その3
聡い彼らはすぐに察して、静観にまわる。
それでいい。オーガスタスやゼイヴィアがかつては名うての冒険者だったとしても、この場にキーラン達がいたとしても、少女に太刀打ちできるはずもないのだから。
ラートーン
その名を知る人間は本来、イーの当主である兄一人のみ。
代々当主にのみ口伝で伝えられていた秘中の秘である名をなぜ私が知っているかといえば……今日この日のためなのだろう。
あれは里を出る少し前のこと。
朝餉の漬物をかじりながら兄は言った。
『今日の漬かり具合は少し渋いね。ああ、そういえば、イーリスは東の大陸の間抜けな魔人の名を知っているかい? ラートーンというのだよ。覚えておきなさい。それと、あとで塩抜きをしっかりするように伝えておいておくれ』
あの時は全く脈絡のない会話に混ぜられた、とんでもない発言に、粥を喉につまらせて苦しかったのを覚えている。
存在さえ、お伽話のような魔人の名が人の世にでることは本来あり得ない。ましてや他大陸の魔人の名など。それを知っている少女の正体は自ずと絞られる。
魔女だ。
魔女の恨みを買うわけにはいかないから解呪できないと兄はラグナルに言ったという。
つまり、少女の目的は……
――詰んだな、私。
足掻いて抗って万が一にも勝ち目がある相手なら、最後の瞬間まで諦めない程度には生に貪欲だ。
けど、さすがに魔女はない。無理無理。勝てない。
行方の決まった運命を前にすると達観の域に達するのだと知った。
短い人生だった。
どうせ死ぬならラグナルに印術をかけた理由を聞きたい。いや、それより、ラグナルは見逃してもらえないだろうか。かつて彼が魔女の怒りを買い印を刻まれたのだとしても、もう十分に罰は受けたはずだ。
どうにかして、ラグナルから引き剥がし二人きりになって交渉したい。魔女の気をひく方法はないかと、私は必死に模索する。
「イーリスどうしたの? お顔が真っ青よ?」
どうしたもこうしたも、余命宣告を受けたも同然なのだから。
魔女リュンヌは抱きついていた腕を解くと、目を瞬く。
「私本当に会えて良かったと思ってるの。いつかは東の果てを訪ねるつもりでいたけど、手間が省けたわ。ねえ、イーリス。貴方は今、幸せ?」
――え?
リュンヌの口から出た意外な言葉。
その直後背後で金属が擦れる音がした。かと思うと目の前の少女の首に黒い刃が突きつけられている。
ラグナルが抜刀する音を聞いてから、ほんの一瞬のできごとだった。
「お前、何者だ」
ああああああ、少しでも被害を減らそうと思っていたのに。
「ラグナル待って」
「イーリス離れていろ」
いや、そっちが離れて。
いかにダークエルフが黒魔法に長けていようが、ラグナルの剣の腕が凄かろうが、敵う相手ではない。
「まあ、怖い。乱暴ものは嫌いよ」
リュンヌはクスクスと笑いながらラグナルに向き直る。
「私、最近印術に凝ってるの。貴方実験台になってみる? そうねえ、貴方の魔力を封じたら面白そう。黒魔法を使えないダークエルフなんて見ものじゃない?」
――あのー、十数年前にすでに実験済みでは?
なんだか思っていた展開と違う。
もしかして魔女じゃない? なんて希望を抱きかけて、打ち消した。魔女じゃないならなんだというんだ。
「ん? 貴方」
すっかり臨戦態勢なラグナルにもまったく怯むことなく、少女は頰に指をあて可愛らしく首をかしげた。
「あら、やだ。もう私の印が刻まれているじゃない」
ラグナルの目つきが一層険しさをました。黒剣を構える腕に力がはいる。
「……お前」
「ちょっと待ってね。今思い出すから」
殺気丸出しのラグナルに刃を向けられているというのに、少女は目を閉じて、「うーん、千年前の?」「違うわね。やっぱり175年前の変わり者の……いえいえ、あれはホウリの森のエルフのはず」と独り言ちる。
とんでもなく昔の記憶を掘り起こしていたらしい魔女は、「あ!」と声をあげて目をあけた。
「わかったわ。最近会った子よね」
一千年前に比べたら、十数年前は確かに最近かもしれない。
「墓荒らしのダークエルフ」
リュンヌは目を細めて笑みを浮かべた。それは今までの可愛らしいものではなく、威圧感に満ちたものだった。
「あの時の魔女か!?」
首筋につきつけた刃先はそのままの距離を保ち、魔女を中心に円を描くように移動したラグナルが、片腕で私を自身の背後に隠す。
「俺を殺しにきたのなら、好きにするがいい。ただし、この女には手を出すな。印を解呪したのは、この女の本意ではない」
私がラグナルをかばおうと思ったように、彼もまた私をかばおうとしている。思えばラグナルは小さなころからずっと私を守ろうとしてくれていた。温かな喜びで胸がいっぱいになる。と同時に仄暗い罪悪感にも似た感情が湧き上がる。
時を歪められたラグナルの誰よりも近い位置にずっといたのだ。無力な子供にさえ戻らなれければラグナルが私を慕うことなんてなかった。そう思うと彼の気持ちをそのまま享受するにはためらいが生まれる。
彼の背にかばわれたままではいられない。
ただ……流れ的にラグナルを殺しにきたとかそういう感じじゃないよね?
魔女の言いようは、今の今まですっかり存在を忘れていたといわんばかり。
「退きなさい。ラグナル」
その静かな声は机の奥に座るオーガスタスから聞こえた。
オーガスタスは椅子から立ち上がると、リュンヌに向かって歩き出した。ゆっくりとした歩調なのに、隙がない。初老の男性のものとは思えない身のこなしでラグナルの隣に立ち、抜き身の黒剣を掌で制した。
「お初にお目にかかる。魔女リュンヌ。私はギルド・ロフォカレを束ねるオーガスタス。これらの者たちは、私があずかっておりましてな。ご無礼はこの通り謝罪いたします。どうかお怒りをお納めいただきたい」
神妙な様子で頭を下げるオーガスタス。しかしすぐに顔をあげた。その顔には、いつもの人を食ったような笑みが貼り付いている。
「と乞うべきかと思いましたが、どうやらこの者たちを追ってこられたわけではないようですな」
「ずっと旅をしているだけだと言ってるじゃない。いやあね、早とちりで殺気だっちゃって」
リュンヌは鈴を転がしたような声で笑う。
「聞いたかね、ラグナル。ここは退きなさい。いいね?」
好々爺然とした物言いのオーガスタス。
しかし、黒剣に添えた手はいつの間にか刃を握りしめている。赤い血が刀身を伝って床に落ちた。




