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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

日常の疑問

この世は二つのモノでできている

作者: Twilight

 この世は二つのものでできている――――



 世界には光と闇が溢れ、社会には善と悪がつけられ、数字には正と負が決められ、そして生物には生と死が定められているように、世界の様々なものは二つに分かれて出来ている、と――――


 そう思う人がいるかもしれない。

 しかし、所詮それは人間がそう分けただけに過ぎないことを念頭に置かなければならない。


 人間というのは面白いもので、自分自身で可能性を否定している節が見られるということだ。



 ――例えば言葉。先に書いたように、言葉の中にも対となっているものがある。


 広いと狭い。大きいと小さい。高いと低い。可能と不可能。


 ――例えば感情。


 楽しいと苦しい。嬉しいと悲しい。愉快と不愉快、好きと嫌い。


 ――例えば性格。


 明るいと暗い。騒がしいと静か。陽気と陰気。積極と消極。

 


 世界中を探し回れば相反するものなどいくらでもある。


 けれどそれらは意味も無く、二つの相反する存在があると私は考えていない。


 現象には必ず理由があると思っている。

 突然話は変わるが、例をだそう。


 例えば遥か昔、機械という言葉やモノすらない時代。

 古代ローマの学者であった「クラウディオス・プトレマイオス」と呼ばれた人間は、アレクサンダー大王に率いられた10人の研究者の内の一人として随行し、地球に関して多くの議論の果てに「太陽や他の惑星は地球を中心に回っている」と唱えた。


 これにより、この「天動説」は数世紀もの間、天文学においての標準的な常識として知られていった。


 だがしかし、ある時これを覆す仮説が生まれた。

 それは、その時代において異端視されていた「地動説」である。


 地動説とは天動説と反対の学説であり、地球を中心に星々が回っているのではなく、太陽を中心に公転していると考えられた説である。

 そしてそれはコペルニクスにより日の光を当てられ体系化し、ガリレオ・ガリレイによって学説を補完され完成へと近づけた。



 長くなってしまったが何を言いたいのかと言うと、これだけの勘違い(・・・)を数千年あまりの長い時間を人々はし続けていたのだ。


 ここから得られる教訓は、「人間とは不完全ゆえに完全を求める。しかし、不完全な存在である人間が決定したものは、どのみち完全ではない」だ。


 偉人としてかの有名なアリストテレスやプトレマイオスでさえも、天動説を信じて疑わなかった。


 異端として排斥され、不遇な生涯を送ったガリレオは地動説を証明出来ずに死没していった。


 歴史にその名を刻み、今もなお我々の心に生き続けている、彼らの天への願いである「天動説」と「地動説」。


 この様に、天才達が生み出した理論の積み重ねによって対となるものが生まれた。


 

 他にも、対となるモノは存在する。


 それはとても身近で、けれど今の世の中では目に見えづらい。


 世界の真理と言っても過言ではないもの。――そう、「弱肉強食」だ。


 いつの世にも偏在し、問題視されながらもついぞ解決策は得られていない。


 古き時代での強者は王であり、貴族であり、戦士であった。

 反対に、弱者というのは農民であり、無能者であり、奴隷である。


 今の時代もそうだ。

 強者は金を持ち、権力を持ち、才能を持っている。 

 財力とは金を稼ぐ能力。権力とは人を動かす能力。才能とは人よりも早く才を得る能力だ。


 弱者は知識が無く、力が無く、自由が無い。

 知識が無いとは、選ぶ際の判断材料が無い。力が無いとは、何も起こすことが出来ない。自由が無いとは、自らが選択する権利が無い。


 つまりこれは、遥か太古の昔から決められていた事だと言える。


 弱い者がいくら抗おうとも、地位を変え、名を変えて、“支配者”は何度でも弱者である限り前に現れるだろう。


 我々はこの束縛から逃れ得ることは出来ないのだ。

 どう足掻こうとも、自由を支配される運命にあると言っても過言ではない。


 だが、ただ一つだけ支配から逃れられる唯一とも言える方法が存在する。

 

 ――――自らも支配者側へと回ることだ。


 世界は二つのモノで出来ている。それはつまり、持つ者と持たざる者との違いであり、支配するものと支配される者との違いだ。

 本来、勝ち組だの負け組だのと言うものは、ただの弱肉強食のほんの小さな一部の縮図に過ぎないのだ。


 強い者が力を持っているのではない。勝った者のみが力を得られるのだから。


 それだけがこの世界に住む全ての者に与えられた、唯一の“平等な権利”と言えるだろう。



 人間の社会だけではない。自然の中にも弱肉強食は存在する。


 否、本来は両者共同じ枠組みの筈だ。


 いつからか人間は同じ生命体の筈の動物たちを、自らとは格が劣る下位の生物だと蔑んだ。

 言葉を話すことが出来ない。二足で歩くことが出来ない。手を使うことが出来ない。本能を抑えることが出来ない。


 この様に人間には出来て、獣たちに出来ないことをさぞ面白おかしく嘲笑う。

 それならば獣に出来て人間に出来ないこともあるだろうに。


 人々は良いモノと悪いモノの二つに分ける様に、物事を二分して考える性質が遥か昔から今もなお脈々と続いていることを表している。

 これはつまり、自らが特別だと威張りたいがために二つに分けているのだ。


 我々は肝に銘じなければならない。


 世の物事を無責任に簡略化して可視化しようとすれば、いずれ大きな災いとなって自らに降りかかることを。

 その時になって気付くだろう。


 他者を見下し、自らを相対的に持ち上げる。

 他者を押し上げ、自らを卑下し正当化する。


 アナタが行ってきた全ての行動が回りまわってアナタ自身へと帰結する。

 そしていつか、その傲慢な行動の対価を支払わさせられるだろう。


 そのツケを払わせられない事を筆者は願うばかりである。 


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