その13
話し合いの結果、一先ず魔力を流すで決着をみそうになったとき、ラグナルが黒剣を抜きはなった。
「上だ」
彼の耳が人間より優れているのは、実証済みである。
皆が一斉に武器を構えた。
天井の片隅、階段から見て向かって右端近くの光石のいくつかが発光を止める。そこだけが四角く切り取られたように黒くなった。
光を失った石が、ずずずと摩擦音を立てて、下がり始める。
黒い光石の上部には透明な硝子のような板が四方に組まれていた。内部は透明な液体で満たされており、まず、最初に短い体毛に包まれた足が見えた。ついで蝙蝠のような羽の先端。さらには鋭い鉤爪のついた手、筋肉質な胴体に、猿に似た顔、額に生えた角。
「……狒々神」
それは異様な光景だった。
はるか南の大陸には、蛇や虫を酒と共に瓶に漬け込み、飲む習慣があるという。ルンカーリの港町で目にした酒に漬けられた毒ヘビ。まるで生きているように鎌首をもたげた姿は記憶に鮮明に残っていた。
今、目の前に姿を現した狒々神はその蛇を彷彿とさせた。
「なにこれ? 標本?」
ノアがスタッフを構えたまま近づく。
窮屈そうに羽を閉じ、腕も足もだらりと垂らしたまま。死んでいる、と思った。しかし……
「嘘でしょ。生きてる」
ゆっくりとした速度で、かすかに上下する胸。液体の中で狒々神は生きていた。
「ノア、下がれ。ウォーレス、ラグナル」
キーランがノアを止める。前衛の二人に合図をだし、三人はじりじりと距離をつめはじめた。
「なんだ?」
透明だった液体に赤い色が混じる。上部から赤い液体がにじみ出るように広がり、透明だった液体がうっすらと桃色に染まり出した。
ただ呆然と見つめることしか出来ない。赤い液体と透明な液体が混ざり合いほのかに染まった中で、閉じられた狒々神の瞼が小刻みに動きだす。
ピチャンという水音で、狒々神を囲む透明な板の隙間から液体が染み出しているのに気づいた。
「ルツ、ノア、捕縛の用意を。イーリスはできるだけ下がれ。ウォーレスは右翼、ラグナルは角だ。一気に方を付ける」
狒々神が目覚める。
誰もがそう確信し、武器を構えた。
ゆっくりと狒々神の瞼が開く。
その瞬間、光石から明かりが消えた。
瞳はまばゆい光に慣れていた。それでなくとも地下の遺跡である。光源は一切ない。
視覚を奪われ、目の前には完全な角と翼を備えた狒々神。それでもギルド・ロフォカレの精鋭たちはパニックに陥らなかった。
まず聞こえたのは水音。水桶をひっくり返したように、大量の水が溢れでる流水音。次に何か硬質なものが倒れる音。鋭いものが空を切る音。獣の咆哮。床が何かを弾く音。ルツとノアが「捕縛」をかける声。
全てが瞬きをするような僅かな時間の間に次々と聞こえ、最後にノアが光を生み出す術を編む声がして、視界が戻る。
「ひっ……」
あたりに一帯に飛び散るおびただしい血。惨状に喉が引きつる。
透明な板は四方に倒れ、血と液体が混ざり合って、足元を濡らす。
光石が光を失う前と同じ場所で、狒々神はすでにこと切れていた。
一目で死んでいると分かるのは、膝をついた体に首がなかったからだ。視線を狒々神の足元に落とせば、角を折られた生首と目線が合った気がして、慌ててそらす。
左の翼は完全に体から切り離され、右の翼は皮一枚で繋がった状態。
「角に首までか。流石だな、ラグナル」
キーランの言葉で首を刎ねたのがラグナルだとわかった。
左の翼はキーランの担当。右翼を担ったウォーレスは悔しそうに断ち切れなかった翼を睨みつけていた。
それでも、あの暗闇の中で、寸分違わず翼を切って見せたのだから、私からしてみれば人間業ではない。
ルツとノアにしてもそうだ。光よりも捕縛を優先するその判断力には感嘆するばかりだ。
「しっかし、なんだろうな。これは」
ウォーレスは狒々神が入れられていた透明な板に指を滑らせる。長剣を鞘に収め、もう一本の短刀を引き抜くとくるりと持ち替えて、グリップで思いっきり板を打ち付けた。
「いってぇ」
ウォーレスは短剣をもった手をぷらぷらと振った。
板には傷一つついていない。
硝子ならば今の一撃で割れている。いや、こうやって四方に倒れている時点で割れていなければおかしかった。
板の材質も気になるがそれより狒々神だ。
――確かめないと
キーランの指示通り部屋の隅に退避していた私は、液体と血に足を取られないように気をつけて、狒々神に近づく。
前面には何もない。
膝をついたままの狒々神の後ろにまわる。
上から順に、肩、背中、視線を下ろし、腰にその痕跡を見つけた。
「ルツ、ノア、これを」
二人を呼べば、ルツは何かを察した顔で、ノアは怪訝そうに眉を顰めてやってきた。
「印術のあと……だと思うんだけど、文字はこの大陸のもの?」
狒々神の腰にあったのは思った通り、印術の跡。
ただし、術は失効していて色はわからない。古い傷跡のようにそれは狒々神の体に残されていた。
解呪されたものは肌から印の跡は綺麗に消える。跡が残るのは術者が死んだか、術に失敗した場合などだ。とは言っても、契約や、護りの類ではないだろう。あれらは両者の合意のもとに成り立つもので、術者が死んでもかけられた者が納得していれば効力は失せない。
これは私の予想が正しければ、支配の印だ。
だが、色が失せている以上文字から判断するしかなかった。
「ええ、ええ、おそらくそうです。この文字の形、見た覚えがあります」
ルツが食い入るように狒々神の腰に刻まれた印を見つめる。
「それ、解読の手がかりがなさすぎて、なんて書いてあるかさっぱりわからないやつでしょ。でも、まぁ」
ノアはスタッフの先で印の中心を指した。
「支配だろうね。中心にいくほど深い」




