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カントリーガール  作者: julie
Chapter. 1
2/46

田舎の少女と大都会

「お嬢様」

 恭しく声をかけられ、シャーロットは我に返った。

「お嬢様、お加減でもお悪いのですか?」

 執事のコリンズが気遣わしげな顔で、シャーロットの目を覗き込んでくる。


「何でもないわ。ちょっと考え事をしていただけ」


 シャーロットは慌てて首を横に振ると、窓の外に視線をやりため息をついた。見慣れた広い草原はそこにはない。代わりに整然と並ぶ石畳の上を、きらびやかな二頭立て馬車が、立派な服を着た紳士淑女を乗せて、優雅に通り過ぎてゆくのが見える。


 まったく何もかも夢のようだ。それも、どちらかというと悪夢に近い。シャーロットは再びため息をつくと、ドレスのひだを伸ばしながら、ここ一ヶ月の間に自分の身に起こったことを思い返してみた。


 家族から無理やり引き離されて、黒ずくめの弁護士に連れられ、生まれて初めて列車に乗った。いや、弁護士の話によると、まだ赤ん坊だった頃、本当の両親と列車で旅をしたことがあるそうだから――なにしろ、父に拾われたのも、列車の中だったというのだ――生まれて初めてというのは語弊があるが。それでもシャーロットの記憶に残っているかぎりでは、これは初めての列車での旅になった。これまで移動手段といえば父の荷馬車しかなかったし、荷馬車で日帰りできないほど遠い場所へは、行ったことがなかったのだ。


 列車にはまるまる五日も乗っていた。まったく信じられないことだ。こんなおそろしい速さで移動して、それで五日もかかるとは。一体どれだけ家から離れてしまったのだろう。不安に思いながら列車を降りると、そこにはまるで別世界としか言いようのない光景が広がっていた。


 石畳で舗装された広い通り。左右にずらりと並ぶ洒落た街灯。そして目が眩むほど高く立派な建物の数々。まるで地面からにょきにょきと生え、天を目指しているように見える。それに、ものすごい人の数。この世にこんなにたくさん人の集まる場所があるなんて、シャーロットは想像したこともなかった。活気に溢れた大都会。


 茫然とその場に突っ立っていると、弁護士が慣れた様子で通りかかった辻馬車を止め、手を貸してシャーロットを乗せてくれた。


 馬車は賑やかな通りをどんどん走ってゆき、いくつもの角を曲がり曲がって、お城のように大きな邸宅の前で止まった。それが今シャーロットのいる屋敷――彼女の本当の両親の住居である、シルヴァートン邸なのだった。


 屋敷についたのは、昼過ぎだった。弁護士について門をくぐり、足を踏み入れたのは、ダンスパーティが開けそうなほど広い玄関ホール。ぴかぴかに磨かれたタイルの床には顔が映りそうで、天井にはシャンデリア、壁には美しい風景画が何枚もかけられている。


 しばらくすると、髪の白い執事頭が現れ、シャーロットの顔を見て、一瞬固まった後、すぐに恭しく一礼し、客間にご案内しますと告げた。


 客間の華美な装飾には目を奪われた。床に敷き詰められたふかふかのカーペットは美しいバラの模様で、靴で踏んで歩くのが申し訳ないくらいだ。マントルピースの上には黒大理石の置時計に、ペガサスに跨った戦士のブロンズ像。窓にはたっぷりひだのある緑の横畝織りのカーテンが垂れ下がり、壁にはいかめしい肖像画が整然と並んでいる。椅子とテーブルには凝った彫刻が施され、アップライトピアノの上には、金縁の巨大な鏡がかけられている。


 弁護士にうながされてソファの端に腰かけ、シャーロットがほとんど呆気にとられて部屋の中を見回していると、部屋のドアが開き、黒い口髭を生やした紳士と、美しい婦人が入ってきた。


 シャーロットが顔を上げると、紳士は大きく目を見張り、婦人は音を立てて息を飲んだ。二人はしばらくシャーロットを見つめたまま、凍りついたようにその場に立ち尽くしていたが、やがて紳士が低く掠れた声で言った。


「キャサリン」


 シャーロットが、それが自分の名前だと思い出すより早く、紳士はよろよろとシャーロットに駆け寄ると、いきなりその場に膝をつき、シャーロットを強く抱きしめた。


「こんな……ああ、信じられない。キャサリンだね、こんなに大きくなって――」

「あっ、あのっ……」


 シャーロットが驚いて身を引こうとすると、紳士は苦笑して、シャーロットの身体をそっと放した。


「すまない。私のことを覚えているわけがないね。お前はまだほんの赤ん坊だったのだから」

 そう言うと、感情の昂ぶりを抑えるように小さく息を吐き、シャーロットの顔を覗き込んで、


「キャサリン。私がお前の父さんなのだよ」


「私があなたの母親です」

 婦人が穏やかな声で言うと、シャーロットの横に膝をつき、彼女の着ているキャラコのワンピースの袖に手を触れ、夫の顔を見上げた。


「この子にこんな格好をさせていてはいけないわ、エドマンド。もっとましな服に着替えさせましょう」

「そうだな。すぐに女中に言いつけて用意させよう」

 紳士が手を伸ばし、呼び鈴を鳴らす。


 結構ですと言える雰囲気ではなかった。シャーロットが着ていたワンピースは、春がくる前に母が仕立ててくれたばかりのもので、彼女が持っている服の中で一番上等なものだったのだが、この屋敷では、先ほど玄関ホールでちらと見かけた女中さえ、もっと立派な服を着ているのだ。


「農夫の家庭で育てられたんですってね」


 婦人は、薄紫の絹のドレスの袖を揺らめかせると、シャーロットの腕を優しく叩いた。


「かわいそうに。読み書きはできるの? そう。では、フランス語は? まあ、できないの! でも大丈夫ですよ。すぐに優れた家庭教師をつけてあげます。ピアノと礼儀作法の先生もね。心配することはありませんよ。すぐに名門シルヴァートン家の一人娘として恥かしくないレディになるわ」


「あのちょっと――」

「ブリジッド。娘の着替えを手伝ってやってくれ」

 紳士がやってきた女中に指示を出す。

「はい、旦那様」


 反論する間も与えられないまま、女中に急かされ、客間を退出することになったシャーロットの視線の片隅で、シルヴァートン夫妻が、黒ずくめの弁護士に感謝の笑顔を向けるのが見えた。


「ご苦労だった、ポールワース。本当に、君にはなんと礼を言っていいかわからない」


 それきりシャーロットはシルヴァートン夫妻に会っていない。同じ屋敷に住んでいる家族なのに、一ヶ月も顔を合わさないなんて、シャーロットにはあまりに奇妙なことのように思われた。


「仕方ないでしょう。旦那様はお仕事、奥様は社交にお忙しいのですから」

 当たり前のことのように言う女中のブリジッドに、


「でも、家族なら、夕ごはんくらい一緒に食べるものじゃないの?」


 ブリジッドはまじまじとシャーロットの顔を見つめ、それから蔑みの形に唇を歪めた。


「お嬢様。農夫の家庭ではそうかもしれませんが、上流階級では風習が異なりますので」


 その上流階級の家庭では、多忙な両親の代わりに、家庭教師の一団がシャーロットの面倒を見ることになった。農夫の家庭で育てられた無知で無学な田舎娘を、名門シルヴァートン家の名に恥じないレディとして教育するためだ。


 朝は遅く、起きるのは九時。毎朝、ブリジッドが起こしにくるまで、ベッドの中でおとなしくしていなくてはならない。農場では、いつも日の出とともに起きるのが習慣だったので、初めの日は六時前に目が覚めてしまい、服を着替えて部屋からさ迷い出たところで、執事頭に捕まった。


「おはようございます、お嬢様。どうかなさったのですか?」

 礼儀正しく一礼し、声をかけてくる執事頭に、

「キッチンはどこかしら?」 

「お腹がお空きになられたのですか」

「朝ごはんの支度を手伝うわ。それから乳絞りをする牛は……いないわよね」


 無言でじっと見つめられ、シャーロットの声が小さくなる。農場の家では、朝の乳絞りがシャーロットの日課だったのだ。あとはにわとり小屋の掃除と、めんどりが産んだ卵を集めることも。


「朝食の用意をさせましょう」

 執事頭は静かに言うと、踵を返し、

「コリンズ! 朝食の仕度をして、お嬢様のお部屋へお運びしろ」


「待って!」

 シャーロットは慌てた。

「朝食の仕度くらい自分でできるわ」

「そうですか」

 執事頭は穏やかな声で言った。


「ですがお嬢様、この屋敷では、家事を含む雑用はすべて私ども使用人が担当することになっております。ここにいらしたからには、ここの風習に従っていただかなくてはなりません」


「じゃあ、私は何をすればいいの?」


 困惑して尋ねるシャーロットに、執事頭は深々と礼をして、


「早く、名門シルヴァートン家の令嬢にふさわしい教養と、礼儀作法を身につけられることですな」


 シャーロットは恥かしさで真っ赤になった。


 その後、自分が早く起きたせいで、厨房が軽い混乱に陥ったと知った。それからは、たとえ早く目が覚めても、ブリジッドが起こしにくるまで、おとなしく部屋でじっとしていることにした。


 朝食は、大抵トーストに卵、ベーコンかハム、それから美しく盛り付けられたフルーツ。執事のコリンズが銀の盆に乗せて、恭しく部屋まで運んでくる。朝一番で花屋から届いた、バラを活けた花瓶も一緒にだ。


 着替えは朝食の前に済ませている。ブリジッドにコルセットを窒息しそうになるほどきつく締められ、その上にモスリンや絹の室内ドレスを着せられる。レースやフリルがふんだんについているもので、どこかに引っかけて破りはしないかと、着ていて冷や冷やしっぱなしだ。農場の家から持ってきた服が入ったトランクは、大きな衣装ダンスの奥に押し込まれてしまった。良家の令嬢が着るには、ふさわしくないというわけだ。


 朝食が済むと、家庭教師がやってくる。フランス語にラテン語、地理に文学、昼食をはさんでピアノとダンス、それから礼儀作法というのが、いつものコース。


 家庭教師が帰ると、夕食の時間。真っ白なリネンのクロスが掛けられたテーブルには、牡蠣のスープだの海老と蟹の煮込みだの、食べたこともないご馳走が並び、執事が恭しく給仕してくれる。だが、広く立派な食堂で一人きりでとる夕食は、味気なく、そしてとても寂しかった。


 夕食が済むと、自室に戻って本を読んだりぼんやりしたり。しばらくするとブリジッドやってきて、寝間着に着替えさせられ就寝となる。毎日毎日、その繰り返し。屋敷の外に出ることは許されておらず、何ひとつ不自由することはないものの、まるで囚人のような生活だ。シャーロットはすぐにここでの暮らしが大嫌いになった。


「お嬢様、どうぞ」

 執事のコリンズが熱い紅茶をカップに注ぎ、そっとシャーロットの前に置く。

「自分でできると言ったでしょ」

 シャーロットは言葉を返して、

「でもありがと」

「どういたしまして」

 コリンズは微笑んだ。


「早く慣れてくださいね」

「悪いけど、一生無理な気がする」

 シャーロットは小さく呟き、コリンズが淹れてくれた紅茶を一口すする。


 コリンズは、この屋敷で一番若い執事で、シャーロットの世話係だった。まだ少年っぽさの残る顔立ち、淡いブロンドに、とても穏やかな青い目をしている。シャーロットの面倒を見るようシルヴァートン夫妻から直々に命じられたそうで、いつも彼女の傍に付き添って、何かと世話を焼いてくれた。この屋敷でシャーロットが唯一、気軽に話せるようになった相手だ。


「農場の家にいるときは、何でも自分でできたのに、ここじゃ、着がえすら一人でさせてもらえないなんて」

「ところ変われば風習も変わります」


「それにしたって。今年は私、パイの作り方を覚える予定だったのよ。まだあまり難しい料理はできないんだけど、ケーキはとても上手く焼けるようになったの。今度、この屋敷の人たちにも作って食べさせてあげたいわ」


「お嬢様が、使用人のために料理をなさるのですか?」

 コリンズは微笑んだ。

「奥様がお許しにならないでしょう」


「奥様は、お料理しないの?」

「お嬢様、あなたの母上ですよ」


「お母様は、お料理しないの?」

 シャーロットは言い直した。


「なさいません。それはコックの仕事ですから」

「変なの」

「奥様が料理などなされば、まともなコックを雇う金もないのかと、回りから軽蔑されることになるでしょう」


「へえ」

 シャーロットには理解できない。


「お母様、とてもきれいな人よね」

「皆さんそうおっしゃいます」


 シャーロットは紅茶を飲みながら、一度しか会っていないシルヴァートン夫人の顔を思い出してみた。


 肌は抜けるように白く、髪は灰色がかった栗色、瞳は濃いこげ茶色をしていた。くっきりと弧を描く眉に、意思の強そうな赤い唇、話し方は優しかったが、てきぱきしていて逆らうことを許さないような響きがあった。何となくシャーロットが苦手なタイプだ。実の母親に対してこのような印象を持つのは、悪いことだと思いはしたが。自分の顔を覗き込んだときの夫人の目には、思いやりと同情のほかに、どこか値踏みするような光が浮かんでいたような気がする。


 父親であるシルヴァートン氏の方からは、人のよさそうなおじさんという印象を受けた。髪は黒で目は緑。背は高く、よく手入れされた口髭をはやしている。いきなり抱きしめられたときはびっくりしたが、シャーロットが戻ってきたことを、本心からうれしい驚きと受け取っているように見えた。


「なのに、同じ家で暮らしているのに、全然会わないなんて」

「旦那様も奥様も、お忙しい方ですから」

 コリンズが答える。


「それでも、お二人ともお嬢様が戻っていらして、とてもお喜びになっておられますよ。こうして、一流の家庭教師をたくさんおつけになったのも、お嬢様のためを思われてのことです」


「でも、食事くらい一緒にしてもいいのに」


 シャーロットはため息をつく。別に実の両親にもっとかまってもらいたいわけではないのだが、ここまで放ったらかしにされていると、何となく寂しい気持ちは否めない。これまでずっと、優しい父と母と兄に囲まれて過ごしてきたシャーロットには、一家団欒などにはまるで興味がないらしいこの上流階級の家庭は、どこか冷たいものに感じられた。農場の質素だが温かな家庭が懐かしい。

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