まるで恋敵か何かみたいに思われてるみたい」
「それは大変だ」
ローレンスはくすっと笑って言った。
「では、明日はレッドモンド嬢の機嫌をとりに行ってきましょう。赤いバラの花束を持って、オペラにでも誘うとしましょうか」
ローレンスがにっこりと微笑み、とろけるような優しい声をかけるだけで、ドリスはたちまち有頂天になって機嫌をなおすだろう。
軽薄で不実な男性は好きじゃない。
「イザベラの言ってたとおりかもね」
「え?」
「何でもないわ」
シャーロットが答えると、
「ローズデイル嬢が何か」
ローレンスが尋ねてきた。さり気なさを装おうとして失敗している。
シャーロットは首を傾げる。ローレンスの前でイザベラの名前を出すのはこれが二度目だったが、どちらも普段悠然としているローレンスから不自然なほど動揺した反応を引き出した。
口を開こうとしたシャーロットは、ふと視線を海の方へ向け目を見張った。
「見て! 船だわ!」
「船ですね」
戸惑った声で応じるローレンスに、
「あんな大きなものがよく水に浮ぶわね」
「船を見るのは初めてですか」
ローレンスが破顔した。
「まるで草原を横切る幌馬車みたい」
「だから幌馬車のことを草原の船と呼ぶのです」
「物知りね。いまごろ草原ではひまわりの花が――」
言いかけてシャーロットは言葉につまった。
「シルヴァートン嬢」
ローレンスの手が肩に触れる。
「ごめんなさい」
「そんなに田舎が恋しいですか」
「もうホームシックから卒業しなきゃ」
ローレンスはシャーロットの肩を抱き、紺色の海を横切ってゆく船を眺めながら優しく言った。
「もう少し近づいてみましょうか。あちらの桟橋まで行けばもっとよく見える」
灯台の傍にある桟橋の上に立つと、頭上をかもめが飛んでゆく。
「そうだわ」
シャーロットは努めて明るい声を上げると、くるりと日傘を回しローレンスに尋ねた。
「今度うちで晩餐会を開くってお義母様が言っていたけど。あなたのところにも招待状は行っているのかしら」
「きてますよ」
ローレンスは微笑んで頷く。
「無理して来なくてかまわないのよ。きっと退屈だわ。私だってできれば仮病でも使って欠席したいくらいなんだから」
「いいえ」
ローレンスはかぶりを振って、ちらと背後に視線を流した。つられてシャーロットも後ろに目をやると、馬車をしまい終わったらしいジョーンズがこちらに向かってやってくるところだった。桟橋の上に寄り添うようにして立っている自分たち二人を見て、苦りきった顔をしている。
「喜んで出席させていただきますよ」
ローレンスはにっこり笑ってシャーロットに言った。
「退屈するとは思えませんね」




