新たに始まる
陽大は任せろと自信満々に答えた保育士志望の真由は、少し早いが現場実習だと笑った。
真由が泊りに来た翌日の日曜日、秋生は2時間ほど陽大を真由に任せることになった。
以前教えられた柊永の携帯番号に電話し、都合の良い時間に会ってほしいとお願いした。
秋生は了承されたあと彼の自宅近くまで行くと言うと、迎えに行くと言い返されたので、夕方秋生の自宅アパート前で待ち合わせる約束をした。
玄関で手を振る真由と陽大に挨拶し、そのままアパート前で待つ。
約束の10分前、秋生は柊永の姿を遠くに見つけた。
「わざわざありがとう」
自宅まで訪ねてくれた彼に感謝した秋生の声は、緊張でわずかに掠れていた。
何も答えない柊永の表情もいつもより硬いような気がしたので、同じ気持ちかもしれない。
「……歩く?」
しばらく黙って向かい合っていたが埒が明かないため、場所を移動するか尋ねる。
「公園に行くか」
彼の答えに頷いた秋生は、さっそく歩き始めた柊永の隣に並んだ。
公園に向かう2人は互いに自然とゆっくり歩き、そのせいか時間の流れもゆっくり感じられた。
互いに言葉のない沈黙はそれほど重くもなかった。
ただ秋生の胸だけがいつもよりずっと早く鼓動を鳴らしていた。
自宅近くにある大きい公園を通り掛かる。
柊永の足が止まらなかったので、秋生もそのまま大きい公園と通り過ぎた。
秋生は1週間前の学校帰り、偶然出会った柊永と陽大を迎えに行く途中、保育園の通り道にある小さい公園に立ち寄った。
公園の中で向かい合った彼から逃げた秋生にとって、そしておそらく柊永にとっても、この1週間は互いの存在に苦しんだ時間だった。
翌日からも普段と変わらず夕方陽大と遊ぶため迎えに来る柊永に対し、秋生はいつも通り挨拶するだけで精一杯だった。
陽大を通しての会話と決して触れ合わない視線は彼と出会ったばかりの頃は自ら望んでいたのに、今ではそうではなくなっていた。
今日秋生は柊永と出会った公園で、けじめをつけなければいけなかった。
「この前は、ごめん」
日が落ち始め暑さも和らいだ公園で彼と向かい合った秋生は、視線を伏せながら謝った。
この1週間ずっと彼に謝りたかったけれど、今やっと謝れた。
「俺が悪い。無理させた」
同じく謝り返した彼は、おそらく1週間前秋生に携帯電話を押し付けたことを反省してるのだろう。
秋生は自分の行動に反省する柊永を見るのは初めてで、彼らしくない姿に少しだけ緊張が和らいだ。
「サッカーボール、なくなっちゃったね」
以前この公園に転がっていた忘れ物のサッカーボールは、今探してもどこにもなかった。
サッカーボールの持ち主が思い出してくれたなら、それもよかった。
「……木野君が拾ってくれたから、今一緒なんだね」
この公園前で初めて柊永と会った時、彼は陽大が転がしたサッカーボールを拾ってくれた。
言葉にして思い出した秋生は何となく恥ずかしくなって、再び視線を伏せる。
「あのボールが目の前に転がらなくても、俺が公園に入ってた」
秋生は力強い柊永の声が確かに自分に向けられてると気付き、伏せた視線を戻す。
秋生と柊永は今初めて公園で視線を触れ合せた。
「限界だった。傍に行きたかった。苦しいことも悲しいことも全部引き受けて、笑ってほしかった。でもあんたに避けられれば、俺は一歩も動けねえんだ」
どんな時も迷いなく秋生を見つめた柊永の強い目が、今だけわずかに震えた。
秋生から拒絶されることに脅えていた。
「いつも傍にいて、守りたかった。でも初めてここに来た時は、そうじゃない…………ただ、あんたに会いたかった」
秋生は切なく響いた彼の言葉に、初めて本当の彼を見つける。
大人びた彼の中にいる、まだ高校生でしかない彼の心を見つける。
そしてまだ15才でしかない秋生の中に、彼の心が満ちていく。
「少しでいい。俺を受け入れてくれねえか」
プライドも体裁も関係ない、彼はただ救いを求め秋生の応えを待った。
「怖かったんだ」
呟いた秋生は、ただ柊永を見つめた。
彼がそうしてくれたように、今の、そして過去の秋生の心を伝えたかった。
「木野君が怖かった。傍にいて、いつも助けてくれて…………木野君がいるともっと弱くなりそうで、すごく怖かった」
秋生は明日いなくなってしまうかもしれない柊永が怖かった。
彼がいなければこんなにも弱くなってしまう自分では、陽大を守れなくなりそうで怖かった。
「……今は自分が怖い。私は木野君に何もできないから。いつも自分のことで精一杯で、全然余裕なんてなくて、普通の女の子みたいに木野君の傍にいることなんて出来ないから」
少し前の秋生は、ただ普通の女の子が羨ましかった。
自分の時間があって好きなことができて、自由があるクラスメイト達の姿をただ目で追いかけた。
柊永と一緒にいるようになって、普通の女の子に羨む思いもいつの間にか消えていた。
彼が自分を見ていてくれたから。
彼の隣りにいられれば他に何も必要ではなかった。
しばらくして、そんな今の自分を柊永に押し付けてることに気が付いた。
結局秋生は普通の高校生として、柊永の傍にいることなど出来ないのだ。
いつも時間に追われて陽大のことで精一杯で、彼だけといる時間なんておそらくほとんど持てない。
それどころか秋生が柊永の自由を奪っている。
そんな自分がたまらなく怖くなった。
「……でも、会えないのはもっと怖いよ。会いたくて、会いたくなって…………そんな自分が一番怖いんだよ」
嘘のない想いを吐き出して、こんな貪欲で醜い自分の顔を見てほしくなくて、両手で覆い隠す。
「秋生」
秋生の手に、柊永の指先が触れた。
伝わる彼の熱が、秋生の指先まで震えさせた。
「秋生が好きだ」
彼の手で促され、顔を覆う秋生の両手はゆっくりと開かれる。
見苦しいほどに赤く染まった秋生の顔は、きっと呆れられるだろう。
けれど秋生の瞳に映る彼が嬉しそうに笑ってくれているので、それでもいいかと諦めた。