その4
少しその後の日常を書き足します
窓の戸板を開けると、うーんと大きく伸びをする。
朝日が寝不足の目に染みる。
昨晩は大変だった。
なにが大変って狒々神の角を砕くのと、ラグナルに待ったをかけるのが……
伊達に一年間ジーニーの元で学んではいない。狒々神の角から魔力回復薬を作る方法は知っている。しかし知識として知っているのと実際にやってみるのは大違い。
狒々神の角は超レア素材である。いかにホルトンで名高い調剤師ジーニーといえど、狒々神の角を素材として扱うことなど極めて稀だ。
そんなわけで昨晩は初めての狒々神の角加工だったのだが、これがとんでもなく硬い。なんとか砕いて欠けらにはできた。お次はそれを粉末にせねばならないのだがこれがどうにもこうにも粉にならないのだ。
少年姿のラグナルに見つめられながらごりごりと薬研をひくものの遅々として進まない。
焦れたラグナルが
「俺が黒魔法でやる」
と言い出す始末である。
魔力回復のための薬をつくってるんだけどな!
「絶対だめ」と睨みつけ、ごーりごりと地道な作業を続け、気づいたら夜が白み始めていた。
「あとはサールスペーリの皮と煮詰めるだけ!」
顔をあげて、ラグナルに話しかける。
「……そうか」
低い声。ラグナルはいつのまにか青年の姿に戻っていた。漆黒の目が据わっている。
「あれ……。もしかしてもう魔力戻った?」
ラグナルが頷く。
「印を抑え込む量は充分に。俺は何度も、もういらないと声をかけたんだがな……」
「ごめん、夢中になってた」
なにせ全調剤師の垂涎の的、狒々神の角である。超レア素材である。
途中でタンホホの液で柔らかくできないかと思いついて実行してみたり、ケジケジ青虫の汁を足してみたりと、試行錯誤についのめり込んでしまった。
「気が済んだか?」
「え、いやー。まだサールスぺーリと煮てないし。このままだと効果が強すぎて人間には使えないし……」
「人間には強すぎても俺には関係ない」
そう言うとラグナルは出来たばかりの粉を指ですくって舐める。
「ええ!? ちょっと、いきなりそんな……大丈夫?」
ダークエルフが無尽蔵な魔力を誇るということはそれだけでかい器があるということだ。その器の上限と薬剤の効果を擦り合わせて少しずつ試していかなければいけないのに……
はらはらしながらラグナルの様子を見守る。
ラグナルはかすかに首を傾けた。銀の髪がさらりと首筋に流れる。ラグナルの髪は以前より少しばかり長くなっている。この一年間、切っていないのかもしれない。
「問題ない九割がた戻った」
なんでもないように、さらりと言うラグナル。人間なら容量オーバーもいいところなのに……。こんなところでも、しみじみと種族が違うのだと感じる。
「やっぱり、ダークエルフなんだねえ……」
ラグナルは座った目をさらに眇めた。
「昨晩の約束を取り消す、などと言いださないだろうな?」
一瞬ぎくりとした。
全く少しもそんな気持ちがないといえば嘘になるから。
多分、私はこれからも幾度も迷うのだろう。寿命の違う種族と結ばれることが残される者にとって良かったのかどうか。
それに先に歳をとることに不安を感じないわけではない。
しわしわのおばあちゃんになった私を若いままのラグナルはどう思うだろう?
考えれば考えるほど悩みは尽きない。
でも、それでももう決めたのだ。
「言わない。覚悟は決めたから」
ラグナルの目を見てきっぱりと告げる。ラグナルが表情を緩めた。ほっとしたのだとわかった。それから口のはしを持ち上げて、少し意地悪な笑みを浮かべる。
「その覚悟とやらを示してもらおうか」
ラグナルは私の右手を取ると指先に唇を寄せた。
感じるのは柔らかい唇と、それよりもさらに柔らかい舌の感触。
背筋がぞわりと粟立つ。
指先に落とされたキスは少しずつ上にあがり、手首に。そこから皮膚の柔らかい内側を辿り徐々に上へ上へと移動する。
「あ、の、ラグナル?」
声がかすれる。
その声に導かれるようにラグナルが顔を上げた。
「イーリス……」
右手を引かれ距離が近づく。
鼻先が擦れ、ラグナルが顔を傾けた。
扉の隙間から入る光が銀の髪に美しい輪をつくる。
それを見て我に返った。
「ま、ままって、あ、朝! 朝だよ?」
「それが?」
「も、もうすぐ皆起きるよ!?」
「だからなんだ」
ラグナルが喋るたび呼気が肌をくすぐる。ラグナルは鼻を擦り合わせて、間近で話すのを楽しんでいるようだった。一方、私はもういっぱいいっぱいである。
「だからもなにも……壁が薄いって気にしてたよね!」
そのせいで黒魔法を使い逆行したじゃないか。
ラグナルは「ああ」と笑った。
「ずっと口を塞いでいればいい」
言って顔の傾きを深くする。
そうか、それなら声は漏れない? じゃあいいかーーって、
「いいわけあるかーーーーーーーー!!」
唇が触れ合う間際、私は力一杯ラグナルを押しのけた。




