青 年
秋生はあの青年の顔を知らなかった。
その時の秋生には、あの青年よりも大切なものがあった。
胸の中で動かない弟を抱えていた。
その時あの青年の顔を確かに視界に入れたはずなのに、秋生はいつまでも思い出せなかった。
1つだけ覚えていたのは、青年の手。
ずっと弟の手を掴んで離さない青年の手だけ、秋生の目は覚えていた。
「吉田さん、レジお願いしていいですか?」
棚の品出しをしていたパート店員の吉田を見つけた秋生は、背後から声を掛けた。
「水本さん、休憩?」
「はい……ええと、いつもすみません」
軽く頭を下げ謝ると、その場で腰を下ろしていた吉田はわざわざ笑顔で立ち上がった。
「気にしないで。ゆっくりしてきなよ」
「ありがとうございます。3時には戻りますから」
「はい、わかりました…………今日もデート?」
「え? いや、そんなんじゃないですよ」
今日も吉田のからかいに否定した秋生は結局笑われてしまった。
毎回必ずからかわれる度に慌てて否定するので、吉田からはまったく信じられてないようだ。
「若いんだからいいじゃない。いっぱい楽しんできなよ」
最後に吉田は行ってらっしゃいと明るく秋生を見送り、再び品出しを始めた。
裏口から店を出た秋生は駐輪場に停めてある自転車を取り出し、店から離れ始めた。
ナースセンターの前を通り掛かった秋生は中をのぞいてみると、1人の看護師がすぐに気付いた。
「こんにちは」
「こんにちは、水本さん」
目の前まで近付いてくれたのは、秋生の名前も把握してる女性看護師だった。
「さっき遅れて食事を終えたばかりだから、いますよ」
親切に教えてくれた彼女にお礼を言うと、そのまま病室へ向かった。
秋生の姿に気付いた彼は軽く手を上げた。
今日も彼は明るい笑顔を浮かべてくれたので、安心して傍に近付く。
「こんにちは」
「こんにちは水本さん。遅かったね」
冗談のつもりで軽く嫌味を吐いた戸倉 壮輔に、秋生も笑顔で返した。
「食事中はご迷惑だと思ったんで、少し遅く来てみました」
「気にしなくていいのに……」
生真面目に答えた秋生に一瞬困った表情を浮かべた壮輔は、近くにあった椅子に座るよう促した。
すみませんと一言謝り椅子に座ると、ベットに上体を起こし座る壮輔とちょうど目線が合った。
「外はかなり暑いみたいだね。水本さん、少し汗かいてるよ」
「はい、でも風があって気持ちいいですよ。戸倉さん、リハビリは何時からですか?」
「今日は3時からだから、まだ大丈夫」
「じゃあ、少し散歩でも行きませんか?」
「連れてってくれる?」
「はい、もちろんです」
秋生が散歩に誘うと、壮輔はいつもの人懐こい笑顔で喜んでくれた。
戸倉 壮輔―――――この青年と出会ってから、すでに4か月が経過した。
秋生の目の前で弟を救った青年との出会いだった。
初夏の今日、本格的な暑さには早いがじんわりと額に汗が滲んだ。
それが決して不快に感じないのは、湿気を含まない穏やかな風のせいかもしれない。
秋生は壮輔の左腕に手を添えながら、病院の庭を一緒にゆっくり歩いた。
壮輔は松葉杖を外せないが、少し前に比べても格段に歩行がスムーズになった。
「戸倉さん、あそこまで行きましょう」
いつも休憩するベンチを指差し教えると、わずかに息を早めた壮輔も笑って頷いた。
壮輔を先にベンチに座らせ、秋生も隣に並ぶ。
最初の頃に比べ2人の距離は自然と近くなり、今では多少触れ合っても気にならなくなっていた。
「ずいぶんまともになっただろ?」
壮輔から相変わらず冗談めかして尋ねられた秋生は、ただ笑みを浮かべた。
「今日は何をしてました?」
「うーん……今日は大事なお客さんが来る日だったからね。朝、髭を剃った」
「それだけですか?」
「あとは水本さんが貸してくれた漫画を読んだくらいかな」
「あれ、面白かったですか?」
「うん、最高だったよ」
「じゃあ私も読んでから図書館に返します」
秋生が壮輔にならって明るく返すと、わざとらしく驚かれた。
「水本さん、漫画なんて読むの?」
「どうしてですか? 私だって読みますよ」
「真面目そうだから、普段は教科書とか読んでるのかと思ってた」
「私はもう学生じゃありませんよ。教科書なんてどこかに行ってしまいました…………でも実は漫画も、戸倉さんに会ってほぼ初めて読みました」
漫画好きな壮輔の為に図書館で漫画を借り始めた秋生は漫画初心者であることを明かすと、壮輔に笑って謝られた。
「俺、水本さんに余計なこと教えちゃったかな」
「じゃあ今度はお返しに、私の愛読書貸してあげます」
「何?」
「夏目漱石と森鴎外、どっちがいいですか?」
「うーん…………次も漫画でお願いします」
秋生の冗談にしっかり応えてくれた壮輔と最後顔を合わせ、互いに吹き出した。
秋生が壮輔に会いに病院を訪れるようになったのは、彼と出会った4か月前だ。
高校時代からドラックストアで働く秋生は正規従業員になった今でも、勤務時間は以前と変わっていない。
途中で1時間の休憩を挟むが、壮輔を訪ねる日は2時間休ませてもらう。
多く休憩した日は残業して帳尻を合わせてもらった。
休憩時間に自転車を15分程走らせ病院まで通うのも、とっくに慣れてしまった。
「今日はいつまでいられるの?」
「あと30分くらいで帰ります。それまで一緒にいていいですか?」
「もちろん! 何ならここに泊っていけばいいよ。病院食は美味いとは言えないけど、水本さんにご馳走する」
「本当ですか? じゃあ戸倉さんの分をしっかりいただきます」
すぐに冗談を交える壮輔に、秋生もしっかり応える。
週に2度こうして壮輔とくだらない話をして、互いに笑い合う。
それが秋生と壮輔のいつもの過ごし方だった。
あの日のことを今でも鮮明に覚えている。
決して忘れることは許されない。
大切なものを守る為に吐いた小さな嘘はやがて大きな罪となり、今の秋生を苦しめている。
壮輔の右足に障害が残るほどの怪我を負ったのは、弟の陽大を庇ったせいだ。
その日親友の家に泊まりに行くため向かっていた途中で起きた事故だった。
すべては秋生の不注意が原因で引き起こした事故だった。
陽大と手を繋ぎ歩いてる途中、噴水のある公園を通り掛かると、陽大は少しだけ遊びたいと言い始めた。
公園前にある横断歩道を渡るとすぐ菓子店があり、そこで親友宅への手土産を購入する予定だった秋生は、親友宅を訪ねる時間が迫っていたせいでわずかに焦りが生じていた。
「ここで待ってる」
菓子店に立ち寄ることを陽大に伝えると、その間公園で遊んでると望まれた。
秋生は多少迷いは生じたが、公園から動かず待つように注意した。
それほど深く心配していなかった。
多少目を離しても、あとわずかで小学校に上がる陽大はすでにしっかりしていて、秋生自身も弟の行動を信頼していた。
「ちゃんと待ってて」
念の為もう一度注意してから、公園の噴水で遊び始めた陽大を置いて菓子店へ急いだ。
「秋ちゃん!」
買い物を済ませた秋生が向かいの公園に戻るため赤信号の横断歩道前で待っていると、弟の声が届いた。
陽大が横断歩道の先で、秋生に手を振っていた。
姉弟がいる今の場所は駅に近く、陽大の他にも幾人かが信号待ちをしていた。
秋生は自分を迎えに来た陽大にただ手を振り返した。
横断歩道の先でちゃんと待ってる陽大を見て、ただ安心していた。
信号が青に変わった瞬間、周りより先に横断歩道を渡ったのは陽大だった。
秋生に向かって笑顔で駆け出した。
あの青年が陽大の手を掴んだのを、秋生は目の前で見ていた。