すぐるさん
「はい望生、蝶々のお土産」
「……チョウチョ、飛んでない」
「うん、この蝶々はもう死んでるからね」
「うわーん、お母さーん」
「あーあ……やっぱり望生が泣いちゃった」
今日凜生は父と陽大の3人で昆虫博物館へ行ったが、母と真由の3人で出掛けていた望生が帰ってくると、お土産で購入した蝶々の標本を渡しただけで大泣きされてしまった。
今日凜生と一緒に昆虫博物館へ行った陽大は母の胸で泣く望生を見つめ、蝶々が好きな望生に蝶々の標本をお土産にしたいと張りきった凜生を止めるべきだったと今更後悔する。
望生に胸で泣かれる秋生も傍で見守る真由も、凜生に全く悪気はなかったとはいえ望生を不憫に思う。
突然望生に大泣きされた凜生はただキョトンとし、柊永は秋生の胸で泣き止まない望生を訝しがる。
「望生、何で泣いちゃったの?」
「おい望生、お前なんで泣いてんだ?」
「やっぱ柊君と凜生はそっくりだね……」
繊細さ皆無の柊永と、人の気持ちには繊細だが昆虫には全く繊細じゃなかった凜生は、蝶々の標本で泣いてしまった望生の繊細な気持ちに全く気付けない。
そんな似た者親子は陽大からしみじみと呆れられる。
「とにかく凜生、その蝶々は凜生の部屋のクローゼットに隠しといて、望生が中学生になったらプレゼントしてあげな」
「……うん、わかった。でも真由ちゃん、何で?」
「凜生も高校生になったら、きっとわかるよ」
「おい谷口、俺は買いたくもねえ蝶々を望生の為に買わされたんだぞ。何で8年も隠さなきゃいけねえんだ」
「繊細さとは一生無縁な木野君は黙ってて!」
「……繊細さとは一生無縁? 何言ってんだ谷口、俺は誰よりも繊細だぞ」
「はあ…………とにかく凜生、早く蝶々隠しておいで」
真由は繊細さ皆無な自分を全く信じない柊永を最後は放っておき、やっと凜生に蝶々の標本を隠させた。
「凜生、昆虫博物館楽しくてよかったね」
「うん、真由ちゃんも今度一緒に行こうね」
「真由ちゃん、陽大君、バイバーイ」
凜生はようやく泣き止んだ望生と共に玄関に並び、これから帰る真由と陽大を見送った。
「お姉ちゃん、ぼく今日店長さんの庭で遊んだよ」
「店長さんの庭? 望生、店長さんのお家に行ったの?」
「うん、店長さんの庭大きかったよ」
凜生は今日昆虫博物館に行ったが、望生はそのあいだ母が昔働いていた珈琲店へ行った。
真由と陽大を見送り終えた玄関で、凜生は望生から店主宅の庭で遊んだことをさっそく教えられる。
「ぼく、店長さんの庭で真由ちゃんと鬼ごっこしたよ。お姉ちゃん、今度一緒に鬼ごっこしようね」
「うん、かくれんぼもできるかな」
「できるよ。ぼくお母さん見つけたよ。お母さんはぼくのこと見つけようとしたけど、ぼくがお母さん見つけたの」
「ふーん?」
「お母さんはすぐるさんとお話ししてたけどバイバイしなくて、ぼくのこと見つけようとしたの」
「ふーん? そうなんだ……」
凜生は今日店主宅の庭で遊んだ望生の詳しい説明がよく理解できず、理解したフリをしながら玄関から離れた。
「ねえお母さん、すぐるさんって誰?」
「え?」
「望生が教えてくれたの。今日お母さんとお話ししたすぐるさん」
再びリビングに戻った凜生と望生がソファに座っていた母を両側から挟めると、凜生は今まで一度も会ったことがないすぐるさんの事を母に尋ねる。
「優さんは店長さんの息子さん」
「息子さん? 光君?」
「光君は店長さんの2番目の息子さん。1番目の息子さんが優さんで、3番目の息子さんは勝君って言うんだよ」
母に店主の3人息子を教えられた凜生は珈琲店で働く光しか知らなかったが、すぐるさんは店主の長男だとちゃんと理解した。
「1番目がすぐるさん、2番目が光君、3番目がまさる君か。お母さん、店長さんの息子さんはみんな似てる?」
「ううん、みんな似てないかな」
「お姉ちゃん、光君とすぐるさんは全然似てなかったよ」
「ふーん、じゃあ私と望生みたいだね」
「ぼくとお姉ちゃん、全然似てないの?」
「うん、全然似てない。あ! でも手は似てる」
「あ! 本当だ。同じ」
顔も性格も全然似てない凜生と望生は手の形がそっくりだったことに気付く。
喜ぶ凜生と望生に挟まれながら一緒に笑う秋生は、すでに夕食作りを始めてくれた柊永がキッチンにいて自然と安心した。
「お父さん、大きいね」
「ああ」
「ぼくはうさぎ組で真ん中くらい」
「望生は俺の子だから、これから絶対大きくなるぞ」
「うさぎ組で一番大きくなる?」
「うさぎ組で一番は諦めろ。小学校卒業するまでには一番になれ」
「ぼくは一番じゃなくてもいいよ。真ん中でいい」
「何だよ、お前は向上心がねえな」
今夜も父と風呂に入る望生は将来父のように大きくならなくても構わないが、父からは難しい言葉で文句をつけられる。
「こじょしん?」
「一番でかくなりたいとか、一番頭良くなりたいとか、強い気持ちを持って頑張ることだ」
「頑張ると一番大きくなるの?」
「ああ、頑張って食え」
「お父さんはあんまり食べないけど、大きいよ」
「俺は特別だ。お前も俺の子供だから半分特別だけど、あと半分はお前が飯食って頑張ればいいんだ」
「ふーん……ねえお父さん、洸斉おじさんも大きいから特別?」
「ああ、そうだな」
「でもお父さんと洸斉おじさん、どっちも大きいけど全然違う。お父さんは細いけど、洸斉おじさんは太い」
「俺は細いんじゃなくて普通だ。洸斉おじさんはガッチリしてるだけだ」
望生は同じくらい大きいのに全然違う父と大叔父を比べて不思議がると、父が全然違う理由を教えてくれる。
「お父さんと洸斉おじさん、顔似てるよ」
「俺はじいちゃんじゃなくて洸斉おじさんに似たんだ。昔はよく親子に間違われた。今は年の離れた兄弟に間違われることもある」
「お父さん、ぼくとお姉ちゃんはきょうだいだけど、手が同じなんだよ」
「ああ、凜生と望生は顔が全然似なかったから、手が似たんだ」
「光君とすぐるさんも顔違うから、手が似てるの?」
「光君とすぐるさん?」
「店長さんの息子さんだよ。1番がすぐるさん、2番が光君」
「ああ……俺は1番のすぐるさんに会ったことないから、わからねえな」
柊永は珈琲店で働く光のことは知ってるが店主の長男をまったく知らず、今初めて望生から名前を教えられた。
「今日ぼく、すぐるさんに会ったよ。お母さんとすぐるさんはお話ししたから、ぼくと真由ちゃんは店長さんの庭で鬼ごっこしたんだよ」
望生は今日初めて会ったすぐるさんのことを父にも教えると、父は黙ってしまった。
「ぼく、もう上がる。お母さーん」
母に会いたくなった望生は急いで風呂から上がり、父はしばらく風呂に残った。
「何を話したんだ?」
「え?」
「すぐるさん」
今夜凜生と望生を一緒に寝かせた秋生は寝室に入ってすぐ、ベットに座る柊永に気付かれた。
おそらくさっき望生と風呂に入った柊永がその時教えられたことに気付いたが、秋生がもっとはっきり気付いたのは柊永の怒りだ。
そして怒りが籠る柊永の目に見つめられた秋生は、脅えを失くした柊永を初めて実感する。
少し前、秋生に負い目を捨てられた柊永は同じく秋生への脅えを捨てたとその後教えられたが、確かに今の柊永は秋生に全く脅えることなく怒りだけを表していた。
きっと以前の柊永なら、今日優と話した秋生にただ脅えるだけだったに違いない。
秋生は今怒るだけの柊永に正直に答えてしまえばどうなるか察するが、嘘を答えればどうなるかも察する。
どちらが柊永をより怒りに留めさせられるか比べ、マシな選択をするしかなかった。
「……優さんにただ告白されただけ」
マシな選択をした秋生は最もマシな言葉で、正直に事実を報告した。
秋生の報告は嘘を吐くよりもマシで、言葉も最もマシだったのに、柊永はいともあっさりと怒りを超えた。
柊永の怒りを超えた姿は、以前秋生の心に残す元夫のせいで嫉妬に狂った夫そのものだった。
嫉妬まみれの怖ろしい柊永をまた目の前にしてしまった秋生は以前と違い、ただ冷静な心を貫くしかない。
「私は店を辞めてからずっと会ってなかった優さんに今日やっと告白されて、もう終わっただけ。これから一度も会うことはないかもしれないし、いつかまた会っても私は昔店で働いてた女性なだけ…………優さんは今日で終わらせたくて告白してくれたの」
「秋生はすぐるさんの告白に何て答えたんだ?」
嫉妬まみれの怖ろしい柊永は必ず秋生の痛い所を突く。
前回もそうだった。
前回はそれでも最後だけ口を噤み逃げ切るしかなかったが、今回は逃げ切れるか定かでないまま口を開く。
「……何も」
「何も? 何も言わなかったのか?」
「うん」
「告白の返事はなしか」
「うん」
「どうしてだ? 俺がいる秋生ははっきり謝ることができただろ」
「………………」
「どうして一言謝らなかった?」
「………………」
「秋生、また残したのか」
いつのまにか間近に近づいた柊永の1本指が、秋生の胸に当てられた。
優の告白に謝らず心に残した秋生は柊永の1本指のせいで逃げ切れず、せめて答えるのではなく頷く。
「追い出せ」
嫉妬に狂った柊永の強要は秋生にとっても十分納得できた。
秋生が元夫を残した理由とは違う。
秋生が今日残してしまったのは優の恋だ。
たとえ一方的でも恋である限り、柊永のいる秋生は決して残してはいけなかった。
それでも秋生は優の恋を残さなければいけなかった。
元夫と同じく、不器用すぎた優の恋をせめて心に残したかった。
「ごめん、できない」
「………………」
「追い出さない」
秋生は最後はっきりと拒否した。
柊永の強要を叶えられないから、潔く断るしかなかった。
少し前、秋生に負い目を捨てられたと同時に秋生への脅えを捨てた柊永は、秋生への我慢もすべて失くした。
そのうえ今夜は嫉妬まみれの怖ろしい夫にまでなったのに、柊永は秋生にはっきりと諦めさせられた。
今夜柊永は秋生の心に元夫だけではなく、他の男の恋心まで残されてしまった。
もし前回の嫉妬に狂った柊永が秋生にはっきり諦めさせられたら、秋生の心に残った元夫にまで嫉妬の刃を向けたかもしれない。
けれど今秋生にはっきり諦めさせられた柊永は秋生の心に恋を残した男に嫉妬の刃を向けるどころか、秋生に嫉妬をぶつけることすらも諦めさせられた。
前回と違い今の柊永がすべて諦めさせられたのは、前回を覚えてるからだ。
前回嫉妬に狂った柊永はあと少し行き過ぎれば、秋生をまた失っていた。
もう二度と同じことを繰り返せない柊永の心が、他の男の恋を心に残した秋生を潔く諦めるしかなかった。
そんな自分に壮絶なショックを受けた柊永は、憎むこともできない秋生から逃げることしかできない。
柊永に逃げられた秋生は寝室で1人となり、やはりそんな自分を無理やり諦めるためベットにひたすら座り続けた。