その8
ラグナルは少年。
ラグナルはダークエルフ。
ラグナルは記憶喪失。
着替えに袖を通しながら、呪文のように心の中で繰り返す。
ここ2、3日の私はおかしい。
まだ少年のラグナル相手に、照れたり、狼狽えたり、照れたり!!
ラグナルの言動に、さざ波を立てる自分の心が信じられない。
――しかもなんだ、さっきの対応……
できることならさっきの自分を、箱に押し込めて蓋をして、布で固く縛って、土の中に埋めて、大岩を置いてしまいたい。
ラグナルは普通の状態ではない。そうでなくても、期待を持たせるなど以ての外だ。
金平石はあと三つ。つまり今日を含めてあと三日。
言動にはよくよく注意しなければならないだろう。
――絶対に動揺を見せたりしない!
そう心に決めると、私は深呼吸をしてから扉を開けた。
ラグナルは廊下の壁に背中を預けて待っていた。
その左手が、腰に下げられた黒いグリップに添えられているのを見て、私はようやく彼が帯剣していることに気づいた。
「ラグナル、その剣……」
朝食を摂るのに剣が必要だろうか?
「これがないと、俺にはイーリスを守れない」
黒魔法は使えないから。恥じるようにそう言われて、扉を開ける前の決意に早くもヒビが入った気がした。
しかし、ここで負けてはいられない。
「トリスタンが城の中は安全だって言ってたでしょ?」
だからなのか、常にスタッフを携帯していたノアは、昨日の食事時は手ぶらだった。
キーランとウォーレスは、ずっと食堂の壁に立てかけているけど。
「それに、別にラグナルに守ってもらいたいなんて思ってない」
さらっと告げたつもりだったのに、思ったより硬い声になってしまった。
ラグナルの顔が悔しげにゆがむ。
「俺がそうしたいから、するだけだ」
ラグナルはふいと顔を背けると、歩きだす。
私は黙ってその背中を追いかけた。
そっとため息をこぼす。
――傷つけたいわけじゃないのに……
食堂にはキーランとウォーレスしかいなかった。
時間に遅れたわけでもないのに、と不思議に思っていると、ウォーレスがグラスを片手に口を開く。
「マーレイの件で協議することがあって、魔導師たちは忙しいらしい」
仄かに香る酒の匂い。
眉をひそめてグラスを見ると、ウォーレスはにっと笑った。
「面倒ごともあらかた終わったしな。鬼の居ぬ間になんとやらだよ」
鬼というのはゼイヴィアを指しているのか、それともルツを指しているのか。
私は何も言わずに自分の席についた。
ご丁寧に私の食事は、すでに一口大に切り分けてある。
傷口が引き攣れるものの、カトラリーを持つ手は昨日より滑らかに動いた。痛みもほぼない。この分なら明日には自分で切り分けられるだろう。
正直、ここまで早く良くなると思わなかった。驚異的な薬効だ。素材からしてものが違うのだろうが、自分の作る薬と比べて、情けない心地がした。
「黒剣の使い心地を確かめてみないか?」
食事が終わると、そう言ってキーランがラグナルを誘った。
ラグナルは私の様子を窺うように見る。
「行ってきたら? せっかく自分の剣が手元に戻ったんだし。私は城内を散歩でもしてるから……」
「なら俺も散歩に付き合う」
私のことは気にしないで。と言いたかったのに間髪入れずにラグナルは断言した。
トリスタンに安全だと言われても、ラグナルは信用できないらしい。
「おいおい、ラグナル。黒魔法はどうだか知らんが、剣は稽古をしないと腕が鈍るぞ? イーリスさんには俺が付き添うから心配するな」
軽い調子で言うウォーレスをラグナルが睨みつける。しかし思うところがあるのか、ラグナルは反論を口にすることはなかった。
「ウォーレスが護衛に当たって城の中にいるなら大丈夫だ。それよりいざという時に、剣が使えないでどうする」
そんなラグナルにキーランが諭すようにかけた言葉が決定打になり、私とラグナルは別行動になった。
思えば、コールの森でラグナルと出会ってから、入浴を除いては初めての別行動だ。
建物の角を曲がり、二人の姿が見えなくなると、ウォーレスはぶはっと吹き出す。
「目を離すのが不安で仕方ないって感じだな。よほど風呂場でイーリスさんが拐われたのが堪えたらしい」
隠し通路の存在を示すために落とした下着を目にしたラグナルが切れて大変だったと言っていたっけ……
「しかし、それでも我慢したんだから成長したもんだ」
なおもくっくっと笑い続けながら、ウォーレスはそう評した。
「どの時点のラグナルと比べて言ってるんですか?」
コールの森についてくると言い張ったラグナル? それとも昨日のラグナル?
「うーん、強いて言うなら唇に触れられただけで逃げ出した頃だな」
「そういうことありましたね……」
たった二日前の出来事なのに、もっと前のことのように思うのは、ラグナルの成長が早すぎるせいだろうか。
普段のウォーレスは、ややお調子者のきらいがあるが、明るく口数も多い。
城の周りをぐるりと歩きながら、色々な話を聞いた。
ホルトンの街で一番美味しいモツ煮込みを出す店の場所や、あっという間に売り切れる人気菓子店で確実に焼き菓子を買う方法など、その多くはホルトンの街にある様々な店についての情報だ。
初めて聞く店の名前ばかりで、一年暮らしていたとは思えないほど、私はホルトンについて知らないのだと気付かされる。
金銭的な問題もあったが、それ以上に気持ちにも余裕がなかったのかもしれない。
他にも、もっと遺跡に潜りたいが、好奇心の塊のノアが危なっかしくて、オーガスタスやキーランが渋い顔をするとか、ルツがいると夜しか酒を飲めないとか……
辺りに視線を走らせながら、ウォーレスの話に時折相槌をうち、そうやって一周し終わる頃になって、ウォーレスは口調を改めて言う。
「なあ、イーリスさん。敬語はやめないか?」
私は足を止めずに、隣を歩くウォーレスを見上げた。
「狒々神討伐後はちょっと砕けてた時もあったろ。ノア以外にはあっという間に敬語にもどったが……。俺たちのチームは身分や年齢は関係なしの仲間って認識なんでな」
ルツのあれは誰にたいしてもで、もう慣れたが、あんたのそれは取って付けたようでしっくりこない。
そう言うウォーレスの声は、いつもの軽い口調とは違い真剣そのものだった。何より目つきが違う。何かを見定めるような、探るような目でじっと見据えられ、返事に窮する。
「なあ、イーリスさん――」
答えない私にじれたのかウォーレスが言いかけた言葉は突如上がった歓声に遮られた。




