夫を想う
「はあはあ、僕もうだめぇ」
「はあはあ、私もげんかーい」
「はあはあ、じゃあ私とリキの勝ち! やったねリキ!」
凜生と望生は小学校と幼稚園から帰った後、遊びに来た舞衣子とリキも混ぜて庭をひたすらグルグルと競争した。
望生が最初に根を上げると舞衣子も降参し、共に勝った凜生とリキは一緒に喜ぶ。
「ねえ舞衣子ちゃん、望生、次は木登りしようよ」
「ごめんね凜生ちゃん、私今日スカートだから木登りできない」
「ぼくは木登りできない」
「あ、そっか…………じゃあ2人とも見てて! 私の木登り!」
「凜生ちゃんだめだよ! 凜生ちゃんも今日スカートだよ!」
「お姉ちゃん、パンツ丸見えになっちゃうよ!」
「ふふ、凜生、スカートの下に運動着はいたら?」
「はーい」
今度は庭の木に登ろうとした凜生はスカートだったせいで舞衣子と望生に止められ、庭を覗きに来た母から運動着を渡される。
「よいしょ、よいしょ」
「凜生ちゃん、すごーい」
「お姉ちゃん、猿みたーい」
スカートの下に運動着を着用した凜生はあっという間に木の上部まで登り、感心しながら見上げる舞衣子と望生に手を振る。
「せーの」
「「「凜生ちゃ―――ん」」」
木に登ったままの凜生は庭の外から呼び掛けられた。
視線を向けると、3人の見知らぬ男子が凜生に手を振ってる。
凜生も条件反射で手を振り返すと、3人の男子はなぜか走り去ってしまった。
「誰だろ?」
「凜生ちゃん、さっきの男子、隣のクラスだよ」
木登りをやめた凜生がさっきの見知らぬ男子3人組を不思議がると、舞衣子は知っていたらしい。
「きっと凜生ちゃんに会いに来たんだよ。凜生ちゃん、やっぱりすごいね」
「何で?」
「だって凜生ちゃんのこと好きな男子、いっぱいいるよ。うちのクラスの男子もみんな凜生ちゃん好きだもん。凜生ちゃん、すっごく可愛いから」
「舞衣子ちゃん違うよ。お姉ちゃんはすっごく美人になるんだって、おばあちゃん言ってたよ」
「そうだね望生君、凜生ちゃんはすっごく美人」
望生が教え舞衣子が納得した通り、凜生の顔は将来とても美人になると祖母にいつも褒められる。
そして凜生のポニーテールに結わえられた綺麗な黒髪は、凜生の綺麗な顔を一層印象強く引き立てる。
まるで今の凜生は完璧なお人形のようだ。
まだ8歳の凜生がすでに完璧なお人形なら、将来の凜生は大袈裟でもなく絶世の美人になるだろう。
友達の舞衣子はそんな凜生を自慢に思っていて、望生も姉の凜生が褒められると嬉しい。
凜生は父に似た自分が好きだが、ただ容姿を褒められることには全く喜びを感じない。
それどころか凜生は容姿を褒められると、全く似てない母を気にしてしまう。
昔クラスメイトの女子からお母さんに似てなくてよかったねと笑って喜ばれ、少し前は同じ剣道場に通う年上の女子から凜生が似なかった母はあまり可愛くないと陰口を囁かれた。
凜生は自分の容姿を褒められるせいで母が悪く言われてしまうことを一番気にし、とても嫌だった。
それでも凜生が周りから褒められる容姿を嫌いにならないのは、尊敬する父に似たからではない。
母から産まれた自分を嫌いになることは、凜生にとって母に嫌われることと同じだからだ。
父に似た凜生は母に嫌われてない。
たとえ父に似なくても母から産まれただけで、凜生は母にとても愛されてる。
母から愛されてることなど聞かなくてもわかってるから、周りから褒められる容姿のせいで母を気にすることもないのに、凜生は今も再び庭に来た母を気にした。
「ねえ、みんなでおやつ作ろうか。簡単プリン」
「プリン作る!」
「凜生ちゃん、おばさんがプリン作ろうだって」
「……ううん、リキと遊ぶ」
母からおやつ作りに誘われても、舞衣子からも促されても、凜生はリキの傍から離れなかった。
「おばさん、私もリキと遊んでます」
「……そう? じゃあ望生、お姉ちゃんと舞衣子ちゃんのプリンも作ってね」
「ぼく、お母さんのプリンも作る」
舞衣子も凜生と一緒に庭に残り、望生は母と一緒にキッチンへ向かう。
凜生はリキの前に座りながら、母と望生が手を繋ぐ後ろ姿をそっと見つめた。
「りーおちゃん」
「……舞衣子ちゃん、何?」
「プリン作らなくてよかったの?」
「うん、舞衣子ちゃんもよかったの?」
いつもの凜生なら本当はプリンを作りたかった舞衣子も、庭に残る凜生の真似をした舞衣子もちゃんと気付けるのに、まだ母を気にしてる今の凜生は全然わからなかった。
「私は凜生ちゃんが寂しそうだから、一緒にいたくなったの」
最初はプリンを作りたかった舞衣子はやはり寂しそうな凜生の傍にいたくなったと、優しく笑って伝えた。
凜生は優しく笑う舞衣子が傍にいてくれて、舞衣子の優しい気持ちも教えられたのに、なぜか舞衣子の言う通り本当に寂しくなった。
舞衣子の傍でリキに触りながら、凜生の顔も初めて寂しくなる。
「凜生ちゃん、どうして寂しくなったの?」
「……舞衣子ちゃん、私もお母さんとプリン作りたかったの」
「そうだったんだ。じゃあ凜生ちゃん、プリン作りに行こ?」
「ううん、やだ」
「え? どうして?」
「……お母さんはもう望生とプリン作ってるから」
母と一緒にプリンを作りたかったのに、もう弟と一緒にプリンを作ってる母の傍に行きたくない―――舞衣子にはそんな凜生の気持ちがよくわからなかった。
舞衣子が2つの気持ちに挟まれ庭から動けない凜生を理解できなかったのは、弟のいる凜生と違って舞衣子は1人っ子だからだ。
凜生を理解してあげられない舞衣子は、リキに触るのもやめた凜生に初めて困ってしまう。
「……凜生ちゃん、よくわからなくてごめんね」
謝ることしかできなかった舞衣子は膝に顔を埋める凜生にいっぱい首を振られた。
「舞衣子ちゃん、ごめんね。私は恥ずかしいの。舞衣子ちゃんにもっと教えたいのに恥ずかしいの」
「凜生ちゃん、ちょっとでいいよ。私に教えて」
「……私、お母さんと似てない」
「うん、凜生ちゃんはお父さんと似てるね」
「でも望生はお母さんと似てるから…………お母さんは望生の方が好きかもしれないの」
1人っ子の舞衣子は凜生の気持ちをもっと教えられ、ようやくわかることができた。
きっと凜生は弟と同じくらい母に好かれたいけれど、母と似てないから心配になったのだとわかった。
そして舞衣子は顔を埋める凜生にどうすればよいのかもわかった。
「凜生ちゃん、大丈夫だよ。おばさんは凜生ちゃんのこと大好きだよ」
「……でもお母さんは望生の方が好き」
「絶対違うよ。凜生ちゃんと望生君は絶対一緒だよ」
「ううん、ううん」
母と似てる望生の方が母に好かれてると思う気持ちを教えてしまった凜生は、舞衣子から慰められても否定されても余計頑なになった。
舞衣子は以前も家族のことで落ち込んだ凜生を慰めて元気にさせたが、今はまったく元気になってくれない凜生に再び困り、今度は一生懸命悩み始めた。
「あ! 凜生ちゃん、私わかったよ。おばさんは凜生ちゃんが1番大好き」
「……私、1番?」
「うん、私この前凜生ちゃんに教えてもらったから、わかったの。おばさんは凜生ちゃんのお父さんが1番大好きなんだよね?」
「……うん、お母さんの1番はお父さん」
舞衣子に確認された凜生も思い出した。
凜生は信じてることを思い出した。
父が母を1番大好きなように、母も父が1番だと信じてる。
「凜生ちゃんはお父さんそっくりだから、お父さんが1番大好きなお母さんは凜生ちゃんも1番大好きだよ」
「……私とお父さん、一緒?」
「うん、一緒。だってね、私のお母さんは私のおばさんと双子だから、そっくりなの。私はお母さんが1番好きだけど、おばさんも1番好きなんだよ。凜生ちゃんのお母さんはお父さんが1番大好きだから、凜生ちゃんも1番」
「私とお父さん、1番…………舞衣子ちゃん、望生は?」
凜生は母にとって父と同じ1番だと教えられ、喜ぶよりも弟の望生が気になった。
「望生君はお母さんが1番大好きなお父さんの子供で、お母さんが1番大好きな凜生ちゃんの弟だから、やっぱり1番だね」
「じゃあお父さんと私と望生、みんなお母さんの1番?」
「うん、おばさんはみんな1番大好き」
「やったぁ!」
凜生は家族みんな母の1番でとても大喜びした。
さっきまで顔を埋めていた凜生が突然飛び上がり、舞衣子はとても驚く。
最後に舞衣子といっぱい笑った凜生は、初めて気が付いた。
今までの凜生は母にとって3番目を望んだ。
母がいないと1番弱くなってしまうのは父で2番目は弟だから、凜生は母の3番目になろうとした。
けれど舞衣子に教えられ父と弟の3人で母の1番だとわかった凜生はとても嬉しくて、やはり母の1番がよかったのだと気が付いた。
「舞衣子ちゃん、プリン作りに行こ! 間に合うかも!」
「うん!」
母の1番になりすっかり元気になった凜生と、無事凜生を元気にさせられた舞衣子は、手を繋ぎながらキッチンへ走った。
「おーい、お母さーん」
「お母さーん」
子供達と作ったプリンを食べた後、二階のベランダに干していた布団を取り込み始めた秋生は、舞衣子が帰った後も庭でリキと遊ぶ凜生と望生に呼ばれる。
ベランダから笑って手を振ると、凜生と望生も笑って手を振り返した。
「お母さーん、大好きー」
「ぼくも大好きー」
今日母の1番だとわかった凜生はもう隠すことなく母が大好きな気持ちを伝え、いつも母の1番だとわかってる望生は今日も母が大好きな気持ちを伝える。
「凜生、望生、大好き」
秋生は大声で大好きな気持ちを伝えてくれた凜生と望生に、ほんの少し大声で大好きな気持ちを伝え返した。
再びリキと遊び始めた凜生と望生をそのまま見つめた秋生は、あまり得意ではないベランダにいても初めて気にならなかった。
思えば秋生が今いる綺麗なベランダも、凜生と望生が十分遊べる庭も、そして家族4人が犬のリキと共に快適に過ごす一軒家も、秋生にとって贅沢なものだ。
柊永がやや広いこの土地を買い一軒家を建てると言ったのは既に9年前で、結婚とほぼ同時だった。
結婚前の秋生は焦る柊永にとても困ったが、結局は結婚後も変わらなかった。
結婚前の柊永が滅茶苦茶と表現できるなら、結婚後の柊永は無茶苦茶だと、ベランダで振り返った秋生は苦笑を零す。
結婚前の柊永が滅茶苦茶になったのは、秋生が柊永から普通の生活を奪ってしまったせいだった。
柊永の家族に反対された秋生が結婚など考えられなかったせいで、まずは柊永から普通に食べることを奪い、ほぼ同時に普通に眠ることも奪った。
秋生がいなければ食べることも眠ることもできなくなった柊永を助ける為だけに結婚を決意したが、今度は結婚するまでに時間を掛けたせいで、秋生は夜一緒に過ごす柊永から片時も離されなくなった。
恋人がいなければまともに寝食ができず、恋人と一緒の夜は片時も離れられない男―――柊永をそんな男にさせたのは恋人の秋生だったから、最後はただ柊永を本当に助ける為に結婚した。
一度離婚を経験した秋生には再び結婚する意志など皆無で、もし柊永が秋生のせいで普通の生活を失わなければ、今も秋生はただ柊永の恋人だったかもしれない。
柊永は結婚の意志が皆無だった秋生を普通の生活を失くす代わりに結婚に至らせたのだから、結婚後は無茶苦茶になるしかなかったのも頷くしかない。
結婚後すぐ家を欲しがった柊永は秋生が早いと止めても聞く耳持たず強行し、秋生にとっては贅沢な一軒家を建ててしまった。
結婚前、焦るあまり秋生に子供を作ろうとして後悔した柊永が、結婚後は堂々と秋生との子供を作った。
秋生は結婚してすぐ家を持たされ、子供を作られ、そのまま仕事も辞めさせられた。
当時の秋生はすべて勝手に強行する柊永に結局諦め、親友には柊永への文句を散々言われ、弟にはただ柊永の味方をされた。
妻の意志など一切関係ない無茶苦茶な夫の柊永は、たとえ妻を離さない為でも、当時の秋生はひっそりと愛想尽かすことだって出来たかもしれない。
それから9年経った今ベランダにいる秋生は、結局そんな夫に一度だってひっそりとも愛想尽かしたことがない。
それどころかベランダから庭で遊ぶ子供達を見つめながら、夫を想う。今日も夫を想う。
子供の凜生は信じてる。母は父が1番大好きだと信じてる。
凜生は母の気持ちをちゃんとわかってる。
秋生はどんなに柊永が滅茶苦茶でも無茶苦茶でも構わないのだ。
いつだって柊永を愛してる。これからもずっと柊永を愛してる。
秋生が柊永を愛するのはどんなことがあっても変わらないから、秋生にとって柊永は1番なのだ。
同じく秋生がいつまでも愛する子供の凜生と望生は、それでも父親の柊永には敵わない。
凜生は父を1番愛する母を喜び、望生は母から1番愛される父にきっとヤキモチを焼く。
秋生が子供より夫を1番愛し続けるのは、夫が同じだからでも、夫が望んでるからでもない。
ただ、秋生の心が言うことをきかない。
ただ柊永を1番愛することは秋生の生き方だった。
ベランダにいる秋生はただ柊永に会いたい。本当はいつも柊永に会いたい。
夫にそっくりの娘と自分そっくりな息子をベランダから眺め、秋生の心は夫に会いたい気持ちを和らげる。
子供達の傍へ行くため、秋生の足はようやくベランダを離れた。