遊びに行こう
カーテンを開くと朝の光が部屋中に差し込み、眩しさで目を細める。
秋生は雲ひとつない澄んだ晴天にほっと安堵の息を吐いた。
さてやるかと心の中で気合いを入れ、そのまま台所に向かう。
下拵えは昨日の夜に済ませておいたので、手際良く料理をこなしていける。
おかずをすべて作り終えると、弁当箱に丁寧に詰め込んでいく。
すでに炊き上がったご飯を少し冷ましてから、具を真ん中に乗せ小さ目のおにぎりを握る。
足りないことがないように、けれど多すぎないように、慎重に出来栄えを考えた。
しばらくして起きたばかりの陽大が台所にいる秋生の傍に近付いた。
おはようと挨拶し、陽大の身支度を手伝いする。
陽大が朝ご飯をゆっくり食べ終わった頃すでに時計は9時半を回っていたので、秋生も急いで自分の身支度を始めた。
約束の10分前、外で待ってようと陽大に声を掛け、一緒に家を出た。
まだ到着していないだろうと高を括っていた秋生は、すでにアパート前の塀に寄りかかる柊永の姿を見つけ、慌てて玄関の鍵を閉めた。
同じく彼に気付いた陽大が大きな掛け声と共に飛んでいき、今日も勢いよく彼の足にしがみついた。
「おはよう。遅れてごめんなさい」
陽大のすぐ後に続いた秋生は、約束の時間よりも早く来てくれた柊永に謝る。
いつもと変わらず短い挨拶を返してくれた柊永に内心ホッと安心した。
秋生はいつも柊永と会えば意味もなく緊張してしまうが、今日はいつも以上に彼を意識する自分に気付く。
普段会うのは夕方の遅い時間なので、朝から柊永の姿を見るのは今日が初めてだ。
いつもと違う状況だけでも心は落ち着かないのに、今日1日一緒に過ごすと思うと尚更彼を意識してしまう。
それに……と考えて、再び目の前の柊永にこっそり視線を向ける。
今日の柊永に少しばかり違和感を覚えたのは、きっと彼の髪型がいつもと違うせいだと気付いた。
普段は少し長めの黒髪を軽く後ろに流している柊永は、中学時代も変わらなかった。
今日の柊永は前髪を下ろしてるだけなのに、まるで別人を前にしてるようで妙に落ち着かない。
普段の柊永しか知らない秋生にとって、慣れない姿にわずかばかり緊張も大きくなる。
前髪があるだけで、こんなにも雰囲気が変わってしまうんだ。
普段高校生とは思えないほど大人に感じる柊永が少しだけ幼く見える。
どんな髪型にしても結局何でも似合ってしまうのだろうと思うと、少しだけ羨ましくも感じた。
「ほら」
「サッカーボール!」
手ぶらで来たわけじゃなかった柊永からサッカーボールを頭に乗せられた陽大は、大声で驚いた。
彼が持ってきた白黒模様のサッカーボールは傷1つなく、まだ新しい。
「おにいちゃんのボール?」
「大事にしてくれるか?」
「ようだい、くれるの? ようだいの?」
「もうすぐ3才になるんだろ」
陽大から一生懸命確認された彼は柔らかい表情を浮かべ、もうすぐ誕生日を迎える陽大にサッカーボールをプレゼントしてくれた。
陽大は嬉しさのあまり彼に何度もお礼を言うと、サッカーボールをぎゅっと抱きしめ離さない。
2人のやりとりを傍で見つめていた秋生は、そのあいだ何も言えなかった。
柊永の行動に戸惑う気持ちと、陽大のことを思いやってくれた柊永への感謝と、そしてどうしても素直に喜んではいけない複雑な気持ちが、秋生の心に交ざるように広がっていく。
秋生の遠慮は柊永に通じない。それがわかってるからどう受け止めればよいのか、何を言葉にすればよいのかわからない。
いくら秋生が陽大の姉でも、柊永と陽大の間に割り込む資格はない。
ようやく彼に感謝だけを伝えた秋生は、今日1日彼と一緒にいて何度同じ感謝を伝えるだろう。
けれど何度伝えても喜びとは別の感情であることだけは、今の秋生にもわかっていた。
柊永が自宅アパート前まで送ってくれた4日前、彼が一方的に決めてしまった休日の約束。
さっそく今度の日曜日に行きたいとはりきる陽大に負け、週末の今日柊永と近くの大きな公園へ遊びに行くことになった。
アパートまで迎えに来てくれた柊永とボールを抱きしめる陽大が公園に向かって一緒に歩き始め、秋生も続く。
今日は快晴だが日差しはきついほどでもなく、朝の天気予報を確認したら気温もそれほど上がらないらしい。
公園に入ってすぐ、ここには初めて来た柊永が敷地にある様々な設備を確認するように遠くまで見渡した。
高校生にもなれば、おそらく公園に来る機会も多くはないだろう。
彼の様子を隣で見ていた秋生は、そんな当たり前のことに今更気が付いた。
小さい弟がいる秋生にとって当たり前のことでも、彼にはそうではない。
毎日公園で陽大と遊んでくれる柊永を、最近では自然に受け入れすぎていたのかもしれない。
もう少し柊永の立場になって物事を考えなければ、彼の負担も増えるだろうと改めて思い直した。
いつも遊んでいる小さい公園と違って敷地が広大でコースも充実してるこの公園は、最初に目的を決めて動かなければいけない。
「陽大、滑り台のある所に行ってみる?」
とりあえず小さい陽大を中心に動こうと、傍にいる陽大に最初は遊具で遊びたいか確認してみる。
「いや、サッカーするの」
遊具を拒否した陽大は新しいサッカーボールで早く遊びたいらしい。
秋生は陽大と2人でここに遊びに来る時、小さい子供向けの広場や噴水のある場所しか利用していなかった。
サッカーをするならどこに行こうか、暫し悩んでしまう。
「陽大、あそこでやるか」
柊永が指差し教えてくれたのは、すぐ傍にある多目的広場だった。
すでに家族の利用者も2組ほど遠目に見える。
広場内は一面芝生で覆われてるので、陽大が転んでもそれほど痛くはないだろう。
陽大も頷いたので、再び多目的広場に向って歩き始めた。
「おにいちゃん、こっちだよ」
すでに待ちきれない様子で柊永を誘った陽大は、ボールを抱え広場の中心めがけて走り出した。
今は姉が目に入らないのか特に誘われなかった秋生はキョロキョロと広場を見渡し、日陰のある場所を探す。
見つけた木陰までゆっくり歩いていくと、秋生達より先に来ていた家族もすでにそこでシートを広げていた。
母親らしき女性が1人シートに座っていて、広場の真ん中で家族が遊んでいる姿を見守りながら小説を読んでいる。
「こんにちは」
聞こえる程度に挨拶すると、すぐに小説から顔を上げた女性も笑って挨拶してくれた。
秋生も少し離れた隣に持ってきたシートを広げ、荷物を端に置き腰を下ろす。
ちょうど陽大の呼び声が耳に届き、正面に視線を向けた。
遠くに見つけた陽大が秋生に向かって元気よく手を振っていて、そのまま柊永に向かってサッカーボールを蹴る。
おそらく新しいボールで遊ぶ姿を見てほしかったのだろうと思い、秋生は思わず笑みを零した。
姉馬鹿だと思うが、弟のそんな行動を見るたび愛しい気持ちが募り胸が温かくなる。
大きく手を振り返すと、弟の遊ぶ姿をのんびりと眺め始めた。
「中学生? 高校生?」
暫く正面だけを向いていた秋生は、さっき挨拶を交わした隣の女性に声を掛けられた。
とっさに振り向くと、すでに読書をやめたらしい女性は笑って秋生を見ている。
最初に秋生から挨拶したからか、それとも読書に飽きたせいか、おそらく30代らしき女性は明らかに学生とわかる秋生にも特に気にする様子なく話し掛けてきた。
「はい、高校1年です」
「いいね、若くて」
秋生が慌てて返事を返すと、女性もまた気さくに答えてくれる。
決して社交的な性格ではない秋生も年上の女性と話すことに構えることはなく、苦手意識もない。
陽大の保育園では年配の女性保育士と接するし、仕事場で一緒に働くパートの既婚女性とも普段平気でお喋りしている。
もしかしたらクラスメイトの女子より落ち着いて話せているかもしれない。
「ここの公園広いよね。よく遊びに来るの?」
隣の彼女は見た目が素朴な秋生を気に入ったのか、今度は身体を傾け再び話し始めた。
「家が近いので休みの日に来ます。あの、初めてなんですか?」
「そうなの。今日初めて来たんだけど、綺麗でいいよね。もっと早く来ればよかった」
「この公園は去年できたばかりだから、まだ知らない人も多いみたいです」
「そうなんだ。うちの家族はみんな気に入ったから、また来週も遊びに来るかも」
「私もこの公園好きです。でも広いから、なかなか周りきれなくて……この広場にも、今日初めて来ました」
「小さい子がいるなら、ちびっ子広場ばっかりになっちゃうでしょ?」
「はい、いつもそこばっかりです」
「うちの子供はもう大きいから遊具じゃ遊ばないし、最近私はいつもお父さん任せ」
明るく喋る彼女は隣の秋生から一度視線を外すと、正面を見つめた。
秋生も同じく正面に視線を向けると、広場の真ん中でキャッチボールをする彼女の家族らしき親子を見つける。
「みんなきょうだい? 一緒に来るなんて仲良しなんだね」
隣の彼女と一緒に暫し正面を眺めていた秋生は、再び彼女に話しかけられ視線を戻す。
この彼女には同じく広場で遊ぶ陽大と柊永が揃って秋生の兄弟に見えたようで、ほぼ確信に近い口調で尋ねられた。
「ええと…………はい、そうです」
ここで会っただけの彼女に詳しい事情を説明するのもおかしいと思い、迷いつつもそのまま肯定してしまった。
「お兄さん、すごくいい男ねぇ」
まるで感心するように呟いた彼女はいつの間にか秋生ではなく、再び正面を夢中で見つめていた。
おそらく秋生の兄だと勘違いした柊永を目で追っているのだろう。さっきまで確かに母親だった彼女は今、完全に女性の表情を浮かべている。
「お兄さん大学生? 学校でも相当ヤバいんじゃない?」
「はあ…………まあ」
彼女が柊永を大学生と勘違いしてるのはともかく、この手の話にとことん縁のない秋生は一体何が相当ヤバいのか今一ピンとこない。
とりあえず曖昧に返答しながら、グルグルと頭を悩ませた。
彼女はそんな秋生を気にすることなく、あんなお兄さんがいてよかったねと最後に笑いかけてきた。
彼女の家族が戻ってきたのをきっかけに、20分程続いた彼女との会話も自然と打ち切られた。
秋生としては暇なこの時間、話し相手になってくれた彼女の存在は楽しかったが、同時に彼女の家族が戻ってきてくれてホッとしてる自分もいた。
柊永を兄だと嘘吐いたまま進行される彼女との会話は何となく疾しく思えて、気疲れするものだった。
気疲れするくらいなら正直にただの知り合いだと教えればよかったが、おそらく逆に深入りされるだろう。結局これでよかったんだと1人納得する。
隣のシートで腹を空かせ騒ぎ始めた子供達と弁当を広げ始めた彼女の姿を、気付かれない程度にそっと横目で眺めた。
母親の作った弁当にさっそく箸を伸ばした子供達は2人とも男の子で、もりもりと競うようによく食べる。
母親の彼女はおにぎりのご飯粒を零す子供に文句を言いながら世話をし、父親は疲れたのかシートにごろんと横になっている。
秋生は小さい頃初めてそんな家族の光景を見た時、ひどく驚いた記憶が今も頭の中に残っている。
その時は羨ましい気持ちではなく、こんな家族も存在する事実に驚いて、妙な気持ちになった。
親友の家を初めて訪問した時、出された食事がすべて母親の手作りと聞かされて、それを親友の家族が全員揃ってから食べ始めた時も同じ気持ちになった。
それが普通と言うなら、気が付けば普通に囲まれてる自分がいて、ようやく自分が違うことに気付いた。
普通から落ちこぼれた自分にはいつまで経っても普通はやってこなくて、違う自分は一生普通にはなれないのだと気付かされた。
落ちこぼれの秋生を救ってくれたのは、弟の存在だった。
そして弟を救ってくれたのは――――
さっき話した彼女が秋生達をきょうだいと勘違いしたように、もし本当に柊永が兄だったら、今の自分はどうだっただろう。
あり得もしないことを考えてみる。
もしそうだったとしたら、今の自分はこんなにも卑屈で臆病ではなかったかもしれない。
血縁という何よりも濃い繋がりが、きっとこんな秋生を強くしてくれるような気がした。