その5
「いい天気だねー。ね、ラグナル」
笑顔で振り返る。
ラグナルはベッドに足を組んで腰掛け、さらには肘をついて外方を向いていた。
「そうか」
相槌を打つ声は低い。
ラグナルはわかり易く拗ねていた。
意外とムッツリなところも好きだけれど、朝から応える勇気はない。
そうでなくとも遺跡帰りなのだ。汗や砂埃が気になるというものだ。
それに……正直怖いのである。
調剤師という立場上、男女の営みについて一通りの知識はある。避妊薬は欠かせない薬の一つであるからだ。
しかし、その手の実践経験は一切なかった。なにせ世間とは隔絶されたイーの里で育ち、気づいた時には異母兄の婚約者がいたのだ。
里を出てからは日々の暮らしで精一杯。恋愛に現を抜かしている暇などなかった。
「えーと、ラグナル。人間には何事も順序ってものがあって……」
そう言うとラグナルはようやくこちらを見た。
「結婚か?」
「それもあるけど……。ダークエルフは結婚しないの?」
ふとランサム様の城のバルコニーでした会話を思い出す。
あの時も感じたけれどダークエルフにとって結婚は身近な制度ではないのだろうか?
「結婚という概念がない。気に入った相手がいれば共に暮らして時には子を儲ける。そのまま長い時を添い遂げる者もいるし、途中で相手を変える者もいる」
自由だな、と思ったけれど、よくよく考えてみれば人間も似たものかもしれない。最後まで一人と添う者もいれば別れる者もいるのだから。
ラグナルは立ち上がると、窓の側にいる私の前に立った。
「人間の世界で生きる以上、人の慣習に従うつもりだ」
言ってラグナルはじっと私を見つめる。私がようやく決めた覚悟を、彼はいつからしていたのだろう?
「イービル山脈には帰らなくていいの?」
ラグナルが眉を寄せるのを見て、慌てて言葉を付け足す。
「ああ、えっと、一人で帰れって意味じゃなくて、その……ご挨拶的な?」
おたくの息子さんを下さい。と頭を下げるべきなのだろうか。
ラグナルはふっと笑った。どこか自虐的な笑みだ。
「必要ない。魔女に印を受けてから俺に親はいない。俺を育てたのは里の長だが、それも義務感と憐憫からだ。里を出るとき、あとは好きにしろと言われている」
「ラグナル……」
黒魔法を封じられたダークエルフが、これまでどんな時を過ごしてきたのか。
無性に抱きしめたくなる。私はラグナルに向かって手を伸ばしかけた。
「イーリスこそどうなんだ? あの兄に会いにいかなくていいのか?」
あのに妙に含みがある。散々な目に遭わされているのだから当然か。
「それこそ必要ないかなー。二度と戻ってくるんじゃないよって言われてるし」
何より万が一、一族のものにラートーンの支配が解かれていることを気づかれたら、面倒なことになる。
「そうか……ところで、その手は?」
ラグナルは頷いてから、伸ばしかけた手に目を止めた。
「いや、ちょっと、抱きしめたいなと思って」
正直に気持ちを告げる。ラグナルは深いため息をついた。
「抱きしめるだけで済まない覚悟があるのなら」
私は素直に腕を下ろした。
体を清めて少しでも仮眠したいから、と言うとラグナルは「あとで迎えに来る」と言って宿屋に帰っていった。
火打ち石で炭に火を付け、湯を沸かして盥にはると服を脱ぐ。
臍を見て、妙な感慨に襲われる。一族の悲願。ラートーンの支配からの解放が叶ったのだ。
叔父が知れば狂喜乱舞するだろう。幼い頃から浴びせられ続けてきた冷たい視線を思い出しぶるっと体が震える。もしそんなことになれば里に囚われる未来しか見えない。イーが極度の引きこもりなのが幸いだ。絶対に東の地には近寄らないでおこう――
一晩経っても体の中を巡る魔力の感覚に戸惑う。
桶の中で揺らめく湯のように体の中で揺蕩いゆっくりと全身を巡るようなその感覚は新鮮だった。ただ、軽い船酔いにも似た症状はどうにかならないものか……
きっとラグナルからした雀の涙ほどの力。ノアやルツから見ても決して多いとは言えないだろうに、制御に戸惑うなんて。
――待てよ……魔力?
私はハッとした。
火を起こすのに火打ち石を使わなくていいんじゃん!
盥の中で立ち上がって拳を突き上げる。濡れた体に隙間風が冷たい。しかしそんなことが毛ほども気にならないほど私は興奮していた。
――ロフォカレに行ったら、さっそくルツかノアに教えてもらおう
「……どうかしたのか?」
「え?」
さっぱりして一眠りしたあと、迎えに来たラグナルにロフォカレに向かう途中にそう問われた。ちなみに今日も手繋ぎである。
「顔が崩れてる」
……どういう意味だよ。そりゃラグナルに比べれば大半の人間が崩れてるわ。
思わず半眼で隣を歩くラグナルを見上げる。
ラグナルはすぐに失言に気づいたらしい。
「違う。言葉の選択を誤った。……やけに嬉しそうだな」
「そう?」
なにせ面倒な火起こしから解放されると思うと嬉しいのだ。火力の調整も容易になる。調剤の幅も広がるに違いない。それらを想像すると、にやけるのを止められない。
「ちょっといいことに気づいて」
「なにさ、いいことって」
突然横合いから声がかけられる。
ノアだ。長いローブにスタッフ。ルツとよく似た赤毛が所々跳ねている。
「おはよう」
「おはよ……元気そうだね。二人とも」
そう言うノアの顔にはまだ疲れが残っていた。
「ちょっと良いことがあって」
私はふふふふふと笑い声をあげた。ノアは眉を顰め、それから何かに思い当たったように、ふっと視線をそらす。
「そのいいこと、僕、聞きたくないんだけど」
なんで!?
「いや、ノアに聞いて欲しいんだけど」
もちろん、ルツでもいい。
「はあ!? なにそれ、どんな罰ゲームさ」
ノアは顔を上げると睨んだ。なぜかラグナルを。
「こんなこと言ってるけど、いいの?」
ラグナルはため息をつくだけでなにも答えない。
「罰ゲームって……ちょっと魔力の使い方を教えて欲しいだけなんだけど」
さすがにラグナルには教えてもらえない。無詠唱の黒魔法などダークエルフ以外無理だ。
「あ、講師料は、狒々神の角の魔力回復薬でどうかな?」
残った狒々神の角は包んで持ってきている。
ロフォカレに預けて、あとで皆に取り分を分けてもらうつもりだ。
我ながらケジケジ青虫の汁を使ったのは良い案だった。少し粘りが出たがよりきめ細かくすり潰せペースト状にできた。先にサールスぺーリの皮と煮ておいて、後でケジケジ青虫の汁を加え丸薬状にすれば緊急時に素早く摂取できる素晴らしい薬になりそうだ。
私は昨晩の奮闘をノアに語って聞かせた。
「ケジケジ青虫の汁がなかなか良い仕事してね。ジーニーに報告するのが楽しみ。完成したらノアに一番にあげるよ」
ノアは呆然とラグナルを見、それから掌で顔を覆う。
「なんか、すごい複雑……ていうかケジケジ青虫の汁が入った薬なんて絶対飲まないから」
しまった。馬鹿正直に話しすぎた。
素材については黙っておくこと、というベテラン調剤師ジーニーの教えを痛感した。




