その4
街の周壁を潜った途端、ラグナルは灯りと喧騒に目を覚ました。
隣領の討伐隊が討ち漏らした狒々神の討伐に出向き、成功したという一報がすでに街に伝わっていたらしい。人々が討伐に参加した勇者の姿を一目見ようと集まっていた。
とっくに出来上がっている人の数が少なくないあたり、ただ飲んで騒ぎたいだけな気もするけど……
すっかり日も暮れたというのに、街の中はランタンと魔術師の作り出す光球の灯りで昼のように明るい。酒と煙草と肉の焼ける香りが辺りに漂い、お祭り騒ぎだった。
人々の歓声にロフォカレやアガレスのメンバーは余裕の表情で手を振って応えており、街兵や飯屋の親父さんらも誇らしげに胸を張っている。
これほどの騒ぎになると思っていなかった私は、驚きを通り越して気圧されていた。ラグナルも同じだったらしく、カーソンの腕から抜け出して、顔を埋めるようにして私の腕にくっついている。
そっと隊列を離れても誰も気づかないんじゃないか? とは思ったものの、オーガスタスに挨拶もせずに勝手に帰るわけにもいかない。
ラグナルと二人で小さくなりながら街を歩き、ロフォカレのギルドハウスに到着した時には心底ほっとした。
隣の酒場を貸切り、討伐に加わった人々にこれから酒と食事が振舞われるらしい。
最初に森に入った面々と、ゼイヴィア。それからアガレスのカーソンはオーガスタスの執務室に呼ばれて集まっていた。
「ふむ、どうしたものかね」
賞賛の言葉で一行を出迎え労ったオーガスタスは今、思案顔で机に指を打ち付けている。
机の上に並べられた森で拾い集めた物を前に、起こったこと、ラグナルと漆黒に煌めく月光が同一人物である可能性が高いことなどを全て聞き終えてからずっとこの表情である。
「この騒ぎだからねえ。城代への報告を引き伸ばしておくのも難しくなった。近く召喚状が来るだろう」
オーガスタスが城代を嫌う理由はぼんやり分かった。狒々神が近くの森に潜んでいる可能性について警戒を促しもしない人物を信用できるはずもない。
ただ抜けているだけならいいのだが……
「ラグナル、これらを見て何か感じることはないかい?」
机の上の品々――ズボン、長靴、剣帯、黒剣、趣味の悪いパンツを示してオーガスタスが問う。
パンツまで並べなくてもいいんじゃないかなと思うのだが、変に突っ込むのが怖くてスルー中だ。
ラグナルは首を伸ばして机の上を見て、無言で首を横に振ると、また私の腕にひっついてしまった。
大勢の人々に囲まれたことで、すっかり萎縮してしまっている。寝起きだったしな。
そんなラグナルのお腹が小さく鳴る。
オーガスタスは目を細めて笑った。
「これは気が利かず申し訳ない。難しい話は明日にしよう。隣で何か食べてくるといい。キーランとウォーレスはまず治療だね。下に医術師を呼んであるから診てもらいなさい」
そうオーガスタスは気遣ってくれたものの……
「やだ、僕、イーリスお姉ちゃんの家で食べる」
酒場の前でこれである。
「だってさ」
「ちょっと待っててください。料理を包んでもらってきます」
ノアとルツは予想通りといった顔だ。
家まで送ると言うノアに、ラグナルがあからさまに拒否を示したため、私はカーソンとラグナルと共に家路についていた。私の手にはラグナルが。カーソンの手にはルツが持ってきてくれた料理の包みがぶら下がっている。
「あの、なんだかすみません。送っていただいて」
「気にするな。俺はもともと家に帰るつもりだったしな。しかし貴女も大変な事態に巻き込まれたものだな」
一児の父であるカーソンは落ち着きのある誠実そうな男だった。ゼイヴィアがラグナルを託し、オーガスタスが同席を求めたことからも、彼の人柄が想像できる。
「同じように子供として扱っていいのかわからんが、先達として困ったことがあれば相談にのるよ」
そう言って去っていく後ろ姿に頭を下げ、私はラグナルと共に家に入った。
――疲れた。
昨日も大概疲れたが、今日のそれは昨日とは比べ物にならない。
その場に座り込んでしまいそうになる体を叱咤して、机にもらった料理を広げる。
ラグナルの顔がみるみる輝きだした。ついでにお腹が一際大きな音をたてる。
「手を洗ったら、先に食べてていいよ」
私はラグナルに声をかけて湯を沸かしはじめた。
流石に今日は体を洗ってもらわなければ、ベッドにあげたくない。
盥を用意しながらラグナルを見れば、今朝と同じ食前の祈りを捧げていた。お腹を鳴らしながら、早口で祈りの言葉を紡ぐラグナルを見ていると微笑ましい気分になる。弟がいたらきっとこんな感じなのだろう。
ふと二人暮しも悪くない、なんて感傷めいた気持ちになりかけて苦い笑いが漏れた。
自分一人の暮しを成り立たせるだけで精一杯なのだ。森に材料の調達にも入らなければならない。彼を置いておくのは無理だ。
けど、今のラグナルの様子では他の人に預けるのも難しそうだ。
あの複雑で強力な印を、全て解くのは私には不可能だが、せめて自らを守る力と記憶を取り戻せれば……
「私、どうなっちゃうんだろう」
そこが問題だ。
出て行ってもらうには印を解かなければならない。
しかし解いてしまえば、私の身が危うい。
堂々巡りである。
「イーリスお姉ちゃん、どうしたの? 早く食べようよ。ちゃんと半分こにしてるよ」
呼ばれて顔を上げると机の上には、綺麗に半分に分けられた料理の数々。
――そういや、食べ物は半分こって約束もしてたな
どうやって約束をなかったことにしてもらおう。それとも記憶が戻れば約束なんてなかったことになるだろうか?
「ありがとう。美味しそうだね」
とりあえずさっさと食べて、ラグナルがまた寝てしまう前に体を清めさせよう。
私は木箱を引きずりだすと、椅子代わりにしてラグナルと食事を始めた。
食後の後片付けを終えるころに、ちょうど湯が沸く。
水と混ぜて桶に張ると、早くも船を漕ぎはじめたラグナルを呼んだ。
「ラグナル、待ってまだ寝ちゃだめ。今日はちゃんと体を洗おう」
ラグナルは目を擦りながらやってきた。
「お風呂?」
「そう、盥しかないけどね。はい、脱いだ脱いだ」
……お湯をかき混ぜながら急かしてから、ハッとしてラグナルを振り返る。
「ま、待って!」
しかし、時すでに遅し、ラグナルは素っ裸になっていた。
「待つの? もう脱いじゃった」
そうですね……。
「えーと、ラグナル。私、隣の部屋で干してあるサオ茸の様子を見てくるから一人で体を洗ってくれる?」
なるべくラグナルを見ないようにして告げる。
子供のラグナルの裸を目にしても、体を洗っても、何とも思わない。
が、輝ける黒き星が大人の力と体と思考を取り戻したとき、果たして何とも思わずにいてくれるかというと甚だ疑問である。
「一人やだ。イーリスお姉ちゃんも一緒に入って」
突き放されたと感じたのか、ただ単に眠たいからか、ラグナルの目に涙が浮かび始めた。
「い、一緒には無理、かなあ? ほら、盥小さいし!」
ラグナルの涙はまだ引かない。
『邪険にしちゃって、恨まれても知らないけどねえ』
笑い声と共にノアの声が蘇る。
「わかった。そばにいるから……」




