その5
ラグナルの名を出すと、ルツは首をかしげてから「ああ」と納得した様子で頷き、ノアは顔をしかめた。
「ダークエルフであるラグナルにしてみれば、イーリスは、その、脂ぎったエ……エロ親父に相当すると懸念されていた件ですね」
育ちの良いルツがエロ親父なるワードをためらいながら口にする。
私は頷いた。
出会ってからこちら、どんどん黒歴史を積み重ねさせ、挙げ句の果てに怒らせた。もうどうしようもないに違いない。
「女性を払いのけた話は聞きました。もし記憶を取り戻したラグナルがイーリスに怒りを向けるようであれば……」
ルツは言葉を探して言い淀み、自信なさげに小声で続ける。
「……説得してみます」
説得でどうにかなるものではないと感じたのだろう。
同感だ。
それに私の肩を持って、万一ラグナルが切れたら、黒魔法の使えるダークエルフに誰が太刀打ちできるというのか。
「やめたら?」
ふいにノアがそんなことを言い出す。
「やめるって、何を?」
問い返すと、ノアの視線は窓の外へ逸らされた。苛立たしげにスタッフの先端で床をコツコツと叩く。
「解呪をやめたらって言ってんの」
ため息と共に吐き出されたのは思ってもみない言葉だった。
「解呪を……やめる?」
「記憶とダークエルフの性を取り戻したラグナルがどうでるか心配なんでしょ。だったら、今のままにしときゃいいんじゃないの」
返す言葉もなく私は唖然としてノアを見つめた。ルツもまた意表を突かれた顔でノアを凝視している。コツコツとスタッフが床を叩く音だけが響く。
「なに二人して呆けてんのさ。別にそんなに悪い案じゃないでしょ」
しばらくして、ノアは手を止めると、ため息と共にそう吐き出した。
……確かに、ラグナルの人間への忌避感はぎりぎり制御可能なところで踏みとどまっているように感じるし、体は成長し剣の腕はキーランの折り紙つき。黒魔法は心許ないけど、本人の言を信じるなら、もっと魔力を使わない術なら平気そう。
二人でロフォカレに所属して働いて、大きな家を買って……将来は安泰。
って、そんなわけにいくか!
「悪い案じゃないのは、私にとってだけじゃない」
ラグナルにとっては悪い点だらけだ。
印が刻まれている以上、黒魔法は思うように使えずじまいだし、この先の成長だってどうなるかわからない。怒りに駆られて魔力を使いすぎて、また逆行しないとも限らないのだ。
記憶も本当の自分も失ったまま、人間に縛り付けられる。そんな状態がラグナルにとっていいはずがない。
そう言い募るとノアはふんと鼻を鳴らした。
「記憶を失う前が幸せだったとは限らないと思うけどね。黒魔法を封じられた状態で、解呪の方法を探して、一人であちこち彷徨ってたわけでしょ。エルフは仲間意識が強いとか言うけど、実際どーだか」
コールの森でまだ小さなラグナルを抱きしめたとき、彼は体を強張らせた。その様子を見て、抱きしめられるのに慣れていないのかもしれないと感じたことを思い出す。
黒魔法を使えないラグナルはダークエルフの中でどんな存在だったのだろう。
一人で剣を磨き、嫌いな人間の国を渡り歩く日々。幸せとは言い難い日々だったに違いない。しかし、それでも……
「まー、それも一つの案だと思ってよ。なんにせよ決めるのはイーリスだ。金の契約を交わすかどうか、ロフォカレに入るかどうか、解呪を進めるかどうか。納得いくまで、一人でゆっくり考えたらいいんじゃない」
そう言うと、私の答えも聞かず、ノアはルツと共に部屋をあとにした。
――一人でゆっくり考える、か。
ランサムとの話が終わった後にも言われた言葉だ。
まだ何も決まっていない状態だったのに、選択肢が一つ増やされた。
私はベッドに腰掛けると、そのまま柔らかい布団の上に体を沈めた。
バレないように城を抜け出し、また旅に出る。ほんの少し前まで道はその一つだった。
何が正解で、何が不正解か分からない。
足元から伸びるいくつもの選択肢の先に待ち受ける未来が見えなかった。
ベッドに寝転んだまま、それぞれの道の先を想像してどのくらいがたっただろうか。気付くと部屋の中は夕日に照らされており、テーブルの上に軽食が置かれていた。
食事が運ばれたことにも気付かず、眠りこけていたらしい。
色とりどりの具材が挟まれたパンは、いつもなら美味しそうに見えた。しかし今はどうにも食欲がわかない。
私はテーブルの横を素通りして、バルコニーに出た。
3階にあるルツの部屋の眺望は素晴らしかった。夕日に浮かび上がる、ヘリフォトの街と街につながる街道。風呂場の地下通路は、いったいどの辺りを通っているのだろう。
バルコニーを囲む柵に肘をついてぼうっと景色を眺めていると、誰かが後ろに立つ気配がした。
「お邪魔しています」
振り返るより早く声がかけられる。
低く抑揚のない声の主は、私の隣に並んだ。
「今度は貴方が話し相手になってくれるんですか?」
顔も向けずそう言うと、隣に立つ人物――ゼイヴィアが腕を動かす気配がする。眼鏡を押し上げでもしたのだろう。
「ええ、お聞きになりたいことがあるのではないかと思いまして」
聞きたいことは確かにある。
遺跡探索に乗り出したい。そのために金の契約で自身を縛り、モーシェの名を使いランサムを抑えてまで、解呪の力を欲している。
それはよくわかった。けど先ほど提示された条件の中には、私がロフォカレに所属しない道も示されていた。それが分からない。私がロフォカレへの所属を拒めば彼らに利益はないではないか。
そう疑問を口にすると、ゼイヴィアが小さく笑い声をもらす。
「貴女の人となりは理解していると申し上げたでしょう。貴女は出会って間もないラグナルを助けた。それも力を使えば、言い逃れができない状況になるとわかっていてもです。貴女はたとえロフォカレに所属せずとも、いざノアやルツや、キーランやウォーレスが呪にかかったら、見て見ぬ振りはできぬだろうと考えました」
ぐっと喉の奥で潰れた音がする。助けたりしない、とは言えなかった。いや、言葉にすることだけなら簡単だ。でも実際に印を身に受けた彼らを目にすれば、きっとゼイヴィアの言う通りになるだろう。まあ、金平石があればの話だけれど。
「言って見れば、万一のための備えです。貴女の居所が分かっているだけで、私たちはずっと安心して仕事に励むことができる」
もちろん、共に遺跡に挑んでいただくのが一番ですがね。そう締めくくるとゼイヴィアはバルコニーを離れ部屋の中に入っていく。足音は廊下へと続き、ぱたんと扉が閉まる音がした。




