昔の父
「おーい、お母さーん」
「お母さん、どうしたの?」
道場から帰ってすぐ夕食作りを開始した秋生はいつの間にかぼんやりしたせいで、傍にいた凜生と望生から心配される。
慌てて我に返ると、凜生と望生にもすぐ笑われた。
「お母さん、へーんなの」
「ごめんね、ボーっとしちゃった」
「ねえお母さん、何考えてたの?」
「ううん、何も」
「嘘。お母さんは絶対嬉しいこと考えてた」
「え?」
「望生、ボーっとしてるお母さん、嬉しそうだったよね?」
「うん。お母さん、ちょっと笑ってた」
凜生と望生に笑って指摘された秋生はさっきぼんやりしただけでなく、わずかに笑みを滲ませていたらしい。さすがに恥ずかしさで少し落ち込む。
「……凜生、望生、お父さんには教えないでね」
「いいよ。そのかわり嬉しい考えごと教えてね」
「お母さん、嘘ついちゃだめだよ」
凜生と望生に口止めしただけでしっかり脅されてしまい、再び落ち込んだ秋生は仕方なく諦める。
「……あのね、お母さんはさっき昔のお父さんを思い出してたの」
「やっぱり! 私は絶対お母さんはお父さんのこと考えてると思った」
「お母さん、昔のお父さんっていつのお父さん?」
「まだ中学生のお父さん」
今日、義叔父の洸斉によって久しぶりに中学時代の柊永を思い出した秋生はさっきまた思い出してしまったが、子供達相手に正直に教えてしまう。
母を挟む凜生と望生は増々興味津々と母に詰め寄った。
「お父さんとお母さんは同じ中学校で、同じクラスだったんだよね?」
「うん、そうだよ」
「ねえ、お母さんは中学生の時、お父さんのこと好きになったの?」
「……うん」
「何で? お父さんカッコいいから?」
「違うよ望生、お母さんはお父さんだから好きになったんだよ。お父さんもお母さんだから好きになったの。お母さん、そうだよね?」
「……うん、そうだね」
父と母は唯一同士と凜生から勝手に信じられてしまった秋生は、好きになったきっかけは違うとわざわざ訂正するのも不憫に思い、そのまま肯定する。
「あ、お客さんだ。玄関行かなきゃ」
「お母さん、ぼくが玄関行く!」
ちょうど来客を知らせるチャイムが響き子供達の質問から逃げられたが、秋生の代りに望生が張り切って玄関へ走った。
「はーい、誰ですか?」
「こんばんはー、お荷物お届けに来ましたー」
「お荷物くださーい」
「あー……ごめんね僕、お母さんいるかな?」
「お母さんいます」
「おじさんはお母さんにお荷物渡すから、呼んできてくれない?」
「わかりました。お母さーん!」
はりきって玄関ドアを開けた望生は、荷物を届けに来た宅配の男性から受け取らせてもらえず、結局母を呼びに行く。
「すみません、お待たせしました」
「いえ、大丈夫です。じゃあこちらがお荷物になりますね」
「はい、ありがとうございます」
「サインもここに」
「はい」
望生に教えられた秋生は玄関で少し待たせた宅配人から荷物を受け取り、伝票にサインをする。
「お世話になりました」
「いーえー、それじゃ失礼しまーす」
伝票とペンを返された宅配人が去ると、秋生は玄関に佇んだまま届いたばかりの荷物を眺め始めた。
「……何だろ、久しぶりにドキドキした。あの奥さん、見た目普通だけど危険かも」
再び車に乗る前にさっき荷物を届けた一軒家へ振り返った宅配人は、荷物を手渡した普通の母親になぜか高鳴らされた胸を押さえる。
やっと胸が落ち着き車に乗り込もうとすると、いつの間にか強面の美丈夫が傍に佇んでいた。
「……あ、こんばんはー。さっきお荷物届けさせてもらいましたー」
「お疲れ様です。お名前は?」
「え?」
「あなたのお名前」
「あ、俺ですか? 長嶋でーす」
「長嶋さんは二度とうちに荷物を届けないでください。それじゃ」
「……え?」
強面の美丈夫になぜか今後の荷物届けを拒否された宅配人の長嶋は、家へ去っていく強面の美丈夫をポカンと見送った。
「あ、お帰り」
「いいか秋生、これからは客が来ても一切玄関に出るな」
さっき届いた荷物をしばし玄関で眺めていた秋生は、たった今帰宅したばかりの柊永から突然無理な命令を受ける。
「……何で?」
「いいからそうしろ」
「ちゃんと理由教えてよ。意味わからない」
「わからなくていい。ただそうしろ」
「あ、お父さんだ」
「お父さん、お帰りー」
秋生が理解しがたい命令の理由を尋ねても問答無用で返されるうちに、凜生と望生が帰宅した父に駆け寄った。
「凜生、望生、これからは客が来ても、お母さんはいないって言え」
「え? 何で?」
「お父さん、何で?」
「お母さんを危険から守るためだ。いいな?」
「「はーい」」
「もう……」
以前から秋生の外出にも煩かった柊永は今日帰ってくると更に用心深くなり、秋生は子供達まで従わせた柊永に呆れて終わった。
「お母さん、それ荷物?」
「うん、伯母さんからお肉もらっちゃった」
「え? お肉?」
「お肉見せて!」
突然伯母からお肉が届き驚いた凜生と望生は、母から受け取った荷物をマジマジと見つめる。
「大きい。きっといっぱいお肉入ってるよ」
「早くお肉食べたーい」
「秋生、何で義姉さんから肉届いたんだ?」
「昨日お義姉さんから電話もらったの。私がお義姉さんの代りにお義兄さんのマフラー編むから、お礼に高級和牛受け取ってって」
「相変わらず義姉さんはさばけてんな……」
義姉からの荷物を訝しがった柊永は秋生に事情を教えられると、義姉の性格上すぐに納得した。
「凜生、望生、伯母さんに電話しよう。お肉いっぱいありがとうございましたって」
「「はーい」」
秋生も子供達と共に沢山頂いた高級和牛を素直に喜び、義姉に礼を伝える為ようやく玄関を離れた。
「よう」
「……お前、何で来たんだ?」
「今日は高級和牛だから」
夕食前に再び来客を知らせるチャイムが鳴り、玄関を開けた柊永は友人の瀬名に高級和牛目的で来訪された。
「お前、何で知ってんだよ」
「さっき水本さんに電話もらったから。あ、水本さーん! 俺来たよ」
「いらっしゃい瀬名君」
「おい秋生、何で高級食材が手に入れば、こいつを誘うんだよ」
「だって瀬名君はカニも好きだけど、お肉も好きだから。瀬名君、今日もいっぱい食べてね」
「ありがとう水本さん!」
以前柊永の実家でカニを頂いた時も瀬名を招待した秋生は、今日も勝手に瀬名を喜ばせた。
「あ、啓斗君! 今日は高いお肉のすき焼きだよ!」
「啓斗君、高いお肉よかったね!」
凜生と望生も以前高級カニを一緒に食べた瀬名がとても喜んだので、今夜は高級和牛だと喜んで教えてあげる。
「よし! 凜生、望生、さっそく高い肉食うぞ!」
「「お――!」」
凜生と望生に気合を入れさせた瀬名は客にもかかわらず、勢いよくリビングへ突進した。
秋生も笑いながら後に続き、今夜すっかり友人に主導権を握られた柊永は溜息だけで諦めた。
「うまっ! やっぱ高級和牛のすき焼きは感動もんだね! うちの豚すき焼きとは全然違う」
今夜は義姉から届いた高級和牛をすき焼きにして味わい始めると、一番最初に感動の声を上げたのは肉好きの瀬名だった。
「へえ、瀬名君の家は豚肉のすき焼きなんだ」
「うん、うちの母親は偽物好きだからね。ほら、前にも教えたでしょ? 俺は小さい頃、カニカマをカニだと思って育ったって。同じくすき焼きは豚肉、トンカツは鶏肉だと思い込まされたんだ。水本さん、偽物だらけで大きくなった俺って可哀想でしょ?」
瀬名から同情を求められた秋生はただ苦笑したが、小さい頃すき焼きもトンカツも知らずに育った秋生の方がよほど可哀想に違いない。
「ねえお母さん、どうしておばあちゃんは啓斗君のお家みたいに、豚肉のすき焼き作らないの?」
「え? うーん…………何でだろうね?」
「望生、俺が教えてやる。うちのばあちゃんは豚肉ですき焼きを作る必要がねえんだ。もっと簡単に言うと、豚肉のすき焼きしか食えねえ啓斗の家とは全然違うってことだ」
「おい柊永! 俺の家は一般サラリーマン家庭で、別に貧乏じゃねえぞ! ただ母親が節約家なだけだ! 実家が小金持ちなだけで今日も威張んな!」
祖父母宅で年に数度高級和牛のすき焼きを食べる望生が素朴な質問をしたせいで、最終的に瀬名は柊永を半ば本気で怒った。
「まあまあ瀬名君、私はすき焼き自体滅多に作らないから、豚肉のすき焼きも羨ましいよ。凜生、望生、今度お母さんも豚肉のすき焼き作ってみるね」
「水本さんやめて! 凜生と望生は高級食材で舌が肥えてるんだから、俺はとうとう馬鹿にされちゃうじゃん」
「そんなことないよ。凜生と望生はコンビニの肉まんも好きだし、私が作るはんぺんのトンカツは一番の大好物なんだよ」
「お母さんのはんぺんトンカツ、だーい好き!」
「私も!」
「凜生と望生は金かかんねえ子供だな…………俺もそろそろ子供持つために結婚するか」
「……え? 瀬名君、本当に?」
「啓斗、お前独身主義じゃなかったのか?」
安上がりの凜生と望生を見つめながらさり気なく結婚宣言した瀬名に、当然秋生と柊永は揃って驚いた。
「仕方ねえだろ。俺の彼女は今年35だから、さっさと子供作らねえと高齢出産になっちまう…………え? ちょっと水本さん、何で泣くの?」
「お母さんが泣いちゃった!」
去年ようやく彼女を作った瀬名がわずかに照れながら結婚の決意を報告してくれ、秋生は本当に顔を覆ってしまった。
秋生がどうしても泣かなければいけないのは過去長い年月、瀬名を苦労させたからだった。
瀬名や子供達を心配させたあと再び顔を見せた秋生は、涙目のまま凜生と望生に微笑んだ。
「凜生、望生、啓斗君が好きな人と結婚するんだって。みんなで結婚おめでとうって言おう」
「「うん!」」
「じゃあいくよ、せーの」
「「「啓斗君、結婚おめでと―――!」」」
凜生と望生は母と一緒に声を揃え、瀬名の結婚を笑顔で祝う。
今度はわずかも照れることなく喜んだ瀬名は、最後に柊永とも笑って目を合わせた。
「今日のすき焼きは瀬名君呼んで大正解だったね」
「まあな」
凜生と望生が眠った夜、秋生はめずらしく凜生が先週出し忘れた給食着にアイロンを掛けながら、傍にいてくれる柊永と再び瀬名の結婚を喜んだ。
「瀬名君、嬉しそうだったね」
「秋生の方が嬉しそうだったぞ」
「柊永だって…………あ、真由にも明日教えよ」
「秋生、手が止まってるぞ」
「はいはい」
「…………はあ」
「え? 柊永、どうしたの?」
瀬名の結婚を一緒に喜んだばかりの柊永がなぜか今度は溜息を吐き始め、秋生は再びアイロン掛けを止められた。
「大したことじゃねえよ。来月社員旅行が決まっただけだ」
「そうなんだ……どこ?」
「いつも通り、どっかの豪華な温泉旅館に一泊だ」
毎年一泊の社員旅行がある柊永は、今年も義務で行くことが決まったと秋生に教える。
柊永が重い溜息を吐くほど毎年社員旅行を憂鬱に感じなければいけないのは、秋生と離れるからに違いなかった。
結婚前から変わらず秋生と一緒じゃなければ食事も睡眠もとれない柊永にとって、一泊の社員旅行はもう9年も苦痛に変わってしまった。
「……ねえ、今年も家族一緒でもいいの?」
「ああ」
「じゃあ私達も行くよ」
柊永の会社の社員旅行は毎年家族同伴でも可能だが、今まで秋生と子供達が付いていくことはなかった。
今年に限ってあっさり同伴の意志を伝えられた柊永は驚きの表情で秋生を見つめる。
「だめ?」
「……秋生はいつも行きたがらねえだろ」
「今年は行きたくなっただけ」
「どうしてだ?」
「柊永が心配だから」
「それだけか?」
「……本当は付いていきたくなっただけ」
「………………」
「離れたくないの。それだけ」
今年は社員旅行に付いていきたくなった理由を最後わざと素っ気なく伝えた秋生は、再び急いで給食着のアイロン掛けを始めた。
「へえ、みんなで社員旅行か。いいね」
日曜日の午後、凜生と望生は遊びに来た真由と陽大に来月父の社員旅行に付いていくことを教えると、陽大から笑って羨ましがられた。
「それでどこ行くの?」
「ちょっと遠くの温泉だって。みんなでバス乗るんだよ」
「ふーん、木野君の会社はけっこうでかいのに、社員旅行はしけてんね」
「しけ……?」
「どっか遠くの外国に連れて行かれなくてよかったねってこと。凜生望生、お土産よろしくね」
「うん、私は温泉で売ってる名物のおまんじゅう買ってくる」
「ぼくは温泉で売ってる起きあがりこぼし買うよ」
「へえ、凜生と望生はお土産もリサーチ済みか。張りきってるね。でも秋生、何で今回は木野君の社員旅行に付いて行くわけ? あんたいつも留守番希望だったのに」
「真由ちゃん、私が教えてあげる。お母さんはもうお父さんと1日も離れられないんだって」
「……は?」
「お父さん、そうだよね?」
「ああ」
「おい木野君、子供に真っ赤な嘘教えるな」
「嘘じゃねえよ。俺は秋生からそう言われたんだ」
「まさか! この秋生が恋愛至上主義女みたいな発言かますわけないじゃん。木野君の妄想だ。秋生、そうでしょ?」
「……うん」
「ん?……あんた、ずいぶん歯切れ悪い肯定だね。まさか……マジ?」
「違うよ。私はただ離れたくないって言っただけで、1日も離れられないなんて言ってない」
「へえ! でも秋ちゃん、柊君に離れたくないって言ったんだ! すごい進歩! 昔の秋ちゃんだったら考えられない! よかったね柊君」
「ああ」
結局大胆発言を認めた秋生は羞恥で俯き、柊永は喜ぶ。
同じく陽大も喜んであげたが、真由は大変悔しそうに舌打ちした。
「秋生、あんた最近木野君に対して変わり過ぎだよ。そんなだらしない顔引っ込めて、昔の素っ気なさを思い出しな」
「ちょっと真由、私はだらしない顔なんてしてないよ」
「そうだよ真由ちゃん、お母さんはだらしない顔してないよ。お母さんはこの前昔のお父さんを思い出した時も、ボーっとしながらちょっと笑っただけ」
「凜生やめて。内緒だって約束したじゃない」
「あ、そうだった!」
この前母が昔の父を思いぼんやりしながら少し笑った姿を教えてしまった凜生は、母との約束を破ったせいで慌てて口を押えた。
「……秋生、あんたマジで最近変わり過ぎ」
「もう私の話はやめて。おやつ作ってくる」
真由もさすがに悔しさを通り越すと、秋生は居た堪れなくなりキッチンへ逃げた。
「秋ちゃんと柊君のラブラブ度は今がピークだね」
「陽大、俺と秋生のピークはまだまだだぞ」
「お父さん、ピークって何?」
「いいか望生、お父さんとお母さんはこれからいくらでもラブラブになるってことだ」
子供にまではっきりと妻との仲の良さを自慢する柊永は心底嬉しそうで、ただ呆れる真由とただ喜ぶ陽大もこれ以上口出ししなかった。