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カントリーガール  作者: julie
Chapter. 1
1/46

田舎の少女と大草原の小さな家

 空にも、風にも、大地にも、春の匂いが満ちていた。


 白い綿雲は高く浮び、日の光が澄んだ空気に溶けている。どこまでも続く草原の緑は目に痛いほど鮮やかで、風はかすかなスミレの香りを漂わせている。頭上を軽々追い越していったマキバドリにつられるようにして、シャーロットは緩やかな丘の斜面を一気に駆け上った。手にしたトウヒのバスケットの中で、冷たい水の入ったガラス瓶がかちゃかちゃと音を立てる。


 小高い丘を上りきると、眼下に種をまいたばかりの小麦畑が広がる。そのさらに向こうの土地を耕している青年に、シャーロットは大きく手を振り声をかけた。


「ロジャー兄さん!」


 青年が農作業の手を止め、聞こえたしるしに帽子のひさしを片手で持ち上げる。


 シャーロットは全速力で丘を駆け下り、勢いあまって兄の傍を少し行き過ぎたところで急停止した。風に引っかき回されたせいでくしゃくしゃになった髪を片手で押さえ、息を切らして振り返ると、兄の呆れたような笑顔が目に入る。 


「鳥と競争でもしていたの? 日よけ帽のリボンが絡まってるよ」

「それは羽根がないぶんいくらか不利だわ」


 シャーロットは答えながら、羽根の代わりに自分の背中にぶら下がっている日よけ帽の絡まったリボンをほどく。帽子の重みで後ろに締めつけられていた首が楽になり、ほっとして深く息を吸い込むと、たちまち涼やかな空気が胸を満たした。


「日差しがきつくなってきたから、日よけ帽をかぶらないと母さんが家から出してくれなくて」


 ため息をつき、明るく晴れ渡った青空を見上げたところで、手に持っていた帽子を取り上げられて、ぽんとぞんざいに頭に乗せられた。


「ほら、鼻の頭を日焼けして、母さんに叱られたくなかったら、せめてそこの木陰にお入り」


 シャーロットは今年で十五歳になる。父と母と二つ年上の兄のロジャーと、草原の真ん中の農場で四人暮らしだ。一番近い町まで二十マイル、隣の農場までも五マイルという田舎。この自然に溢れた広大なカントリーサイドが、今、シャーロットが一番好きな季節の巡りに輝いている。


「今日は、家事が早く終わったから、お水とお昼ごはん、持っていっておいでって」


コットンウッドの木陰に兄と並んで入りながら、シャーロットはバスケットにかけていた布を持ち上げてロジャーに見せる。


「ああ、ありがとう、助かるよ」

 妹が差し出した水の入ったガラス瓶を、ロジャーは礼を言って受け取った。


 長い冬がようやく終わり、農場は一年で一番忙しい季節を迎えていた。父さんとロジャーは、ここ二週間で小麦とカラス麦の種をまき、今はトウモロコシ畑に取りかかっているところで、その次はカボチャで、それが終ったら種ジャガイモの畑にくわを入れ……とにかく春は忙しい。だが、茶色に枯れていた草原が緑に息を吹き返し、スミレやキンポウゲの花が咲き、新しいものがどんどん育ってゆく季節が、シャーロットは好きだった。


「今日は一人で大変じゃない、ロジャー? 種まきなら私、手伝えるわよ」

 水を飲む兄の横顔を見ながら、シャーロットは申し出る。


 いつもは父さんとロジャーが二人で行う農作業だが、今日は父さんは壊れたくびきを直しに、荷馬車で町まで行っている。ついでに母さんに頼まれた赤砂糖と、シャーロットにはキャンディを買ってきてくれると約束してくれた。


「大丈夫だよ、もう少し耕したら終わりだから。一休みしよう」

 ロジャーは答えて、手にしていたくわを木に立てかけた。帽子を脱いで小さく頭を振ると、コーヒー色の髪が風に揺れる。いつも畑で働いている兄からは、暖かな日差しと掘りたての土のいい匂いがした。


「昨日焼いたケーキも持ってきたの」

 シャーロットは話しながら、木陰に布を敷いてバスケットの中身を並べていった。厚切りのハムにコーンブレッド、今朝めんどりが産んだばかりの卵、ベイクドポテトに干しリンゴ、パウンドケーキにプラムのプリザーブを詰めた小瓶。


「すごいご馳走だね」


 褒められて気をよくしたシャーロットは、ワンピースのしわを伸ばして兄の隣に腰を下ろす。足元にやってきた地リスの親子が、物欲しげな視線を草の上に広げられた昼食に向けているのを見て、干しリンゴのかけらを差し出してやると、たちまち二匹は飛びついて、両手で抱えてかじりだした。


「ここに来る途中、もう野イチゴの花が咲いているのを見たわ」


 二人で昼食を終えると、シャーロットは、はだしの足を草の上に投げ出して言った。


「今年も野イチゴのジャムを作ろうかな。アオカケスに食べられる前に採りに行かなきゃ。ロジャーも一緒に来てくれる?」

「ああ、またイバラの茂みに踏み入って、足を切り傷だらけにしないようにね」

 柔らかな草の上に寝転がり目を閉じていたロジャーが答える。その整った穏やかな顔を見下ろして、シャーロットは複雑な思いで膝を抱える。


 ロジャーはこのあたりの女の子たちの憧れの的だ。背が高く格好よくて、真面目で働き者で、それにとても優しい。とりわけ素敵なのはその笑顔で、眩しい木洩れ日を思わせる。ロジャーと一緒に町に行くたび、若い娘たちの視線が兄に集中するのを感じ、シャーロットは落ち着かない気分になる。だが、今のところロジャーは妹の面倒を見るのに手一杯で、他の女の子のことまで気が回らないらしかった。


 シャーロットは、自分のほつれたトウモロコシ色の長い髪を今さらのように見下ろし、ため息をつく。そういえば、町で見かける女の子たちは、ちゃんと日よけ帽を目深にかぶって、髪の毛だって水色や赤のリボンで結んで、間違っても鳥の巣みたいなことにはなっていない。それに服だって、かぎ裂きや焦げ穴を繕った跡がひとつもないような、きれいなものを着ているのだ。今年はイバラの茂みは避けて、あと、キッチンでは火の粉で服を焦がさないよう、これまで以上に気をつけよう。そんなことを考えながら、絡まった髪を手櫛で整えていると、目の前に広がる畑の向こう、緑に萌える小高い丘を、荷馬車が通り過ぎてゆくのが見えた。


「あ。あれ、父さんの馬車じゃない?」


 立ち上がって目を凝らすと、御者席で手綱をとっているのは確かに父で、その隣りには、黒いトップハットをかぶった痩せた男が乗っている。あんな帽子をかぶっている人は、このあたりでは巡回牧師くらいしか見たことがない。


「お客様かしら?」

 首を傾げるシャーロットに、

「さあ。でも、こんな時間に戻ってくるなんて早すぎるよ。今日は夕方になると言っていたのに」

 すでに身体を起こしていたロジャーが、腑に落ちない顔でつぶやいた。

「行ってみよう。何かあったのかもしれない」


 兄の後について草原を横切り、わだちの跡を追ってしばらく行くと、干した洗濯物がはためく向こう、丸太を組み合わせて造った小さな家が目に入る。父さんが木を伐り出して建てた家で、煙突や暖炉の部分は、川で拾ってきた石を積み上げ、泥を漆喰がわりに固めたものだ。


 荷馬車がしまわれている古い納屋の横を通り過ぎ、家の前までたどり着いたところで、中から何かが割れる鋭い音した。


 ロジャーが表情を固くして、無言で家のドアを開ける。


「母さん、ただいま」

 シャーロットが兄の後ろから中をのぞくと、青ざめた母の顔がまず目に飛び込んだ。その足元には、手から滑り落ちたらしい水差しが粉々になって散らばっている。


 部屋の中央、テーブルの前に置かれた椅子に、先ほど荷馬車に乗っていた黒ずくめの男が座っていた。ヤギのようなあご鬚を生やし、鼻眼鏡をかけた初老の男だ。シャーロットの顔を見るなり、はっと息をのんで椅子から立ち上がる。何か言いかけたのを父が遮り、ロジャーに中に入るよう促すと、シャーロットには怖い顔を向けて言った。


「シャーロット。お前はちょっと出ていなさい」


 なんだかおかしな雰囲気だ。シャーロットは戸惑いつつも、頷いて父の言葉に従う。目の前で閉ざされたドアの前でしばらく立ち尽くしていると、母が戸惑ったような、怒ったような声で何か言っているのが聞こえてきた。


 一体何があったのだろう。良いことでないのは確かだ。


 渦巻く不安を胸に抱え、シャーロットはその場を離れた。留まって立ち聞きすることもできたが、盗み聞きなど父に知られたら、あとでこっぴどく叱られるだろう。


 特に何もすることがないので、納屋に行き、馬に新しい水をやる。だが、気持ちが落ち着かないせいで、井戸から水を運んでくる途中に、ずいぶんバケツの水をはねさせて、エプロンの前をびしょびしょにしてしまった。


 シャーロットはため息をつくと、濡れたエプロンを横木にかけて、水を飲む馬の頭をそっと撫でる。それから、屋根裏に本を置きっぱなしだったことを思い出し、足元にまとわりついてきた愛猫のスノウフレークを拾って、梯子を昇って屋根裏に向かった。


 納屋の屋根裏は広々としていて、甘い匂いのするわらが敷き詰められている。空気は乾燥していて埃っぽい。壁板の隙間から差し込むわずかな光が、宙を舞う塵をきらきらと輝かせていた。


 シャーロットは木の箱の上に置いてあった本を取り上げ、屋根裏の古びた窓を押し開けた。涼しい風が吹き込んできて、澱んだ空気を押し流す。わらの上に腰を降ろし、本のページを開いて読もうとしたが、内容はちっとも頭に入ってこない。不安が胸につかえている。


「シャーロット」


 何度も同じ行ばかり目で繰り返し追い続け、下から兄に名を呼ばれたときは、シャーロットは心底ほっとして、少しも読み進まなかった本を閉じた。


「ロジャー」

 急いで梯子を降り、ワンピースについたわらを払い落としながら、兄に尋ねる。

「ねえ、一体何なの? あの男の人は誰?」

「弁護士だ」

「弁護士?」


「ああ。ここからずっと遠く離れた、大都市からやってきたそうだ」

「そんな遠くから何しに来たの?」

「貴女を迎えに来たのですよ」

 よく通る男の声が納屋に響き、シャーロットは振り返る。


 弁護士だという黒ずくめの男が、真っすぐ自分の方へ近づいてくるところだった。警戒心が働き、思わず兄の腕を掴んでその背後に身を隠そうとすると、男は立ち止まって身をかがめ、眼鏡越しにシャーロットの顔を見て、安心させるように言った。


「ウォルター・ポールワース、弁護士です。あなたのお父上から、貴女を探すよう仰せつかっている者です」

「父さんから?」

 シャーロットは困惑顔で、男の後ろに立っている父に目を向ける。


「その人ではありません」

 男が首を横に振った。


「私が言っているのは、貴女の、本当のお父上――エドマンド・シルヴァートン氏のことです」


「何?」

 シャーロットは一歩あとずさる。

「私、そんな人知らないわ」


「そう、貴女は何も知らされていなかったのですよね」

 男はため息をつき言った。


「最初からお話ししましょうか、お嬢様。今から、十五年前のことです、生まれたばかりの貴女が、行方不明になったのは。貴女の本当のご両親――シルヴァートン夫妻は、赤ん坊の貴女を連れて、田舎のヴィラに休養に行った。その帰りに、乗っていた列車が酷い事故を起こして、混乱の中、貴女はご両親と離れ離れになってしまったのです」


 この人、何を言ってるの? わけがわからず、シャーロットが父に再び視線をやると、


「その事故を越した列車に、私は偶然乗り合わせていたんだよ」

 父が苦しげな表情で言った。


「横転し、めちゃくちゃになった車内で、逃げ惑う乗客たちに踏み潰されそうになって泣いているお前を見つけた。とっさに抱き上げて両親を探したが、列車の中は酷い騒ぎで。結局、どうしてもお前の両親を見つけることはできなかった。それで、お前を家につれて帰って、母さんと相談して、うちの子として育てることにしたんだ」


「あなたには本当に感謝していますよ、クレイグさん」

 黒ずくめの弁護士は父に言った。


「あなたがいなければ、彼女は列車事故の混乱の中で、命を落していたでしょう。実際、大怪我をして亡くなった幼い子供もたくさんいたんです」


「そんな」

 シャーロットは混乱して口を挟む。

「何言ってるの? 私は最初からこの家の子よ? そうでしょ、母さん?」


「シャーロット」

 母が辛そうに言った。

「あなたをシャーロットと名づけたのは、私なの。父さんが、あなたを連れて帰ってきたとき、あなたが着ていた服の裾に、C・E・Sとイニシャルの縫い取りがあったから」


「シャーロットではありません」

 弁護士は重々しい口調で言った。


「キャサリン・イレノア・シルヴァートン。それが貴女の本当の名前です」


 まったく聞いたことのない名前で呼ばれ、シャーロットは絶句して立ち尽くす。


「ロジャー?」

 おそるおそる兄の顔を見上げると、兄は険しい表情のまま口を開こうとしない。いつものように笑顔で応えてくれない。


 そんな兄の様子に、シャーロットは体温がすっと冷えるのを感じる。目の前の黒ずくめの男が告げているのは、信じたくないが、おそらく本当のことなのだ。


「……それで」

 シャーロットは兄のシャツの袖を強く握り締めたまま、茫然とした声で囁いた。


「それで、私どうなるの?」

「帰りましょうね」

 弁護士はシャーロットに片手を差し伸べ、微笑んで言った。


「大丈夫、何も心配いりませんよ。本当のご両親が、貴女の帰りをずっとお待ちです」

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