婚約を破棄する為に
「さぁ、ここからが本番だ」
私は豪華なベットの上であぐらを組み、気合を込めるように両頬を叩いた。
私の名前はドンラスカ=ツナイベル=ティンゲルチア。
マスタイ王国の有力貴族の三男だ。
それなりに不自由のない暮らしに、安定している将来。人から見れば羨ましい存在だろう。
しかし、誰も私の生まれながらに背負った苦しみを知らない。
貴族というものは、小さな頃に許嫁が決められる。
もちろん本人の意思など入る隙も無い。親同士、もしくは他の権力者によって決定されてしまう誓約。
私も貴族の一員として当然だと考えているが、何せ相手が悪すぎる。
ドランスカ=ミバウ=シグナシア
私の又従姉妹であり許嫁。
極端に歳が離れているわけでも、見るに耐えない容姿というわけでもない。
私と同じ歳で、パッと見だが美人に見えなくもない。
問題なのは性格の方だ。
人を見下し、人の不幸を幸福と感じるような性悪女。
早くから許嫁として決まっていたので、物心つく頃からの付き合いなのだが、良い思い出は一つもない。
幼少時代はいきなり後ろから蹴飛ばされ、倒れた私の顔を踏み付ける事なんかはザラで、ゴミ虫を見るような目で「こんな頼りない男が未来の旦那? 反吐が出るわね」と唾を吐きかけられたりもした。
大事にしていた本を切り刻まれたり、川に突き落とされた事もある。
ある日、耐えかねた私は両親に全てをぶち撒けたのだが、「それは愛情の裏返しよ」と簡単に流されてしまった。
好きな人をいじめる心理ってものがあるのは知っているが、ヤツが私の不幸を見て愉悦に浸る表情は断じてそれでは無い。
私ももうすぐ18歳。半年もすればヤツと結婚しなければならない。
ヤツを殺してしまおうかと考えた事もあったが、私1人の問題では済まなくなってしまう。下手をすればお家の取り潰しだ。
ヤツから逃げ出した所で捕まるのも目に見えている。
いっそ自殺……するか。
そんな事を考えていた私は、階段から足を滑らせ転がり落ちてしまうのだった。
酷い頭痛で目を覚ますと、何人もの心配そうな顔が私を覗き込んでいた。
「ティンゲルチア様! 大丈夫でございますか?」
一瞬パニックになりかけたが、徐々に頭が鮮明になっていく。
彼らは家の使用人達とお抱えの医者だ。
ズキリと痛む頭に手を置き、記憶を探る。
なのに現状に至る事由を思い出せなかった。
「ここは……なんで……うっ」
再び走る痛みに呻き声を上げてしまう。
「少し記憶が混乱しているようですね。ティンゲルチア様、ご自分の事は分かりますか?」
そんな事は分かっている。
だが、痛みで話をする事が億劫だった私は「ーー出て行ってくれ!」と吐き捨てた。
顔を見合わせて出て行く使用人達。
お抱えの医者も「痛み止めを置いていきます。具合が悪くなられたらすぐにお呼び下さい」と部屋を出て行った。
私は扉が閉まるのを見て、薬と水を飲み込む。
しばらくすると痛みは引き始め、ようやく自分が階段から落ちた事を思い出した。
「そのまま死んでた方が幸せだったか……」
誰に聞かせるでもなく呟く。
無気力に窓から外を眺めていると、廊下の方から慌しい音と声が聞こえてきた。
「ティンは、ティンは無事なの?」
「奥様、落ち着いてください。ティンゲルチア様はご無事です。ただ少々記憶が混乱しており、今しばらくは1人にしておくのがよろしいかと」
この声は母上だ。
よほど慌てているのだろう、いつもはおしとやかな母上とは思えない大声だ。
記憶の混乱か……。
その時私は昔執事から聞いた話を思い出す。
随分と昔、二つ隣の領地の子息が怪我で記憶を失った話。確かその子息は記憶が戻らずに教会に預けられ一生を送ったとか。
貴族というものはある程度の知識と振る舞いが必要だ。
幼い頃から教育されるので当たり前に持ち得るものだが、その子息はそれすらも忘れてしまっていた。
貴族は改めて教育を施そうとしたのだが、子息の気性は荒れ、ついに諦めた両親は全ての権利を剥奪して教会に送った。
親子の愛情に薄い話と思われるが、貴族とはそういうものだ。
必要最低限の事すら出来ないものを家に置いておけば、他家からの攻撃材料にしかならないのだ。
ーー貴族の権利の中には当然婚約も含まれる。
私の身体が震え、大量の汗が噴き出る。
出来るか出来ないかじゃない。やるしかない。
これはチャンスなんだと自分に言い聞かせる。
よく考えろ。
どうすればいい? どうすれば上手くいく?
どれくらい考えただろう。
部屋が暗くなり始めた頃、扉がノックされ、私は両頬を叩いて気を引き締めた。
返事もせずにいると、ゆっくりと扉が開かれ数人が入ってくる。
父上に母上、兄さんに妹と、嫁いだ姉さんを除けば家族総出だ。
傍らにはお抱えの医者と執事もいた。
「どうだ、具合は?」
心配そうに父上が声をかけてくると、私は努めて無表情を維持した。
「ここは……どこなんだ? あんた達は誰なんだ?」
一瞬にして家族の顔が凍りつく。正直私も心が痛い。
言葉を喋らない事も考えたのだが、気がついた時に話している以上それは出来ない。
何事も無かったのように「大丈夫だよ」と言いたいが、ここで引くわけにはいかなかった。
「ティン、分からないの? 私の事を忘れてし…まっ……」
母上は途中で言葉を詰まらせ、父上にもたれるように泣き崩れてしまった。
「ティン、私だ。お前の兄のゲバルトだ。思い出してくれ!」
「ティン兄さん……」
声をかけてくる兄さんに妹のカティア。
きっと私は苦悶の表情を浮かべているだろう。
だがそれは辛いからだ。
私の家族は本当にいい人ばかりなのだ。
「出て行ってくれ!」
私は頭を抑える仕草をすると声を荒げる。
とてもじゃないが私の方が耐えられそうもない。
お抱えの医者は頭を横に振ると「旦那様、ここは一旦出ましょう。時間が解決する事もありますから」と父上に告げる。
父上は母上を支えながら「また来る」と短く呟き部屋を出て行った。
後に続いたカティアは一度足を止めるとクルリとこちらにやって来て私に抱きつく。
「兄さん」
私は妹を抱き返す事を必死に堪えた。
皆が出てから謝り続ける。
ごめん父上。ごめん母上。ごめん兄さん、カティア。ごめんね、と。
ここまで辛いとは思っていなかった。
あの悲痛な面持ちは、どんな痛みより心に突き刺さる。
芝居をやめてヤツと結婚する方がいいんじゃないかと心が揺れる。
でも……。
あれから3日。
日に2度ほど訪れる家族には、いまだに冷たく当たっている。
早く見放して欲しいと祈っているのに、家族は笑顔で接してくれていた。
母上やカティアの笑顔が崩れ、泣き出しそうになるのは何度見ても辛い。
その日の夕方、嵐がやってきた。
ノックも無しに乱暴に扉が開かれると、私に駆け寄って手を振りかざしてくる女。
乾いた音と共に頰に痛みが走る。
「ちょっとアンタ! 記憶が無いんだって! アタシがアンタの事知ってるのに、アンタがアタシの事を覚えて無いってどういう事よ!」
再び振り上げられた手を掴み取る。
人を射殺さんとする目つきで睨まれたが、今の私は何も気にせず思いの丈をぶつけられる。
「誰だお前! いきなり引っ叩きやがって!」
そのまま力任せにヤツを突き飛ばした。
「誰に向かって口をきいてるのよ! いいわ。思い出させてあげる!」
ヤツは2歩、3歩と後ろに下がると助走の距離を取る。
騒ぎを聞きつけた使用人が取り押さえて無かったら、飛び蹴りをかまされていただろう。
閉められた扉の向こうからは喚き散らすヤツの汚い言葉が飛び交っている。
やはり私の決断は間違いではなかったようだ。
それからは週に2度程ヤツが乗り込んで来るようになった。
毎回私を罵り、暴力に訴えようとして取り押さえられる。
家としても出入り禁止にしているようだが、何処からか入ってくるようだ。
一体ヤツが何をしたいのかが分からない。
私がヤツを忘れている事がよほど気に食わないのだろうか。
半年も過ぎた頃、珍しく父上が1人で部屋にやってきた。
この頃になると、私はもう家族と口をきかなくなっていた。
無関心を装って窓を眺めているだけ。
罪悪感が無いわけではないが、私の心は麻痺しかかっていたのかもしれない。
「ティン。話がある。そのままでいい聞いてくれ」
いつもの優しく語りかけてくる声色ではなく、沈んだ苦しそうな声だった。
「お前には教会に行ってもらう事になった。本当にすまない」
見ていなくても悲痛な顔で頭を下げているのが分かる。
私は心が表に出ないように拳を強く握りしめた。
望んだ言葉なのに、凍った心が溶かされるように痛い。
「貴族として、これ以上……。本当にすまない」
あの優しくも威厳を持った父上の声が震えていた。
父上は何度も謝り、これからの私の暮らしについて説明する。
私のわがままで突き放しているにもかかわらず、親としての愛情は少しも減ったりはしていなかった。
私は唇を噛みしめながら外を見ることしか出来ない。
振り向けば抑えが効かなくなってしまうだろう。
いくつかの話の後、父上は婚約についても話始めた。
「シグナシア……いつもこの部屋に乗り込んでいた女性がいるだろ。彼女はティンの婚約者だ」
ピクリと違和感を覚えた。
『婚約者だ』……過去形ではない。
「あちらの両親とも話をして婚約は破棄になった」
その言葉に胸を撫で下ろす。
「だが、シグナシアはティン以外とは結婚しない、そう言って家を飛び出したそうだ。ティンは貴族ではなくなるし、婚約も両家として破棄されている。何の誓約も無くなったとしても、シグナシアはティン、お前を慕っている。お前が望むのであったらそばにいさせてやってくれ」
父上は出発は明日の昼だと告げて、その場を後にした。
部屋に1人になった後も私は動けずにいる。
ヤツが私を慕っている?
じゃあ今までの態度はなんなんだ?
本当に愛情表現とでもいうのか?
理解が追いつかない。
様々な思いが頭に渦巻くが、答えなど出ては来ない。
混乱した頭のままベッドに横たわると、いつの間にか私は眠ってしまった。
目が覚めた時には辺りは真っ暗だった。
ふと、異変に気付いてすぐさま目を閉じる。
部屋に誰かがいるのだ。
暗くて見えないが、ベッドの横に座る人物がいる。
夢でも見てるのかと思った時、微かな声が聞こえてきた。
「ねぇ、ティン。まだ記憶が戻らないの?」
聞き覚えがある声なのに、すぐに誰かは分からなかった。
いつもは罵るような乱暴な声だから結びつかなかったのだ。
ヤツーーシグナシアだった。
ティンなんて呼ばれるのはいつ以来だろうか?
もうずっとアンタとしか呼ばれてない気がする。
シグナシアの独り言は続く。
「ねぇ、何とか言いなさいよ。アタシだけ喋ってるなんて卑怯よ」
本当にシグナシアが喋っているのかと思うような寂しそうな声。
先程の父上の話もあって更に心が乱される。
「……ごめんね」
その言葉に思考が停止する。
あのシグナシアが謝った?
これは現実なのだろうか?
「アタシと一緒に居てくれるのはティンしかいないの。アタシがアタシでいるにはティンがいないとダメなのよ。……お願いだから……お願いだから元に戻ってよ」
シグナシアはそのまま私の横たわるベッドに頭を伏せる。
泣いているのだろうか?
私にはどうする事も出来ない。
ただただ、全てが崩れ去りそうな感覚に身を任せていた。
それからどれくらい経ったのかは分からないが、シグナシアは静かに部屋から出ていった。
結論が出ないまま出発の時を迎える。
私がしてきた事は一体なんだったんだと迷い、でも引き返す事すら出来ずにいた。
玄関に続く階段。
半年前、私が落ちた階段。
玄関には家族が立ち並び、階段の途中にはシグナシアが立っていた。
父上もシグナシアを止めるつもりは無いようだ。
ゆっくりと階段を降り、シグナシアの数段手前で視線が絡む。
そのまま無視するべきだが、私は足を止めた。
こちらから話すつもりは無い。
時間にして数秒、私は視線を玄関に戻し動き始める。
「アタシは諦めないから」
小さく、だが力強い言葉だった。
次の瞬間ーー踏み出した足から力が消え、膝がカクンと折れる。
スローモーションのように景色が回り、身体が宙に浮く。
私は再び階段から落ちようとしていた。
前回と一つだけ違っていたのは、私と同じような格好のシグナシア。
ガツガツと身体のあちこちをぶつけ、転がり落ちていく。
下から飛び交う悲鳴。
ようやく回転が止まった時、私の下にいたのはシグナシアだった。
シグナシアが何かをした?
いや違う!
ゆっくりと動く世界で見たのは咄嗟に私を庇おうとする彼女の姿だった。
痛む身体を起こすがシグナシアの反応はない。
グッタリとその場に横たわったままだ。
心に閉まったはずの感情を押さえつけていた何かが崩れ落ちる。
「シグナシアー!」
身体を強く打っているんだ、揺らしてはいけない。
分かっているのに喚きながらシグナシアを抱きかかえる。
あれほど嫌だった、憎んでさえいた感情は霧散していた。
「父上、母上、医者を! シグナシアが、シグナシアが!」
「ティン、お、お前、記憶が!」
どれだけ叫んだだろうか。
どれだけ泣いただろうか。
私は馬鹿だ。
大馬鹿者だ。
みんなに辛い思いをさせ、本当に大切な者に向き合おうとせず、今失おうとしている。
私に引き返す勇気があったなら、ちゃんと彼女を見る事が出来ていたのなら。
だが、どれだけ後悔しても時間が戻る事はなかった。
「記憶喪失ですか?」
「えぇ、ティンゲルチア様と同じように記憶を失っております。いえ、ティンゲルチア様はその時の記憶が失われているので覚えてはいないでしょうが。ですが同じように、シグナシア様の記憶が戻る可能性は十分あるかと」
医者の話では、シグナシアは記憶を失った。
私のようなフリではなく本当に。
教会で佇む彼女は穏やかだった。
以前の凶暴な彼女は私が作り上げた幻で、これが本来の彼女の姿なのかもしれない。
記憶はないのに不思議と私には心を開いてくれている。
彼女は貴族ではなくなった。
私も貴族には戻れず教会で働いている。
後悔はない。
このままシグナシアと一緒に生きていくつもりだ。
優しくシグナシアを抱きしめる。
私達2人は今ここから始まるんだ。
シグナシアの温もりを感じながら、私はもう迷わないと誓うのだった。
私の耳元でシグナシアの口だけが動いているとも知らずに……。
『おかえり。
アタシの大事なティン』
by.雨音AKIRA様!
お読み頂きありがとうございます。
感想など頂けると嬉しいです。
雨音AKIRA様より最高の挿絵を頂きました!