オリオン座と甘酒
夜空に携帯電話のレンズを向けた。
画面に映る空。手のブレが酷くて、画素の低い四角の枠は荒っぽい黒色。
試しに撮影ボタンを押して撮ってみる。ぱしゃりと小切れの良い音。しかし、表示されたのは黒い絵の具を無茶苦茶に塗りたくったみたいな不恰好な写真。
違う。撮りたいのは、こんな空じゃない。
ため息をつくと、毛糸のマフラーの網目から白い息が漏れた。
私はクリアボタンを押しながら、東の冬空を見上げる。
狭い住宅街の屋根の向こう、蔓延った電線のそのまた向こう。
あまり高くない位置に、オリオン座が居座っていた。他の星座を無視して、我が物顔で堂々とスペースと人目を独占している。
本当は11の星で構成された星座なのだけれど、私の視力では7までが限界。
でも、ひとつひとつが綺麗だってことは充分わかる。
ダイアモンドが黒い絹に散りばめられてるみたい。……なんて、幼稚な表現しか出来ないボキャブラリーが切ないのだけれど。
『オリオンって間抜けだよな』
学校からの帰り道、彼が呟くように言った言葉が蘇る。
オリオンといきなり言われても、私の検索機能は低性能で、グーグルみたいにフォームに打ち込んだだけで予測言語が出てくるわけじゃない。
星座だよ、と彼が言うまで、しばらく何のことか分からなかった。
『星座になってまでサソリを避けるなんて、アホらしい』
多分彼は、理科の授業で星座を習ってきたのだろう。
文系を選択している私は、中学で習った知識を掻き集めながら、突き放したような彼の話し方に必死でついて行った。
『サソリ座は冬に出ないんだっけ?』
『そ。サソリが沈んでから、オリオンは堂々と空を占拠するわけ』
オリオンは無敵の狩人、サソリはオリオンを倒した唯一の生き物。
付け焼刃の曖昧な知識が脳の奥に引っかかる。多分、子供の頃見た絵本か何かから得た知識だろう。
オリオンは自分の腕に自信があった。だから、それを壊したサソリが怖い。サソリさえ居なければ、オリオンは無敵――
彼の眼鏡の奥の目はひどく達観していて、少し冷たく見えた。
『まぁ、俺は見たことないんだけど』
『なんで?』
『ガキの頃から目が悪かったから』
飄々とした態度で返して、彼は歩き続ける。
そっか。私も一言で終わらせた。
星は、視力に異常の無い私から見ても、小さくて見づらい。それを、眼鏡で補正しても少し弱い彼の目が捉えられるわけがなかった。
その場は、納得したのだけれど。
私はもう一度、夜空にレンズを向ける。
――こんなに綺麗なのに、見たことがないなんてもったいない。
彼に見せたい。見せてあげたい。
あの達観した目を、驚きで見開かせてやる。
左。
……いや、もう少し右。
携帯電話を夜空に構えてうろうろしている姿は、他人の目にどれだけ滑稽に映っているだろうか。
恥ずかしい。
諦めたい。
でも、見せたい。
恥を殺して、目の前の画面に集中する。
堂々と気位の高いオリオン座を、四角い枠の中に閉じ込める。
――そこだ。
手が動かないように。自然と息を詰めながら、慎重に撮影のボタンを押す。
ぱしゃりと音のするまでの1秒間が、三十倍ぐらい長く感じられた。
画面に表示された七連の白い粒。
あんまり綺麗ではないけれど、見せるという目的は達成できる。上出来だと自分に言い聞かせた。仕方がない、何年か前の型だし。携帯電話のせいにしながら、彼にメールを打つ。
一行、二行。絵文字を文末に引っ付けながら、文字を連ねていく。
三行目まで打って、少し長いかと躊躇って、まぁいっかと写真を添付した。
“送信しますか?”
OKを押すまでの時間は、シャッターを切るまでに掛かった時間の三十倍短かった。
数分後、彼から返信されたメールは素っ気無かった。
“風邪引くぞ。早く家に入れ。”
相変わらず顔文字ひとつ無い。
もう少し何か書いてくれてもいいじゃない。
確かにその通りなんだけどさ。
図々しく言葉をねだる自分を抑えられないまま、最後の行を見る。
“甘酒美味い。”
……って、それで終わりかよ!!
というか、私甘酒飲んだことないんだけど!!
軽く唖然としながら、それでも口元が綻んでしまう自分が馬鹿らしい。
冷たい瞳で画面を見つめながら、顔色ひとつ変えず子供みたいな文章を送ってくるところを想像して、少しニヤけてしまう。
たったこれだけのことで、さっきまでの軽い苛立ちはどこへやら。
我ながら、本当に彼には甘い。
ファイルが添付されていることに今更気づいて、開いてみる。
なんだろう。彼が何か送ってくるなんて珍しい。
ドキドキしながら開いたそのファイルは。
甘酒が並々と注がれた、白いマグカップの写真だった。