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零れ落ち、流れるまま息を吐く  作者: emi・K
第一章 始まりの公園
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姉弟の奇跡




 深夜過ぎても勉強を続ける秋生はとうとう睡魔が襲い始めた途端、集中力も途切れる。

 もう少し先まで進めたかったが、今夜はこれ以上続けても意味がないと諦めた。

 握り締めたシャープペンを転がすと、固まった身体を思いきり伸ばした。


「今日も疲れたぁ……」


 最近1日が終わった感想はいつもこれだ。

 言った後で多少後悔するが、口癖のように零れてしまう。

 そろそろ寝るために、テーブルの上を簡単に整頓してから立ち上がった。

 隣の部屋へ向かう前に筆箱からボールペンを取り出すと、壁に掛けられたカレンダーの前に立つ。

 カレンダーから今日の日付を見つけ、枠の隅に小さなバツ印を付ける。

 バツ印は先月頭の日付から途切れることなく今日の日付まで続いた。

 

 秋生は毎日同じことを繰り返す。

 秋生自身の為でなく、弟の為にバツ印をつける。

 その日の終わりにカレンダーにバツ印を付けるのは、弟が2才になった1年前から始めた習慣のようなものだ。

 今日も母は帰ってこなかった――――だからバツ印だ。



 隣の部屋に入った秋生は薄暗い明かりの中で眠る陽大をのぞき込む。

 穏やかな寝息に小さく安堵すると、あどけない寝顔をそっと見つめ始めた。


 姉弟で生まれた秋生と陽大は母親から譲り受けた丈夫な体質は似てるが、それ以外の共通点を見つけることは難しい。

 顔の特徴も性格も全く異なるものを持ち、同じ母親から生まれた。

 母親似の弟は少し髪が伸びれば女の子に間違われることがほとんどで、まだ幼いからこそ余計に性別が判断できにくい。

 見た目はとても可愛らしく、大きな丸い目も鼻筋も本当に母とよく似ている。

 そんな弟に調子づいた秋生はわざと弟の髪を長めに整え、明るい色の洋服を選び着させた。

 まだ無頓着で姉にされるがままだった弟が少しずつ抵抗を見せ始めたのは、ここ最近のことだ。 

 好きな色は青と主張し、保育園にいる年上の男の子と同じ髪がいいと駄々をこねた時は、秋生もさすがに困った。

 弟が真似したがった男の子の髪型はほぼ坊主と言ってよいほど短く刈り上げられており、保育士の話では生まれつき癖の強い男の子の髪質が変わればと母親が試みたらしい。

 結局弟と折り合いをつけた秋生は、弟の髪を短すぎない長さに切り揃えた。

 そのせいもあり最近の弟は、ようやく見た目も男の子と周りから納得され始めた。

 いくら顔が女の子のように可愛らしくても、弟は確実に男の子として成長を見せている。


 母に似ない秋生の顔立ちは、おそらく父親に似たのだろう。

 すでに若いと言えなくなった母が今でも女を武器に仕事を続けられるのも、平凡より恵まれた容姿を備えているからだ。

 目鼻立ちがはっきりした母の顔は化粧をすればより華やかになる。

 気が強い性格もそうだが、母は根本から水商売が向いているのかもしれない。

 残念とは思わないが、秋生は母親にまったく似ていない。

 目鼻立ちはもとより、耳や爪の形など細かい箇所まで何ひとつ似ていない。

 女の子は父親に似ると聞いたことはあるが、秋生は一度も顔を見たことがない父親の血を濃く受け継いだらしい。

 良く言っても平凡で、お世辞抜きに褒められる特徴など何も持っていない。

 母と比べられるまでもなく秋生の容姿が地味と言われるなら、性格だってそうだ。

 小さい頃から大人しく、決して自ら前に出ることはない。 

 争いや喧騒は苦手とし、母親に対してもただ一度だって我儘も主張もしない子供だった。


 眠りに就くまでのこの時間、いつも陽大の寝顔を見つめる秋生は、どうしても母親のことを考えてしまう。

 すでに高校生となった秋生はまだしもまだ3才に満たない陽大のことを、母は一体どう思ってるのだろうか。

 傍にいる秋生が驚くほど、陽大は日々変化している。

 ひと月も顔を見なければ、子供の成長の早さを余計実感するはずだ。

 母は秋生に対してもそうだったように、陽大のことが気にならないのだろうか。

 こうして離れてる時間、陽大を思い出すことはあるのだろうか、それとも一瞬も思い出さないのか。

 今夜も秋生には陽大に対する母親の気持ちがわからない。


 今の陽大のように小さかった頃の秋生は、まだよかった。

 母は娘の秋生に興味がなくても、毎日秋生の傍にいた。

 毎日秋生を仕事場にも連れて行った母は、秋生が小学生になるまで家に1人残すこともしなかった。

 母の背中を眺めるしかなくても、秋生にとって母が傍にいる安心感は絶大でかけがえのないものだった。

 母に対する安心感は今でも秋生の心に染みついていて、おそらく一生消えない。

 母親と姉は違う、いくら秋生が陽大の傍にいても母親にはなれない。

 結局母親の代わりにしかなれない。


 陽大が最後に母と会ってから、もう2か月近く経っている。

 今度いつ帰ってくるかもわからない。

 秋生が陽大の傍にいるから、母はやっと解放された。何に縛られることもない。

 子供を生んだ責任をすべて秋生に押し付けた母は、自由を手に入れた。

 だったら最初から生まなければいい。

 子供を犠牲にしての自由なら、秋生も陽大も最初から存在しなければよかったのだ。


 秋生は自分の父親を知らないように、陽大の父親を知らない。

 ある日気付いたら、母のお腹は膨らんでいた。

 ようやく母の口からお腹に子供が出来たと聞かされても、当時中学1年の秋生にはどうして突然母のお腹に子供がいるのか、全く意味がわからなかった。

 まだこの世に誕生していないが確実に母のお腹で育っている子供に喜ぶべきなのかもわからず、ただ日に日に大きくなる母のお腹を気にする事しかできなかった。


 無事弟が産まれ、初めて母の手から弟を抱かされた秋生は今までの戸惑いや怖れを感じる暇などなく、心は初めて別の感情に支配される。

 それはまだ中学生の秋生の心に確実に存在していて、今まで鳴りを潜めていただけの感情。

 それを仮に母性と呼ぶのなら、弟を抱いた秋生の心に初めて勢いよく溢れ出た。

 赤くて皺くちゃで、決して可愛いとは言い難い生まれたばかりの弟をいつまでも抱きしめ、離すことができなかった。

 母の産んだ小さい弟が愛しくて、何よりも愛しく感じて、だからこそ秋生が弟の誕生に喜んだのち負の感情も抱いたのだと、秋生自身は気付いていない。


 母親が秋生という子供を産み、これまでどのように育ててきたのか。

 母親としての愛情をどのように与えてきたのか、それ以前に秋生への愛情は存在したのか。

 背中を向ける母親の傍にいるだけで安心した秋生が本当は何を感じ、どんな気持ちでいたのか。

 それは幸せと呼べるものなのか、それともそうではないのか。

 小さかった秋生は他と比べるまでもなく、わかっていた。

 言葉にすることはなくても気付いていたし、そして一番悪いことに現実をそのまま受け入れた。

 そうする以外に何もしなかったし、どうすれば良いかもわからなかった。

 秋生の心にこびりついたまま独占し続けた孤独はそんな秋生だからこれまでずっと押し殺し、母を前にしても心だけに封じ込めておけた。


 母に与えられた秋生の孤独は、秋生のものでよかった。

 秋生のもので済むなら、それでよかった。

 それなのに母は再び同じ過ちを繰り返した。

 けれど初めて弟を抱きしめた時の秋生は、母から生まれた弟が悲しくて苦しかったのだと気付くことはできなかった。




 眠る陽大に毛布を掛け直し、ようやく隣にもぐり込む。

 今日もたくさん遊んでストンと眠りに落ちた陽大の温度を感じながら、ゆっくり目を閉じる。


 秋生は再び訪れた睡魔に身を委ねながら、今日再び出会った柊永を思い出した。


 中学を卒業して2ヵ月経ち偶然にも再会した柊永は、秋生と陽大にとって奇跡のようなものだ。

 奇跡で、すぐに消えてしまう幻のようなもの。

 陽大の期待に応えてあげたくて、今日でお終いだからと心で勝手に言い訳して、柊永が差しのべてくれた厚意に飛び込んでしまった。

 陽大にとって彼と一緒に遊ぶ30分はあっという間で、彼と陽大を見守る秋生の30分はとても長く感じるものだった。

 それも昨日と今日限りで、彼と会う機会はもう2度と訪れないかもしれない。

 偶然の再会もこれから先はないだろう。


 彼にまた会えると期待してる陽大に明日はどう言い訳し、納得させればいいだろうか。

 おそらく今日以上に大変な思いをするかもしれない。

 宥めるのに相当時間がかかるだろう。

 結局秋生は今夜なかなか眠れなくて、そんなことばかり考えた。  


 秋生と陽大の奇跡が終わりでなく始まりだったことに気付くのは、もう少し先のことだ。



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