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零れ落ち、流れるまま息を吐く  作者: emi・K
第一章 始まりの公園
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母との道




 幸せになりたいと願ったことなど、一度もなかった。


 秋生にとって毎日は、ただ時間に追われ過ぎていくばかりのものだ。

 自分の幸せを問うことも、自分の1日を振り返ることも、自分の将来を深く悩んだこともない。

 まだ成人にも満たない15歳の秋生はすでに何に逆らうこともせず、流されるまま日々を過ごしてきた。

 大きな幸せを感じたことはないが、ひどく不幸だと思ったこともない。

 喜びを胸にしたこともあれば、辛さが余って泣いてしまったこともある。

 けれど自分の中から生まれた感情によって自分自身を見つめることも、置かれた境遇を顧みることもしなかった。

 思えば自分の姿を鏡に映し、まじまじと見つめたことさえなかったかもしれない。


 けれどそんな秋生だって、どこにでもいるごく普通の少女だ。

 普通の少女でしかない秋生が他の少女と少しばかり違うとするなら、ただ秋生に与えられた忙しない境遇のせいかもしれない。



 今まで楽とは言えなかった秋生の心に、一度だけ大きな喜びが生まれたことがある。

 秋生にとって唯一のきょうだいである弟が産まれたのは、中学1年の夏のことだった。

 陽大という名前は弟を産んだ母親ではなく、姉の秋生が名付けた。

 太陽の当たる道をまっすぐ歩き、大きく輝ける人生であるよう、子供心に精一杯考えた弟の名前だった。

 初めて母の手から託された、とても小さく柔らかな弟を怖々と抱えた秋生は、まだ目の開かない弟の赤い顔を食い入るように見つめた。

 不器用にも胸に抱いた脆く儚い弟の存在は、秋生の心に溢れるような喜びをもたらした。

 けれどすぐ後に苦しみにも似た思いが胸にせり上がったのを今でも覚えている。

 あの感情は一体何だったのだろうか。

 秋生は15歳になった今でも弟の誕生で生じた喜び以外の感情が説明できず、不明瞭なままだ。


 当時の秋生は産まれたばかりの弟よりずっと年嵩でも12歳の子供で、今よりずっと小さかった。

 弟の誕生が当時の未熟な秋生に喜び以外に負の感情をもたらしたのだとしたら、それは秋生自身の生い立ちから生まれたものに違いなかった。



 秋生は私生児としてこの世に誕生した。

 母親は当時19歳という若さで秋生を身籠り、その時すでに絶縁状態だった実家の家族に頼ることなく、たった1人で秋生を産んだ。

 秋生が知っている自分を産んだ母親の実情はそれだけだ。

 若いうちから1人で苦労した母親は今まで娘に多くを語ることなく、そして秋生も母親に詳しく聞こうとはしなかった。

 そして私生児の秋生は自分の父親に会ったこともなければ、どこの誰なのかも知らない。

 今現在どこで何をしているのか、生きているのか死んでいるのかさえわからない。

 父親を知らずに育った秋生にとって父親は言葉さえ実感がない架空の存在でしかなく、ただ一目会ってみたい焦がれを抱くこともない曖昧な存在だった。


 ただ若さが武器だった当時の母親にとって、秋生と生きていく上で出来る仕事は限られていたに違いない。

 母は男を相手とする水商売の道に迷いなく足を踏み入れた。

 地方都市の繁華街にあり、外観が寂びれつつも客入りはそれほど悪くない店で働く母は、毎日幼い秋生の手を引き店までの道を歩く。

 秋生はすでに老朽化したアパートから母の無造作な手で引きずられるように歩き、酒とたばこと香水の匂いが交りあった母の働く店に辿り着く。

 母親が仕事してる間、店の奥にある休憩室に1人閉じ込められる秋生は、豆電球のわずかな明かりに照らされながら敷かれた布団に蹲る。

 やがて部屋の外から小さい耳に響くのは甘えるような母の笑い声と、知らない男の低い声だった。

 いつも違う男を相手にする母の笑い声も、休憩室から盗み見る母の笑顔も、秋生自身は母から受けたことがない。

 母は一度も秋生に笑ったことがなかったからだ。

 母が秋生に対しすることは店の薄暗い休憩室に閉じ込めることと、確かに自分が産んだ娘に仕方なく衣食住を与えることだった。

 母にとって捨てられたらよかったけれど、結局捨てられなかった子供が秋生だった。

 母は娘を育てることに喜びを見出すことができなかった。

 母の視線はいつだって一番傍にいる娘ではなく他を向いていた。

 まだ若い母は今より少しでも華やかな場所を求め、意識の僅かな隙間にしか娘の存在を認めない。

 秋生はそんな母の姿をいつだって一番近くで、けれど僅かばかり離れた場所から見つめ続けた。


 そんな母親の元で小学校に上がるまで成長した秋生に待ち受けていたのは、希望でも可能性でもなく、それまでよりもずっと大きな孤独だった。

 大人の保護がなければ何もできない幼児までの年齢を僅かばかり超えた秋生は、初めて母を喜ばせたからだ。

 秋生にとって母の手で引きづられ歩く店まで道は母と触れ合う唯一の時間でもあったのに、母は秋生の手をあっさり離した。

 面倒だった秋生をわざわざ仕事場に連れて行かなくなった。

 夜はアパートに1人残されるようになった秋生は外からの騒音に震えながら布団に潜り込み、一刻も早く明朝を願うしかなかった。


 長い夜が明けようやく朝が訪れても、秋生には結局母の存在はなかった。

 当時の秋生は学校へ行くため身支度を整えると、テーブルに転がってる朝食を手に取る。

 いつもテーブルにあるのは母がスーパーで購入した2、3個のパンで、それを朝と夜に分けて食べる。

 秋生の食事が必ず出来合いパンなのは、おにぎりより日持ちがよいだけの理由だ。

 母が自ら料理を作ることは一度もなく、母が秋生と同じものを食べている姿も秋生は見たことがなかった。


 最初のうちはそれでもよかった、まだマシだった。

 たとえ1人残され震える夜であっても、学校から帰宅すれば店に行く前の母がいる。

 たった数時間でも鏡台の前で念入りに化粧を施し、丁寧にマニキュアを塗る母の姿を見ることができる。

 母が家にいる、ただそれだけが秋生を孤独から引き上げてくれる。

 家にいる母に安堵し、家にいる母は喜びだった。


 けれど、それも長くは続かなかった。

 秋生が年を重ねるにつれ、テーブルの出来合いパンも数が増えていく。

 最初は2、3個だったはずが、日によって2倍にも3倍にも増えることがある。

 そんな日はテーブルに転がるパンがすべて秋生の口に入るまで、母は帰ってこない。

 時の流れと共に長くなる母の不在は、とうとうある日を境にスーパーの出来合いパンから1枚の千円札に変わった。


 このお金を使い切る時、はたして本当に母は帰ってくるだろうか。

 言葉にはできない、今まで泣くことさえしなかった。

 母以外に誰がいるのか、その母さえも傍にいない。

 秋生には結局、母がいなければ誰もいなかった。

 握り締めた千円札以外、何も残されていない。

 この底知れない孤独の時間を、不安を、恐怖を、誰も取り上げてはくれない。

 母は助けてくれない、それにようやく気が付いた時、秋生は初めて声を上げ泣きじゃくった。

 布団に潜り込み、母の呼び名を叫び続けた。


 母に引きずられ歩いた店までの道は、すでに母に残された秋生にとって何よりも必要だった。

 母の手が恋しくて母に会いたくて、今すぐ家を飛び出し母のいる店へ駆けて行きたかった。 




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