その1
第一部(本編)最終章です。
ゼイヴィアの声に呼応して、軽く会釈をしてみせたのは、四十をいくつか過ぎた頃合いの男だった。
両サイドに白いものが混じり始めた髪。一目で高級品だと分かる衣服に身を包み、紳士然とした佇まい。雰囲気は全く違うが、顔の作りはマーレイと似ている。彼が領主であるというゼイヴィアの言葉を否定できる要素はどこにもなかった。
――早すぎる。
マーレイがルツと私を攫った話が王都にいるランサムに伝わり、彼が帰ってくるにはまだ日数がかかったはず。
「はじめまして。イーのお嬢さん。驚かせてしまってすまないね」
私の思考を読んだように領主が口を開いた。その声は存外柔らかだ。
「どうぞ」と目の前の席に着くように促され、私は重い足取りでソファに向かう。背後の扉の横にはキーランがいる。運良く彼を掻い潜り、この部屋から逃げ出せたとしても、外には大勢の騎士や兵がいるのだ。大人しく従うしかなかった。
「傷ついた狒々神とダークエルフがホルトンの森に入った件だけなら、こうして急ぎ戻ったりはしなかったのだが」
私が座ると、領主は満足そうに頷いて話し始める。
狒々神の存在は小さな脅威だ。隣領では領主自ら討伐に乗り出している。しかしその討伐で狒々神は手傷を負っていた。手傷を負った狒々神の討伐を指揮するために、王都に滞在する領主がわざわざ帰ってくるはずがないと、私は考えた。その予想自体は間違いではなかった。しかしだったらなぜ――
「マーレイのことがあったからね。彼は困った人間で、商才がないというのに事業に手を出し借金をこしらえてしまった。角のない狒々神を捕らえて売り払うぐらいなら好きにさせても構わなかったが、ダークエルフが絡むとなると話は別だ。良からぬことをしでかすんじゃないかと危惧して戻って来たのだよ。残念なことにそれは当たってしまったようだ。少々違う形でだが」
つまりオーガスタスから最初の連絡が入った時点で王都を発っていたということか。それなら日数は合う。
解せないのは、領主が帰ったことに気づかなかった点。まさか深夜に帰って来たとか?
納得のいかない気持ちが顔に出ていたか、ランサムは苦笑して話を続ける。
「お嬢さんには怖い思いをさせてしまったが、あの隠し通路はとても便利でね」
自分の城に帰還するのに、わざわざ娼館を経由するあの道を使ったと。それこそなぜ!
「貴女と話をするために、秘密裏に戻って来た。イーのお嬢さん。いや、イーの当主の妹君。イーリス嬢」
しらを切るのは無意味のようだ。もうマーレイと話を済ませた後らしい。それどころか、ルツもノアもゼイヴィアもウォーレスもキーランもあちら側だとなれば、否定したところで意味はない。
「ランサム様もマーレイ様も勘違いをしておられます」
「イーの人間ではないと?」
ランサムは優しげに微笑む。しかしその声には隠しようのない呆れが含まれていた。
「違います。私は確かにイーの出で、兄は当主ですが、私に利用価値はないと言っているんです」
誰も彼もイーと言うだけで、簡単に解呪が出来ると思いやがって!
私は荒れる気持ちに任せてランサムを睨みつけた。
「私がなぜ里を出されたのか……いえ、里を出られたのか、分かりますか? 力が弱くてろくに使い物にならないからです。私に解ける印はせいぜい劣化した呪いぐらいで、契約印なんて高度なものは金平石を山ほど用意してもらっても解けるかどうか」
本当に山ほど用意されたら解けるだろうけど、そこは伏せておく。
「私を使うのは割りに合わないと思いますよ。あと、言っておきますが、私のためにイーは動きません!」
一気に言い切ると、ランサムは再び微笑んだ。
「なるほど」
今度はなぜか可笑しさを隠しきれないといった声音だ。
「イーリス嬢の言い分はわかった。しかしそう肩肘を張らなくてよろしい」
こっちだって好きで張っているわけではない。私はムッとして押し黙った。
ランサムはそんな私を見て笑声をこぼす。それが余計に神経を逆撫でる。
自分が苛立っているのは分かる。そのせいで頭がろくに働いていないのも。
ランサムがこっそり帰城していたことがショックだったのではない。
私を案じてくれていた風だったルツや、「見くびらないで」と言ったノアや、私の素性を詮索する気はないと明言していたキーランや、何も知らないはずのゼイヴィアやウォーレスに裏切られたようで悲しかった。
自分は彼らを信じず逃げ出そうとしていたのに、裏切られたと思うなんて、破廉恥な考えだと承知している。けれど、胸を締め付けられるような痛みを感じた。
「曲者のイーの当主の妹君というから、どのような人物かと思ったが……。まるで毛を逆立てる猫のようだね」
――馬鹿にしてる? 馬鹿にしてるよね?
苛立ちが最高潮に達した時だった。
「……ランサム様」
ゼイヴィアが指でメガネを押し上げながら、嘆息する。
と、同時になぜか私を見て「落ち着きなさい」と声をかける。
いつもは外野が騒ごうが我関せずな人物に窘められて、不思議なことに苛立ちや焦燥が引いていく。
「いや、すまない。随分と可愛らしいお嬢さんなものだから。」
ランサムはそう言って居住まいを正した。
「身内が失礼した。イーリス嬢やルツ嬢を巻き込んだのは私の手抜かりだ。申し訳ない」
言うなり、頭を下げる。
――えーと?
なんだか思っていたのと違う展開に頭がついていかない。
「あれが目先に囚われる阿呆だとは分かっていたが、これまで表立って咎め立てられる愚挙をしでかしたことはなくてね。銀の契約印でしばる以上のことはできなかった。いつかやるだろうとトリスタンを付けていたら……」
ランサムは言葉を切ると、長く息を吐く。
「よりによってモーシェとイーの娘に手を出すとは。あの愚か者が」
青筋を浮かべて窓の外を睨みつける。たぶん、マーレイが捕らわれている地下の牢がある方角なのだろう。
「このようなことを申し入れられる立場ではないと重々承知しているが。イーリス嬢、この度のこと、どうか全て伏せさせてはいただけないだろうか」




