母との最後
久しぶりに母が家に帰ったのは、秋生が18歳になったばかりの冬の夜だった。
この地方ではめずらしくちらちらと降る雪を、陽大と窓から眺めた夜だった。
ようやくカレンダーにバツ印をつけることも諦めた、1週間後の夜だった。
「元気にしてた?」
母は秋生と陽大を笑って見つめ、そう尋ねた。
姉弟に初めて見せた優しい笑顔は、年を重ねても相変わらず綺麗だった。
秋生はただ元気だよと答えた。
本当に元気だったから、素直にそう言った。
陽大は秋生の背中に引っ付き、ただじっと笑う母を見ていた。
母がテーブルの上に茶色い封筒を置いた。
ただそこに置いて、ただ笑っていた。
その時秋生は母が子供を捨てるつもりなのだとわかった。
「これから頑張りなさい」
確かに母はそう言ったはずなのに、秋生は母の言葉をとっさに理解できなかった。
母の中に存在した情けの茶色い封筒を見つめ、背中にくっつく陽大の温もりを感じていた。
「捨てるの」
私達を捨てるの。
今日捨てに来たの。
捨てるなら、どうして産んだの。
男の為に産んで、結局男に捨てられたんでしょう。
男の子供が憎かったんでしょう。
そんなこと、秋生はとっくに気付いていた。
そしてまた男の為に子供を捨てるんだ。
秋生の静かな呟きに、母の顔が一瞬だけ強張った。
秋生を見つめ、そして陽大を見つめた。
自分が産んだ子供をこれから捨てるために見つめた。
母は結局何も言わなかった。
本当に捨てるから、言い訳もしなかった。
ただ自分の産んだ子供を部屋に残して、雪の夜に消えた。
秋生と陽大が最後に見た母の姿だった。
「秋ちゃんお帰り!」
ブランコで遊んでいた陽大は園庭に入ったばかりの姉を見つけ、今日も元気よく駆け寄る。
「ただいま」
傍に来た陽大に今日も笑顔を浮かべた秋生は、寒さで赤くなった陽大の頬をさすった。
「今日は何したの?」
「サッカーと、あとは歌の練習もしたよ」
「もうすぐ卒園式だから、いっぱい練習しなきゃね。先生は?」
「あっち」
陽大は指差しで保育士の居場所を教えた後、帰る準備をするため園舎めがけて走り出した。
秋生は陽大が指差した先に視線を向けると、すでに保育士も気付いていたのか笑顔で近付かれた。
「こんにちは、今日もお世話になりました」
「お帰りなさい。今日も陽大君、歌の練習頑張ってましたよ」
さっき陽大からも教えてもらったが保育士にも褒められ、秋生も最後までお願いしますと頭を下げた。
「陽大君は大成小学校だったね」
「はい、そうです」
「ここは学区が湯島小ですぐ隣だから、いつでも遊びに来れるんだけど……」
保育士は残念そうに秋生と目を合わせると、園舎に視線を移した。
「……陽大君は一番長かったから、私もね」
ちょうどその時帰る準備を済ませた陽大が園舎から出てきた。
秋生は陽大を見つめる保育士の目尻に寄った皺をただ見つめた。
この保育士との付き合いも本当に長かった。
陽大が乳児の時から、この保育園と彼女の世話になったのだ。
その間、姉弟共に何度助けられただろう。
「先生、卒園してもいっぱい遊びに来ます。でもあんまり嫌がらないでくださいね」
秋生は胸に込み上げるものを抑え込み、保育士に明るく笑いかけた。
今日も自然と手を繋ぎ合った姉弟は、いつもの帰り道を歩き始めた。
2月初旬で気温が更に下がったこの時刻、すでに暗くなり始めている。
少し前までの陽大は暗い道を怖がり、抱っこをせがんだものだった。
陽大は昨年の夏6歳の誕生日を迎え、今春小学校に入学する。
こうして姉弟でお喋りしながら保育園からの帰り道を歩くのも、あと少しでお終いだ。
陽大も昨年に入ってからぐっと大きくなり、そして以前よりずっと落ち着いた。
園の中で一番年長となった今では途中で抱っこをせがむことも、秋生の手を振りほどき何処かへ行ってしまうこともない。
そう遠くないうち、姉の手を離す日もやってくるだろう。
弟の成長が嬉しい反面、寂しい気持ちも積もるのは親心に似ているかもしれない。
母が姉弟の前からいなくなった雪の夜、陽大は5歳だった。
おそらく今も覚えてるだろう。
それまで数か月に一度気まぐれのように帰ってくる母を、それだけしか帰ってこなかった母の最後に会った姿を忘れないだろう。
陽大はもうとうの昔に、お母さんとは言わなくなった。
今も母親の話はしない。
いつか弟には母親を恨む日がやって来るかもしれない。
それとも秋生のように、それすらも諦めてしまうだろうか。
陽大の笑顔が今も変わらず続いてることだけが、秋生の救いだ。
そしてこれからも願ってやまない。
「うーん……今日は何作ろうかなぁ」
隣を歩きながら頭を悩ませる姉を見上げた陽大は、一緒にうーんと悩み始めた。
「あっ! グラタンは?」
「時間かかるから今日はだめ。グラタンは明日の夜にしよう」
仕事から帰った夜はせわしい為、夕食はどうしても簡単な料理に逃げてしまう。
罪滅ぼしに日曜日は陽大の好物を作ることが多かった。
「……じゃあ卵焼き食べたーい」
秋生はがっかりしながらも妥協してくれた陽大に快く頷いた。
「あ、そうだ。マカロニ切れてたから買っておかなきゃ」
自宅アパート前まで辿り着いた秋生は、明日グラタンを作りたくてもマカロニがないことに気付く。
陽大はそんな姉を見上げ、得意気に笑った。
「心配すんな! 明日オレが買ってきてやる」
秋生としては助かるお手伝いの申し出だが、急に顔を顰めた姉に気付いた陽大は慌てて口を押えた。
秋生はそんな陽大にわざとらしく大きな溜息を吐く。
「もう……そんな言葉使い、どこで覚えてきたの?」
「決まってるじゃん!」
自信満々に答える陽大はとうとう秋生に睨まれ、ふざけて謝りながら家の中へ逃げ込んだ。
秋生も思わず表情を緩め、弟の後を追いかけた。
秋生は昨年19歳になり、今年の秋成人する。
昨年の春、通信制高校を無事卒業し、それまでアルバイトとして働いていたドラックストアの正規従業員となった。
一昨年就職先を探していた秋生は真面目だけが取り柄の性格を気に入られ、店長に声を掛けてもらった。
就職して確かにアルバイトの頃より責任は増えたが、金銭的にはずっと楽になった。
今春陽大の小学校入学を控えてる今の時期は何かと物入りになるため、少し貯金もできるようになった秋生はようやく安堵の息も吐くことができた。
もう少しゆとりができたら大きくなる陽大の為に、今住んでいる手狭のアパートも越さなければならなくなるだろう。
ふいに思い出すのは、今はどこにいるかもわからなくなった母だ。
戸籍上は親子のままの母は、今度こそ幸せになれたのだろうか。
子供を犠牲にしての幸せなど、本当の幸せと言えるのだろうか。
秋生自身が自分達を捨てた母親をどう思っているのか、よくわからない。
母に捨てられた1年前の夜、秋生は確かに悲しかった。
今もあの時優しく微笑んだ母の顔が忘れられない。
それでも今会いたいかと問われれば、わからなかった。
母が戻ってくれば、またあの頃の生活も戻ると思うと素直に喜べない。
秋生はもうカレンダーにバツ印をつけることなど、したくなかった。