その14
「忘れ物を取りに……」
キーランは、ばればれの言い訳を口にする私の肩を掴んで反転させる。
「逃げても仕方ないだろう。同じ城の中にいるんだ。すぐに顔を合わせることになる」
だからってこの中に入れと? 殺生な。
「遅くとも、昼食時にまた会いますね」
ノアの暴走を止めてくれなくなったルツが、キーランに同意するような言葉を口にする。
「そうかもしれませんが」
そんな扉の前の問答が中に届いたらしい。
ガタンっと大きな音が響いたかと思うと、中から戸が開いた。大きな人影が姿を現す。
「イーリスッ」
廊下に設けられた細長い窓から差し込んだ陽光が、銀の髪を映し出した。
「ラ……グナル」
昨日は私より少しばかり高いだけだったラグナルは、今日はもう見上げなければ目線が合わない。しなやかで細かった体も、骨ばり厚みが出てきて男らしさが増している。
徐々に鋭くなっていく目つき。扉を押さえる大きな掌。少年と青年の狭間にあるダークエルフが私を見下ろしていた。
――こ、これを組み敷いたのか。
朝の成長具合を確かめるのは楽しみの一つだったのに、近頃心臓に悪い。
「もしかして話を聞いてたのか?」
ここで肯定するほど耄碌してはいない。
「話?」
「あれだけ大きな声で言い争っていれば聞こえる」
なんのこと? そう続ける前に背後からキーランの声が降ってきた。
途端にラグナルが目に見えてうろたえる。
「今のはっ、その、売り言葉に買い言葉でああなって……」
焦った様子で言葉を紡ぐラグナル。おろおろと忙しなく視線を彷徨わせ、怜悧な美貌が台無しである。
人は自分よりパニックになっている人がいると落ち着くものだ。年上の余裕を取り戻した私は、ぽんとラグナルの腕を叩いた。
「分かってるよ。そもそも昨日は私が悪かったんだし」
「イーリスは悪くない。俺が勝手に思い違いをして、あんな……」
昨晩のことを思い出したのか、ラグナルは頰を染める。その姿はどんな見目麗しい少女も裸足で逃げ出してしまいそうなほど、初々しく艶っぽい。
「あんな……」
思い出し続行中らしいラグナルの顔がどんどん赤みを増していく。
「……俺、今日は朝飯いらない!」
そう叫ぶように言うと、さっとキーランの横をすり抜けて、廊下を走り、あっという間に姿を消した。
止める間もなにもあったものではない。私はぽかんとして彼が去った先を眺めるしかなかった。
乙女か。
にしてもキーランめ。なんて余計な一言を。
私は背後を振り返って、その巨躯を睨みつける。キーランは苦笑すると、私を食堂へと促した。
「とりあえず、飯にするとしよう。ラグナルにはあとで何か持って行ってやるといい」
中に入ると、テーブルに並んだ料理の数々がたてる湯気越しに、皆の視線が突き刺さる。
「ラグナルは逃げたか」
「逃げましたね」
「チキン」
ウォーレスはいつものニヤニヤ笑いで、ゼイヴィアは涼しげな顔で、そしてノアはふんと鼻を鳴らして言った。
朝食の時間は、それはそれは居心地の悪いものだった。
面と向かって何か言われるわけではない。
しかしウォーレスは楽しそうな表情で時折意味ありげな視線を私やノアに向けるし、そのノアは不機嫌丸出しだし、ルツはウォーレスを咎め出すし、キーランは終始呆れ顔だし、ゼイヴィアはいつも通りだし……
私は流し込むように食事を終えると、ラグナルの朝食を部屋に運んでほしいとお願いして、食堂をあとにした。
こうして針のむしろを抜け出したはいいものの。さて、どこにいこう?
さっき聞いた話だと、今夜もラグナルはノアと同室を望んでいるようだから、元の部屋に戻るのも気まずい。
いや、そもそも顔を合わすこと自体気まずい。
かといってウーイル姉弟のために用意された、豪華な部屋に朝から入り浸るのも気が引ける。
――せっかく一人なんだし、城壁の状態でも確かめるか。
風呂場の隠し通路は出る先を考えると、やはり気が進まない。
子供のころ、屋敷に居場所のなかった私の遊び場はもっぱら近くの森の中だった。おかげで木登りは大の得意だ。壁の側に木が生えていればしめたもの。
そう考えて外に続く扉に足を向ける。
「どこに行くんだよ」
そう横手から声がかけられたのは、階段の前を通ったときだった。
声のしたほうを向けば、階段に腰掛けたラグナルが頬杖をついて、こちらを見上げていた。
もしや、私が城内をふらつくのを見越して、釘を刺すために待っていたのだろうか?
「大人しくルツと部屋に戻ってろ」
つっけんどん且つ、ぶっきらぼうな口調でそう言うと、睨みつけてくる……。
――睨んでるんだよね?
小さなころは飴玉のように大きくまん丸だったラグナルの目は、成長するたびに切れ長になっていった。しかもややツリ目気味だ。おかげで下から見上げられると、迫力がある。たとえ、本人にその気がなくとも。
「ずっと部屋にこもってても暇だし、ちょっと散歩に行くだけ。ちゃんと人目のあるところを選ぶから心配しないで」
ダークエルフがこんなに心配性だとは思いもしなかった。
おどけた口調で言うと、ラグナルはむっとした様子で立ち上がった。
「なら、俺も行く」
「いいよ。別に……。日中だし、本当に安全なところしか行かないから。それより部屋に食事を届けてもらうようにお願いしといたから、戻って食べておいでよ」
「腹は減ってない」
そんなはずはない。
朝からよくそんなに食べられるなと感心するほど、いつもぺろりと平らげるのに。
「分かった。じゃあ、私はルツの部屋にお邪魔する。だからラグナルは食事を摂って」
ルツの部屋に向かってから、こっそり抜け出そう。
階段に足をかけると、ラグナルが立ち上がった。
ただでさえ、身長が伸びて見上げないといけないのに、階段の上に立たれると、威圧感が半端無い。
「俺が部屋に戻ったら、一人でこっそり散歩とやらに出るつもりだろ」
……バレてる。私はそんなに顔に出やすいのだろうか?
「本当に腹は減ってないんだ。だから腹を空かせるのに、散歩に付き合ってやるよ」
いかにも、仕方なくという雰囲気を漂わせるラグナル。
――この言い方、覚えがある。
あれは確かラグナルがちょっぴり扱いづらい少年期になった時だ。
ハッキ草の仕込みをしていると、それまで拗ねていたラグナルがいつのまにか鍋を覗き込んでいた。「疲れちゃったな」と言えば、さも本当はやりたくないんだけどと言わんばかりの態度で、でも楽しそうに鍋を混ぜ始めた。
ぐっと大きくなって偉ぶっても、ふいに覗かせる幼い頃の面影に、思わず笑みがこぼれる。
返事もまたずに歩き始めたラグナルの後を、私は笑いを噛み殺してついて行った。




