その7
――絡め取られてしまう。
そう思った。
乞うように見上げる黒い瞳に。体を通して伝わる早鐘に。腕を掴む震える指に。
「あ……」
うまく切り抜けなければ。そう思うのに言葉がでない。
左腕から指が離れる。
この息苦しい空気から解放されるんだ。そう思ったのは束の間だった。
安堵に体の力を抜く前に、離れた指が頰に沿わされる。覚えているものより、ずっとしっかりとした指先の皮膚の感触にぞくりとした。
今なら、ラグナルの上から簡単に抜け出せる。そのはずなのに、頭の奥が痺れて体が動かない。
「イーリス……」
頰に指をあてたまま、ラグナルが上体を起こした。
ぐっと距離が縮まる。もう、熱い呼気さえ感じ取れそうだ。
親指が頰を撫で、ラグナルが顔を傾ける。
受け入れてしまえば、きっともう引き返せなくなる。
――今のラグナルと明日のラグナルは違うのに。
明日の朝には、もう私の知っているラグナルはいなくなっているはずだ。
怖かった。
解呪に力を使いすぎて己がなくなってしまうと感じたあの時より。
イーとして、当主の妹としてあるための力が足りないと思い知らされたあの時より。
兄が痛いほど私の指を握りしめたあの時より。
今が一番怖い。
私の目の前にいるラグナルは明日にはいなくなる虚像だ。幻に心を奪われるなんて
――絶対に嫌だ。
今、この場をやり過ごしたい。ただ、その一心で私は口を開いた。
「許嫁がいるの」
触れる寸前で、ラグナルがぴたりと止まる。ひゅっと息を吸う音がした。
「許嫁がいるの。……故郷に」
すっとラグナルが体を引く。しかし頰に添えられた手はそのままだ。
「イーリスが異国で狙われても、故郷に帰ろうとしない理由は、それか?」
言いながらラグナルは強い眼差しを私に向ける。
「イーリスはそいつのことが嫌いなのか? 結婚したくないから郷を出た?」
私は曖昧に頷いた。
好きか嫌いかと言われると、嫌いだと断言できる。
私にはない力を持ち、一族のだれからも認められ必要とされている。
気まぐれで、尊大で、自信過剰で、ポンコツだ。
嫌いだが、憎めない。私にとってそんな相手だ。兄は。
「イーリスがそいつのせいで危険なめにあっているのなら、俺が――」
ぐっと右腕を掴む手に力がこもる。
ラグナルは挑むような視線で私を見て、言った。
「そいつを殺ってやる」
なんだって?
背中を冷たい汗が滑り落ちる。
一気に頭の芯が冷えた。ふわふわと夢見心地だった心が現実に戻ってきた気がした。
「イーリスがいるなら俺がある場所はどこだっていい。故郷に帰りたいのなら、俺がそいつを消してやる」
いやいやいやいや。
「待った、待った。殺されたら困るから!」
なにせ相手はたった一人の兄で、イーの当主である。
私の力が期待していたものとは程遠いと知った一族は、せめて血筋を利用しようと考えた。
遠い昔、故国では異母兄妹の婚姻が認められていた。そんなふざけた理由で無理やり決められた婚約だ。
あの時、兄はまだ少年で、叔父や一族の年長者に逆らう力を持たなかった。今でこそ徐々に力関係は変わりつつあるが、それでもまだ盤石とは言えない。
だから兄は私をイーから出した。
『二度と戻ってくるんじゃないよ』
そう言って。
今思えば、何かと私を供にして連れ出したのは、来るべき時に備えて、私に外の世界の免疫をつけさせるためだったのだろう。
「なぜだ? イーリスはそいつのせいで、しなくてもいい苦労をすることになったんだろう?」
「いや、不本意なのはお互い様だったからね……。それに相手が気に入らないからって殺すのは人間の世界ではダメなの!」
てか、ダークエルフの世界はありなの? それとも人間は何人殺してもノーカンって考えなの!? 前者でも後者でも怖いんだけど!!
相手がいると知れば引くだろう。そう考えての発言がまさか兄の命の危機に繋がるとは。
「と、とりあえず、ちょっと落ち着いて考えてみよう」
依然として右の腕は掴まれたままで、私はラグナルの上に跨っている。なんとも居心地の悪い体勢だ。それでも頭は冷えた。
「まず、これだけは言わせて欲しいんだけど、許嫁を殺すのは駄目。絶対駄目。あの人が死んでもなにも変わらないから、むしろ悪化するから」
実際、兄が死んだら従兄弟辺りが候補に繰り上がるだけだろう。おまけに叔父の天下になってしまう。そんな里に誰が戻るか。
「第二に、私たちまだ知り合って日が浅いよね!?」
ラグナルが猛スピードで成長する様を隣で体験しているせいで、時間の感覚がおかしくなってしまっているが、出会って十日である。
「こ、こういうことをするのは、まだ、かなり、だいぶ、早いと思う!」
ラグナルは眉を寄せて、考え込むそぶりをほんの一瞬見せた。そして口を開く。
「出会ってからの時間は関係ない、と俺は思う」
「私は思いません!!」




