その16
光球の明かりが届かないそこは真っ暗だった。
ラグナル!
「……っ」
咄嗟に名を呼ぼうとして、咄嗟に己の口を手で塞ぐ。
頼もしい仲間たちとは完全に分断された。一人きりの状態でうかつに大声を出すべきではない。
恐怖と焦りにまともに動かない頭で、かろうじてそう判断した。
震える手で口を塞いだまま、息を整える。
光も音もない静かな空間。自分の鼓動の音がやけにはっきりと響いた。
呼吸が整うと、首だけを動かして、辺りを確認する。
左を向き、右を向き――何も見えないと諦めかけた時、右手後方に一筋の光の筋をみつけた。髪の毛ほどの細い細い筋だ。それでも光源があったことにほっとした。
しかし、その光が照らす、極々狭い範囲に目を凝らして、そこにあるものが目に入る。
「――ひっ」
喉から引きつった声が漏れた。
しゃがみこんだ体勢のままずりずりと後退る。
距離があるし、光も十分ではない。だから見間違えであることを願ったが、何度見てもそれは――狒々神だった。
ただし、倒れ伏してピクリとも動かない。死んでいるのだろう。生きていれば格好の獲物を無視するはずがない。
生きている狒々神なら、私は間違いなく恐慌状態に陥っていた。
四つん這いになると意を決して光の筋に照らされた狒々神に近づこうとした。
しかしいくらも進まないうちに、何かにぶつかった。
手のひらでその何かを確かめる。つるりとした感触。下方は私が膝をつく床まで続き、上方は手を伸ばしたその先にも続いている。左右に手を振ると、角張ったかどに指先が触れた。
その瞬間それから勢いよく手を離す。
造りに思い当たりがあったからだ。
ここは狒々神が降りてきた、天井の上の空間。そしてこのつるりとした感触とかど。
おそらく、私の目の前にあるのは狒々神と溶液を閉じ込めた、あの透明な四角柱の容器。
少しずつ暗闇に目が慣れてくる。
先ほどよりも煩い鼓動を聴きながら、私の目は無数に立ち並ぶそれらを捉えた。
光が足りず、中に浮かぶのは黒い影にしかみえない。
それでもそれらが、人型で、頭上に角が生えていて、背中に折りたたまれた羽があるのだとわかった。わかってしまった。
もう、叫んでもいいだろうか?
あたりには、所狭しと狒々神を閉じ込めた透明な容器が乱立していた。その数ざっと数十。
容器の中に閉じ込められて休眠している。そう分かっていても怖いものは怖い。
背後の容器から、こぽり、と気泡が生まれるような音が聞こえた気がして、私は大急ぎで光の筋の元へと進んだ。四つん這いで。
前も後ろも右も左も狒々神。ならせめて明りの元へ。そんな単純な理由からだ。その明かりの近くには狒々神が一体、横たわっていることもわかっている。
それでも狒々神に囲まれた薄暗闇の空間に耐えられなくて、私は必死に這い寄った。
あれは死んでる。絶対死んでる。必ず死んでる。そう自分に言い聞かせながら光の筋のすぐそばにたどり着く。
「ひぃっ」
間近でそれを見て、悲鳴が抑えきれなかった。
その狒々神は干からびていた。体からおおよそ水分と呼ばれるものが全て失われているように見える。夏場の石畳の街道で時折みかける、ミミーズを思い起こさせた。
皺々の背に印術の痕がある。
暗くて見えないが、ここにいる全ての狒々神の背に同じものが刻まれているに違いない。
ふと疑問が湧き上がる。
かつてのイーよりも優れた術者がこの大陸に存在していたとして……どうやってこれだけ大量の狒々神を捕獲したのだろう。
神とまで呼ばれる強大な力を持った魔獣だ。人生で一度でも遭遇すれば相当に運の悪い人間だといえるほどに、個体数は極めて少ない。
――今よりも力ある魔獣の数が格段に多かったのかな……
適当に答えを見つけると、光の筋に向き直る。
最初、それは壁にできた亀裂から漏れ出ているように見えた。
しかし、亀裂にしては綺麗すぎるほどの直線。しかも右側の壁が出っ張っている。
――これ、もしかして扉!?
ここから出られる!
慌てて開けようとするが、指をひっかけようにも、狭すぎて指が入らない。
私は懐から懐剣を取り出した。鞘から刀身を引き抜くと、わずかな隙間に突き立てる。両手で柄を力いっぱい握りしめ、刃先を食い込ませた。体重をかけて、刃を押し込んでいく。
ガリガリと嫌な音がする。
どれほど格闘していただろうか。握力が限界を迎える前に、刃を根元まで差し込むことができた。体重をかけ、扉をこじ開けようと試みる。
刃が折れるかもしれない。そう思ったとき、ぎぎぃと重い音がして急に扉が軽くなった。
懐剣を懐へ戻し、扉を一気に開け放つ。
光が溢れた。
「……なに、ここ」
眩しさに目を眇めながら、私は扉の奥にあったものを呆然と眺める。
扉の向こうに一番あればいいなと希望していたのは皆のもとへ戻る道。そんな都合よくなんていかないとは思っていたけれど、どこかに繋がる通路に出られるだろう。くらいには楽観的に考えていた。
しかし目の前に広がるのは、どちらでもなかった。
広い部屋一面に広がる、緑、緑、緑。
足元は一面が土で、つるりとした床板が敷かれた通路らしきものが何本も通っており、天井からは光石が燦々と光を注いでいる。
壁も通路も、どこからか伸びた蔓にその大部分が覆われていた。
部屋の中央にある、薄紅色の花をつけた木は天井いっぱいまで育ち、四方に枝が伸びている。
好き放題に植物が蔓延り、鬱蒼としているが、人工的に植物を育てていたあとなのは明らかだ。
中央に植えられた木に向かって歩きながら、植えられた植物をチェックする。
――この透き通った花! まさか幻のザンカヨウ!? あ、あれ、ほろ苦いキキノトウ! あっちのはちょっと小さいけどハッキ草に葉の形が似てる。
珍しいものから、見慣れたものまで、多種多様な植物が植えられていた。
木の近くまでくると、通路から土の上に降り立ち、植物を傷つけないように注意しながら歩を進めた。
可憐な薄紅の花。緑の濃い楕円形の葉。なにより、褐色の樹皮が剥がれた下にある白くつるりとした幹。
「まさかとは思ったけど、やっぱりサルースペーリ」




