その8
おかしい。少し前まで唇に指で触れただけで逃亡して、手を繋ぐだけで真っ赤になっていたのに。
進んだ年齢がそうさせるのか、顔を会わせなかった時間がそうさせるのか、わからない。
ただこれだけは言える。開き直ったダークエルフ、色んな意味でこえええええええ。
「時間なんて関係ない。俺はイーリスに触れたい。イーリスは俺に触れられるのが嫌なのか?」
もうとっくにこっちの精神は限界なのに、私を膝の上に乗せたまま、ラグナルはそうのたまう。
「い、嫌とかそういう問題じゃなくて――」
「答えろよ。俺に触れられるのは嫌か?」
返答をはぐらかそうとするも、間髪入れずに聞き直される。
語気は荒くとも、腕を掴む腕は微かに震えたままだ。掌から伝わる熱が、ゆっくりと侵食していくようだった。
私は努めて意識をそこから遠ざけた。
「えーと、なんというかお互い相手のことをもっとよく知ってから、次に進むのが望ましいというかね?」
「俺はガキの頃からイーリスを知っている」
ある意味そうだけど、なんか違う。
私の感覚が狂っている以上に、ラグナルの時間の捉え方はおかしいのかもしれない。
「それに人間の世界は、ほら、いろいろと決まりごとが多くて」
もう自分でも何を言っているか分からなかった。とにかくラグナルを止めなければと言葉を紡ぐ。
「何事も段階を踏まないといけないの!」
ラグナルは首を傾げてから、ああ、と何かに思い至ったように頷いた。
「結婚を申し込めばいいのか?」
違う、そうじゃない!
「なら、やっぱり許嫁は邪魔だな……」
おまけに目線を伏せて、何やら物騒なことをつぶやき出す。
私はシャープになった頰を両手で挟んで、無理やり視線を合わせた。
「約束して! 許嫁に手を出さないって! あの人が死んだら本当に困るから」
約束はこれ以上増やさないと決めていたけれど、そうも言っていられない。
記憶を取り戻したラグナルが、これまでの周りの人々の反応や、何より自分の解呪が済んでいることから、私の素性に辿り着く可能性は低くないはずだ。
「あと、ノアとか、ルツとかキーランとかウォーレスとかゼイヴィアとか! お世話になった人たちも、その、こ、殺したりしないでほしい」
マーレイを殺そうとしたときにも感じたけれど、はっきりした。彼の中で人の命はわりと軽い。
明日のラグナルが私との約束をどれだけ守ってくれるか不明だが、そこはダークエルフの矜持にかけるしかない。
「ああ、分かった。約束する」
渋るかと思ったがラグナルはあっさり頷いた。それも嬉しそうに。
「久しぶりだな。イーリスが約束を求めてくるなんて」
枷を増やされて喜ぶその心がイマイチ理解できない。
「じゃ、じゃあ、そういうことで話は終わり」
話題が斜め上方向にずれたのをこれ幸いと、話を切り上げにかかる。
顔から手を離し、体を浮かそうとしたその瞬間、さっとラグナルの顔が近づいた。
微かに頰に何かが触れる感触がする。
――今のって。
呆気にとられていると、ふわりと体が浮いて、足がベランダの上に着いた。
ラグナルが私を持ち上げて、下ろしたのだ。
「これぐらいなら、いいだろ。段階とやらを踏まなくても」
室内から漏れ出る光に照らされて、ラグナルの耳の先がかすかに赤く染まっているように見えるのは、おそらく気のせいではないだろう。
いい……のかな?
挨拶の範囲と言われればそうだけど。それはお互いに特別な感情を持たない特に親しい間からでのみ成立するものだ。
うん、やっぱりよくない。
そう思いなおした時にはすでに、ラグナルはベランダの手すりの上に身を乗り出していた。
「ここ! 三階!」
手を伸ばすより早く、ラグナルが手すりの向こうに消える。
手すりに張り付くようにして階下を除きこむと、地面に降り立ってこちらを見上げるラグナルと目が合った。
「また明日な」
そう言うと、ラグナルは走り出し、その姿はあっという間に夜の闇に消えた。
「出入りはドアからしてよ」
驚きすぎて力抜けた。手すりに体をもたれさせ、愚痴を吐き出す。
ダークエルフが類い稀な身体能力を有しているのは分かった。それでも心臓に悪い。
「また明日……か」
ラグナルが消えた方角をぼんやりと眺めながら呟く。
今夜で解呪は終わる。
ずっと逃げなければと思いながら、心のどこかで迷っていた。
けど、やっと決まった。
一つ大きく息を吐き出すと、身を起こし、ベランダをあとにする。
夕食の時間はそろそろ終わる。
ロフォカレのメンバーもランサムも、直にそれぞれの部屋に戻るだろう。
私は結論を伝えるため、ゼイヴィアの部屋に向かった。
その晩、最後の解呪を行った。
色濃く体に刻まれていた印は、端の端の一文字が消えた途端に、隣接する文字から鎖が解けるように消えていく。
――成功したんだ。
そう確信を得ると、全ての印が消えるのを見届けることなく服を戻した。
これまで交わした数々の約束のうち、今夜願ったこと以外の破棄を申し出る手紙を枕元に置き、ホルトンの家から持ってきていた、少ない荷物を肩にかける。
故郷を出た時とほぼ変わらない量だ。
金平石がなくなって、手持ちの金はかなり減ったことを考えると、さらに身軽といえる。
「元気でね」
眠るラグナルに囁くように告げると、私はそっと部屋を抜け出した。
ラグナルはぐっすり眠っていた。そんな必要はないと思うのに、足音を殺して風呂場に行き、壊れた隠し扉をくぐる。
「さあ、新しい生活の始まり!」
あえてポジティブな言葉を選ぶと、私は冷たい風が吹き付ける地下通路に足を踏み出した。




