その6
――手、離したくないな。
合わさった箇所から不安が消えていくような心地がした。
と、同時に、やっちまったとも思う。
これ以上増やしたくないと考えていた約束を、また交わしてしまったのも勿論だが、それ以上に、引き返せないところまで気持ちが育ってしまったと自覚するのに充分な時間だったのがまずい。
イービル山脈に戻って、同じ時を過ごせる同族と暮らしたほうがラグナルのため。
それなのに……
思わず漏れた溜息が繋いだ手にかかる。
途端に、ラグナルがパッと手を離した。
その仕草は些か性急だ。
靴が砂を食む音がして、ラグナルが遠ざかったのが分かった。普段、足音をあまり立てない彼には珍しい。
「黒魔法の使用許可を」
「……へ? なんで!?」
間抜けな声が出た。
まさか危険が迫っているのだろうかと慌てる。
「明かりをつけるだけだ」
意外な用途に力が抜ける。
――最初に何に使うか言ってくれないかな!
心臓に悪いことこの上ない、などと胸のうちで苦情を並べ立てながら許可を出す。
すぐさま、ぼっと音をたててランタンに明かりが灯された。
明かりを灯すのは、とても初歩的な術でノアもよくやっている。人間の術者には当然詠唱がいるものだが、ラグナルには必要ない。
一つ、二つ、三つ。入り口と水場と机の上。三つあるランタンに全て明かりが灯された。
一年経っても貧乏性がぬけないため、普段は一つしかつけないものだから、全てのランタンが灯った室内は、かなり明るく感じる。
「えーと、お茶でもいれるね」
視界が明瞭になれば、当然ラグナルの顔が見えるようになるわけで……
すると無性に気恥ずかしくなり、ラグナルから視線を逸らした。ごまかすために、水を汲もうとすると背後から声がかかる。
「いや、もう出る」
残念だと思う気持ちより、ほっとする気持ちが勝った。
自覚してしまったからこそ、二人きりの時間が苦しい。
「うん。わかった。えっと……また、明日」
明日は久々の遺跡探索だ。必要な薬剤は揃えてあるが、ラグナルが帰ったら最終チェックをしておこう。傷薬、毒消し、熱傷用の湿布に金平石。
ふわふわと浮つく思考を追い払うために、鞄の中身を頭の中で確認する。
意識をそらそうと懸命な私の側をラグナルが通り抜ける。その間際、ぴたりと足を止めた。
黒い双眸がこちらを見下ろしているのはわかる。だけど顔をあげることができない。
「イーリスが嫌がることはしたくない。だが……欲がないわけじゃない」
返事はできなかった。
固まる私の様子を見てどう思ったのか、ラグナルは今度こそ戸口へ向かう。
「すぐに施錠を」と言い置いて夜の街へ消える長身のダークエルフの背中をぼんやりと眺めていた。
ラグナルの姿が見えなくなると、戸を閉め、言われた通り鍵をかける。
『ダークエルフには欲がないっての? そんなはずないよね?』
『ないわけじゃ……ない』
ランサムの城で耳にした会話が唐突に蘇った。確か食堂でノアに煽られて口にした言葉だ。
『出会ってからの時間は関係ないと俺は思う』
これは夜のバルコニー。
『俺、やっぱり……』
だめだ。これは一番思い出してはだめなやつだ。
一年前にあれだけ積極的だったラグナルが、大人になったからと早々かわるわけがなかった。
「そもそも、まだ19だしね……」
気を抜けば力が抜けそうになる足を叱咤して、ランタンの明かりを消して回り、ベッドにたどり着くと、身を投げ出すようにして横になる。
鞄の中身を見直す余裕はもうなかった。
――明日、早起きしよ。
翌日は見事に寝不足だった。
魔女リュンヌの存在に怯えて眠れなかったのではない。
横になって目を閉じると、思い出してはいけないあれやこれやが去来して、ベッドの上でもんどりうつ羽目になったのだ。
魔女に出会うだなんて体験をしておきながら、全く違うことで一晩悩み通すなんて、自分は存外幸せな頭の構造をしているらしい。
苦笑いを嚙み潰しながら、窓を開ける。青みがかった光が室内に降り注いだ。朝霧が残っているらしく、窓から見える景色はぼんやりと白い。
ホルトンの住人の朝はおしなべて早い。通りにはすでに幾人かの往来があった。
その誰も彼もが家の戸口の方を意味ありげに見やって通り過ぎていく。
家の横手についているこの窓から戸口は見えない。
しかし、戸口の隣に腕を組んで立っている人物の姿を想像するのは容易かった。
 




