その20
狒々神がゆっくりと瞼をあける。
虚ろな金色の瞳が私を映す。
開きかけた翼は、しかしすぐに透明な板に阻まれてしまう。
(その鋭い爪でそこから出てきなさい)
自我のない狒々神は完全なる操り人形だった。毛ほどの抵抗もない。
神とまで恐れられた魔獣が命に従う。
あと数体狒々神を目覚めさせて、使役して、皆と合流して、即脱出!
の、予定だったんだけど――
「わー……がんじょー……」
一歩目で躓いた。
まさか狒々神が容器から出てこられないなんて……
モンド石なみの硬度がある爪で傷もつかないってどういうこと!?
「あのー、リュンヌ?」
特別サービスでちょっとこの透明な板、壊してもらえないかな?
そんな他力本願な願いを抱きつつ、振り返る。
その時だった。
どんっという重たい振動が伝わり、足元が揺れる。
「まあ、大変。崩れるわ、ここ」
リュンヌの声は、明日の天気の話でもしているかのようにのんびりとしていた。
「まさか……」
私は階下を見下ろせる中央に走った。
途中、何度も下から突き上げるような揺れに襲われる。
振動に飛び跳ねながらなんとか着いた先で、目に入ったのは思った通りの光景だった。
黒魔法を放ち続けるラグナルと、その周囲に散乱する大小さまざまな瓦礫。
さっきまではヒビしか入っていなかったのに、とうとう天井を穿つのに成功したのだ。
キーランたちは階段に避難していた。ノアがスタッフに向かって唇と動かしている。防御魔法を張っているのだろう。
「危ないっ!」
ロロンの果実ほどある大きな瓦礫がラグナルの頭上に落ちる。しかしそれは彼にぶつかる寸前に霧散した。黒魔法で砕いたのだ。
今、何割の魔力が残っているのか。
私は狒々神の角とサールスペーリの樹皮が入った鞄を握りしめた。
ラグナルの掌からまた一つ魔力球が放たれる。それが天井に着弾したとたん、一際大きく揺れた。
床の石と石の間から光が噴出する。
すぐ隣で狒々神を入れた容器がいきなり落下した。それが水端だった。次々に落ちていく狒々神たち。
――これ、まずいんじゃないの。
自我がないと知らない皆が見れば、大変なことになる。
なんて、心配をしている場合じゃなかった。
私が立っている石が、周囲のものより一段凹む。「あっ」と思った時には落下が始まっていた。
狒々神たちと同じように、石に乗ったまま落ちていく。
臓腑を押し上げられるような不快感に襲われた。
「っっっーーーーっつつつつーーーー」
思いっきり叫んだはずの声は、悲鳴にもならなかった。
ど、どうしようどうしよう!
そ、そうだ。落下の衝撃で容器から出られた狒々神がいれば使役して……
「ひいぃ」
そこまで考えたとき、体が何か暖かいものに包まれた。
落下一辺倒だった体が、横方向に向かっていた。
頰に当たる鼓動が、腰と膝の裏を支える腕が、ラグナルのものだと気付くのに時間はかからなかった。
ラグナルは落ちてくる瓦礫をあるものは避け、あるものは吹き飛ばしながら、階段に向かって疾走する。
足場は、乱雑に積み重なる落下してきた石と、狒々神が入っていた容器。さらには漏れ出た溶液であちらこちら濡れている。
私を抱えたまま頭上から落ちてくる石を吹き飛ばして、階段までたどり着くのは至難の技に違いない。それでなくともずっと黒魔法を放ち続けていたのだ。これ以上、魔力は使わせられない。
私は叫んだ。
「狒々神! 動けたら、瓦礫から私たちを守って!」
声に呼応して、瓦礫の下から、隙間から、あるいは頭上の穴から狒々神が姿を現す。
腕が変な方向に曲がっていたり、翼が片方なかったりと、壮絶な姿になりながらも、狒々神たちは忠実に命令を実行した。
その背にある翼で羽ばたき、鋭い爪をふるって石を弾き飛ばす。
おかげで私たちは、無事にキーランたちの待つ階段にたどり着いた。
ウォーレスもルツもノアも驚愕の表情で命に従う狒々神を見つめている。
「あれらに危険はないか?」
もうキーランがどんな状況でも驚かないことに驚かない。
冷静な質問に、肯いて「大丈夫」と答えた。
幸いにして階段に被害はなかった。部屋を囲む四方の壁が崩れる様子もない。
「天井が抜けるだけですみそうだな」
ウォーレスの声は、明るい彼に似つかわしくないほど疲れがにじんでいた。
念の為に、ルツとノアは防御を展開したまま、私は狒々神を階段の入り口に集め、守りを固めて、崩落が収まるのを待つ。
皆の突き刺さるような視線が痛い。




