その10
嵐のような時間だった。
ルツに上手くごまかせたと思ったら、あっさりノアに看破されて、おまけにラグナルが探していた人が私だと分かり……
せっかくの久々の風呂だったのに、疲れを落とすどころか、却って疲れが増した。
はぁと息をついて椅子に腰掛ける。すぐ傍にラグナルが立つ気配がした。
「あいつ、湯を浴びただけで、急に風呂場を飛び出して。まさかイーリスのところに行ってるとは思わなかった」
「あー……そうなんだ」
口を開いてはみたものの、何と言っていいか分からず、気の抜けた返事を返す。
――一目見て、気付いたわけか。
ラグナルの印が解けかけていることについて、突っ込まれるとは思っていた。それを「ダークエルフの魔力がなせる技」と誘導して押し通せばいけると思っていた自分の甘さにうんざりする。
『お前は根っからの楽天家だね。それを美点と言う者もいるかもしれないが、断言しよう。紛うことなき欠点だよ。お前にとってはね』
いつだったか兄に下された評価は、悔しいことに間違ってはいなかった。
よもや、街の名前にすぐに反応した時点で、引っ掛かりを持たれていたとは。
「やっぱり離れるんじゃなかった……」
ぽつりと零された言葉は後悔が滲んでいた。
隣を見上げると、唇を噛み締めるラグナルの顔が目に入る。
「ラグナルが気にすることじゃないよ」
私の見通しが激甘だっただけだ。笑って何でもない風を装おうとしたが、自嘲が混じっていたのかもしれない。ラグナルが顔を歪める。
「俺はそんなに頼りにならないか」
「そんなことは……」
ないとは言えない。今のラグナルはまだ子供だし、かといって成長して輝ける黒き星(笑)に戻れば、数々の地雷を踏んだ私をどう思うか。
「俺、早く大人になりたい」
その呟きは、かろうじて聞き取ることができるほど小さなものだった。
妙な雰囲気になってしまったまま、言葉少なに就寝の言葉を交わしてベッドに横になった。
なかなか寝付けなかったのか、しばらく寝返りを繰り返していたラグナルは少し前から静かに寝息を立てている。体力も気力もまだ子供なのだ。
――早く大人になりたいか……
そうラグナルが口にした時、私は逆を願ってしまった。まだ戻らないで欲しいと思ったのだ。
朝、目覚めるごとに劇的な変化を見せる彼についていくのがやっとで、困らせられてばかり。なのに一方でそれを楽しいと感じる自分がいる。
私はベッドから降りると、旅嚢の底から金平石を取り出した。
残りはこれを入れて六つ。昨晩は思いの外、力を持っていかれて焦った。今晩からはもっと慎重に進めようと考えていたが……
――急ごう
指の先に懐剣の刃を滑らし、私は解呪に取り掛かった。
「つっかれたぁー」
自分のベッドに戻るのも億劫で、私はラグナルのベッドの横にへなへなと膝をついた。
今日は昨日よりさらに力を消費した。ラグナルの願いに応えるように、貪欲なまでに力を吸い取られたのだ。
おかげでこれまでで一番、解呪が進んだ。
私は血で汚れていない指先で、そっとラグナルの頰をつつく。
「明日はどうなってるのかな」
しばらく寝顔を眺め、足腰に力が入るようになってきたところで立ち上がる。
と、控えめに扉をノックする音が響いた。
――こんな時間に?
寝たふりをするべきか、それともラグナルを起こすべきか。迷っていると声が聞こえる。
「イーリス、俺だ」
キーランの声だった。布で血を拭い、懐剣を腰に差しそっと扉に近づいた。
「どうかしましたか?」
「ラグナルはもう寝たか?」
声量を落としてキーランが尋ねる。
「はい。寝ましたが……」
背後のベッドで眠るラグナルを振り返ってから答える。
「念のため部屋を交替してほしい」
私は鍵を開け、薄く扉を開けた。冷んやりとした空気が流れ込んでくる。
廊下にはキーランとノアの姿。二人を確かめると、大きく扉を開けて部屋の中に招いた。
「起こしますか?」
「寝かしといて」
ノアが羽織っているローブを脱ぎながら言う。
「でも部屋を交替って……」
「うん、僕とイーリスが替わる。言ったでしょ。僕かルツと一緒にいた方が安全だって」
それは、明日の朝に血を見る事態になるのでは!?
「今のラグナルに遅れをとるつもりはないけど」
言いたいことが伝わったのか、ノアはベッドで眠るラグナルに目をやる。
「明日の朝には今のラグナルじゃないかも。いつも起きると成長してたから」
特に今回は今までになく解呪が進んだのである。どれだけ変化しているか分からない。
「ふうん、まあ、いいや」
いいのかなあ……
「イーリス、部屋までおくろう」
後ろ髪を引かれる思いで、私はキーランとともに部屋を出た。
「遅くにすまないな」
「いえ……。ひょっとしてラグナルが寝るのを待ってました?」
キーランはくっと喉の奥で笑った。
「ああ、ラグナルはノアと同室など嫌がるだろう?」
いの一番に彼が寝たか尋ねたのはそのためか。
明日の朝、ラグナルが起きる前に部屋に戻ったほうが良さそうだ。問題はいつも私より早く目覚めていたラグナルより先に起きられるかどうかだが。
所々に灯りのともされた薄暗い階段を登ると、キーランは並んだ扉のうちの一つを軽く叩いた。
「はい」
中からルツの声がする。
「イーリスを連れてきた」
――あれ?
私とラグナル以外は一人部屋だったはずだ。ところが連れて来られたのはルツの部屋。
「あの、私はノアの部屋に移るんじゃ?」
「俺もそう思っていたんだが、ノアがイーリスはルツの部屋にと言い張った。詳しくはルツに聞くといい。何か考えがあるんだろう。俺は貴族間のことには頭が回らない」
キーランがそう言い終えるのと同時に鍵を開ける音がして、ルツが顔をだす。
そっと背を押されて部屋に入ると、背後で扉が閉められた。
ルツの部屋は……私とラグナルに割り当てられた部屋よりもかなり豪華だった。まあ階が違った時点でそうなんだろうなあとは思っていたが。
床には複雑な文様の描かれた絨毯が敷かれ、窓には美しい飾り硝子がはめ込まれている。ベッドも大きい。けど一台しかなかった。
「夜半に申し訳ありません」
「いえ……あの……」
なんと切り出したものか。窺うようにルツを見ると、彼女は眉を下げて微笑んだ。
「ノアの部屋に案内されると思っていましたか?」
「ええ、まあ」
ルツかノア。どちらかと一緒にいた方が安全だというなら、より安全なのは魔術の腕に優れたノアの傍だろう。ダークエルフに対する邪な願望は契約印によって制限されているわけだし。だからラグナルにノアが張り付くことになったのだと思った。もちろん、ルツが女性だという問題もあったのかもしれないが。
でも私がルツと、一人部屋を押してまで一緒にいなければならない理由は?
「当初はその予定だったのですが、その……」
ルツは言葉を切り、言いづらそうに続きを口にする。
「どちらを気にしていたか五分になったと、ノアが言い出しまして」
まさかの理由だった。
ラグナルはマーレイが私を見ていたと言っていたが、いや、でも、まさか。
そんな私の戸惑いを感じたのか、ルツは訥々と話し出す。
「マーレイは……かつてルンカーリを訪れています。観光だと本人は言っていたようなのですが」
ドクンと心臓が跳ねた。ルンカーリは東や南東の大陸に渡ることが出来る船が出る、大きな港を備えた国である。船に乗る者はもちろんのこと、裕福な貴族や商人が他大陸の品々を求めて訪れる。イーの里に依頼に来る者は、そんな人々に混じってやってくるのだ。
「彼の契約印に異変はないか視てほしいと、領主のランサム様が兄に相談に見えられたことがあるのです」
無用な後継争いを防ぐため、契約印を用いるのは珍しいことではない。
マーレイはその契約印を破棄しかねない人物だと思われているわけだ。
「兄の見立てでは彼の印に変化はなかったようです。ですが、だからこそ……その、イーリスが、危険ではないかと」
依頼人と交渉するのは兄や叔父と言った一族の大人の男たちである。話を聞き、受けるかどうかや、依頼料を決定する。そこに女の出番はない。
もしマーレイがイーの里を訪れてなお、印を刻まれたままだったとしたら、依頼を撥ねられたということだ。
一族の他の女であれば、この時点でマーレイと顔を合わせる機会はなかったと言える。
しかし私は兄のお供で、近くの街に出かけることがあった。マーレイがもしも街で兄を見かけ、その隣にいた私を目にしていたのだとしたら、知られている可能性はないとは言い切れない。
「本当に申し訳ありません。マーレイ自身の地位は高いものではないのですが、彼の母方の血が厄介で無碍にも出来ないのです。明日には城を発てるはずですので、一晩だけ我慢していただけますか」
挙動不審ってだけで、決め付けるわけにも、問い詰めるわけにもいかないのはわかる。
そもそもルツやノアやロフォカレの皆が一緒ではなくマーレイが黒だったら、どうなっていたことか。
想像するだけで、ぞっと寒気が走った。




