溢れる
「水本さん、今日どうする?」
授業が終了し席を立った秋生に声を掛けたのは、後ろの席に座る村尾という女子生徒だった。
彼女の手にはすでにバックが握られている。
「今日も行けないや、ごめんね」
困ったように笑いながら謝ると、村尾も同じ笑顔を返した。
「いいよ、また今度行こうね。バイバイ」
秋生に手を振り挨拶した村尾は、教室のドア前で待っていた他のクラスメイト達と共に帰り始めた。
村井を見送った秋生は、しばし彼女達が出ていった教室のドアを見つめた。
秋生と同じく通信制高校に通う生徒は、通う理由も様々だ。
市立ということもあって学費が安く、秋生が通信制でも高校に進学できた理由はそれが大きかった。
秋生と同じく経済的な理由で入学した生徒も他にいるかもしれないが、皆表面的には普通の高校生と変わらない。
さっき秋生に声を掛けた村尾も昼間はアルバイトをし、好きなインディーズバンドのライブ通いに給料の大半をつぎ込んでると以前笑って教えてくれた。
村尾は今日もこれからクラスメイト数人と買い物に行く予定で、いつも断ってばかりの秋生にも変わらず声を掛けてくれた。
そんなクラスメイト達を眺めるだけで見送る時は、自分と彼女達の違いをもっとも強く感じる瞬間でもあった。
少し前まで彼女達を羨ましい気持ちで眺めたことも、嘘ではない。
1人1人違いはあれど、秋生が決して手に出来ない生活。
高校生でいられる一時を自分の為に使い、親に守られながら自由を楽しむ普通の女の子。
心の中で陽大に謝りながらもクラスメイト達の姿を見るたび羨む思いは、自分にもどうにもならないものだった。
今はどうだろう。
今の秋生はクラスメイト達に羨むのではなく、また別の思いに囚われている。
それに気付いてしまった今、以前とはまったく違い胸が苦しくなる。
そして秋生は苦しむ胸を押さえることしかできない。
学校からの帰り道、陽大を迎えに行くまで1時間ほど空いてしまい、どうしようか考えながら歩いた。
秋生が通う高校は大きな駅から近い場所にある。
駅の周辺は若者向けファッション街でもあり、放課後の時間は多くの学生で混雑する。
さっき秋生を買い物に誘ってくれた村尾も当然のようにファッション街で寄り道していた。
秋生はただファッション街を通り抜けると、学生の姿もまばらになった通りにあるファーストフード店前で初めて立ち止まった。
空いてしまった時間を埋めるために店の前で暫し悩んだ後、思い切って入店する。
秋生にとってファーストフード店を利用するのは中学時代、一度だけ真由に連れられて以来だった。
週に一度ある高校の登校日はアルバイトを休むので今日のように空いた時間もできるが、飲食店に慣れてないせいで1人では尻込みし、クラスメイトと一緒に楽しむほどの暇はなかった。
そわそわと緊張しながらレジに並び、目の前の客にならってオレンジジュースを注文すると、一番奥の客席に座った。
駅から少し離れたこの店はそれほど混雑しておらず、周りの席に客の姿はなかった。
秋生はほっと息を吐き、静かにオレンジジュースを口に含んだ。
どこを見るでもなくぼんやりと座りながら、そういえばこんな時間は久しぶりだと実感する。
小学生の頃は毎日家に帰ればこんな風に過ごしていたが、いつの間にか1人でぼんやり過ごす時間を持つこともなくなっていた。
今更そんなことに気が付いて、思わず心の中で苦笑する。
すぐにジュースを飲み終えると手持無沙汰になり、まだ時間に余裕はあったが店を出るためバックを手に持った。
客席から立ち上がった秋生は、ちょうど遠く目の前に見えるレジカウンターに並んだ2人組の高校生を目に留める。
片方の見覚えある高校生にもう一度目を凝らし、よく確かめる。
上背がある後ろ姿は、確かに柊永のものだった。
客席に背を向ける柊永はまだ秋生に気付くことなく、レジに向かっている。
秋生は思わぬ偶然にどうしようかと思いながらも、自ずと彼の後ろ姿を見つめ始めた。
最近夏休みが明け学校帰りに友人と立ち寄ったのだろう、今日の彼は制服姿だった。
今まで普段着の彼と会い続けた秋生にとって初めて見る彼の姿に、今更ながら彼は高校生なのだと教えられる。
「あ」
しばし柊永に気をとられていた秋生は、いつの間にか客席に歩いてきた高校生に小さく驚かれる。
トレイを持ち秋生の前で驚いてるのは、柊永と共にいた高校生だった。
派手な色の髪とピアスが印象的な彼は確かに秋生も知っていて、思わず互いに見つめ合う。
「こんにちは」
秋生は彼と目を合わせた以上無視するわけにもいかず、軽く挨拶する。
そのまま空になったジュースのカップを握りしめ、客席にあるもう1つのドアから急いで店を抜け出した。
鼓動が乱れる胸に手を当てながら、早足で先を急ぐ。
さっきまでいた店が視界から消えたことを確認して、ようやく歩を緩めた。
柊永の友人に気付かれた以上、おそらく彼に知られるのもすぐだろう。
知られたくないと思うのは、おそらく柊永の制服姿を見てしまったからだ。
今まで見てこなかった現実を、今日偶然見てしまった。
ただそれだけなのに、秋生は今日初めて彼から隠れたかった。
秋生は突然背後から右腕を強くとられた。
驚いて振り向くと、さっき店で見かけた柊永の姿があった。
「どうしていなくなる?」
おそらく走った為に乱れた声で秋生に尋ねた柊永は、わずかに焦りの表情も滲んでいた。
「……ごめん」
言い訳する言葉も見つからず、ただ視線をずらして謝った。
「これから陽大の迎えに行くのか?」
「うん」
「一緒に行く」
秋生は柊永の言葉にようやく自分の腕を取る彼から離れた。
「瀬名君待ってるよ。早く戻りなよ」
柊永と共にいた友人の瀬名 啓斗は、秋生の中学時代のクラスメイトでもあった。
柊永と同じく、一度も話したことのない自分とは関係なかった人。
「行くぞ」
柊永は秋生の言葉を確かに聞いたはずなのに、構わず歩き始める。
1人先を行く彼をすぐに諦めた秋生も、彼の後ろを歩き始めた。
陽大の保育園に向かう途中、柊永が秋生に迎えの時間を確認した。
彼はまだ余裕があるとわかると、小さい公園の前で足を止める。
再び秋生に構わず公園の中へ入ってしまったので、再び諦めた秋生も彼に続く。
秋生は公園の真ん中で立ち止まった彼と向かい合った。
柊永がバックの中から取り出した紙袋を秋生に差し出した。
「……何?」
「いいから」
秋生は訝しがっても結局強引に押し付けられ、仕方なく受け取る。
「携帯……」
とりあえず紙袋をのぞくと、表面に印字されていた文字で中身が携帯電話だと気付いた。
「名義は俺になってる。使い方は、あとで教えるから」
「……もう、やめてよ」
今日初めて彼の厚意を小さい声で拒否した秋生は、紙袋も突き返すように押し付けた。
「こんなことまで頼んでない。やりすぎだよ」
どうせ素直に受け取ったとしても、お金は受け取ってもらえない。
毎月掛かる使用料だって、どうせ彼が払うつもりなのだろう。
友達でも恋人でもない、ただ陽大で繋がってるだけの知り合いにここまでするなんて、彼は一体何を考えてるんだ。
今秋生の心に埋め尽くされてるのは戸惑いでも躊躇いでもない、柊永に対する怒りだけだった。
「お願いだから、こんなことに使わないで」
彼が自分で稼いだお金を平然と使えるほど、自分は図々しくもない。
受け取りたくもない。
「俺が勝手にやってる。気にしなくていい」
「必要なものはちゃんと自分で買う。木野君は間違ってるよ。これ以上続けるなら、もう会わない」
今まで決して秋生に負けることがなかった柊永がぐっと口を閉じ、初めて黙った。
秋生は彼の目に明らかに自分がつけた傷を見つけ出す。
胸がぎゅっと痛くなり、今度こそ逃げ出したくなった。
「……今日はもう帰ってほしい」
陽大にも伝えておくからと素っ気なく付け足し柊永に背を向けた秋生は、公園の入口に向かって歩き出した。
傷ついた柊永の姿など、もう一瞬も見たくなかった。
「秋生」
彼に呼ばれて、身体が震えた。
足が囚われて、動けなくなった。
離れてる柊永の熱を、背中に感じたような気がした。
「傍にいたい。好きな女の為に何かしたいと思うのは、間違ってるのか」
とうとう溢れてしまった。
柊永は変えてしまった。
今2人の関係が変わってしまった。