母を見つける
「望生くーん、こんにちは!」
「店長さん、こんにちは」
「あらまあ! 望生君は前より大きく挨拶できるようになったわねえ! 偉い偉い!」
「ありがとうございます」
「あらまあ! しかもいつの間にかお姉ちゃんみたいに礼儀正しくなっちゃって、本当にすごい! 私は偉くてすごい望君がだーい好き!」
「ぼくも店長さん好きです」
「あらまあ! じゃあ望生君、私たち両想いね! 私のお膝におーいで!」
「お母さん」
「ガク…………はあ、今日もやっぱり秋生ちゃんか」
「遠山さん、今日もざんねーん」
日曜日の今日、秋生は望生と真由の3人で9年前まで働いていた珈琲店を訪れた。
前回遊びに来たのは2ヵ月程前で、その時は凜生も一緒に連れて来たが、まめに店主の遠山と顔を合わせる習慣は仕事を辞めてからずっと続いてる。
遠山は今日も望生を膝に乗せようと頑張って煽てたが、結局望生は母の膝から離れず、真由は最後項垂れた遠山に喜んだ。
「何よ、真由ちゃんだって望生君に毎回拒否されるくせに」
「確かに私も望生は無理だけど、凜生ならいけるよ。遠山さんは凜生でも無理じゃん」
「凜生ちゃんは礼儀正しくて恥ずかしがり屋さんだから、年上すぎる私は遠慮されちゃうだけ。でも秋生ちゃん、何で今日は凜生ちゃん連れて来ないで、代りに真由ちゃん連れて来ちゃったの?」
「凜生はお父さんと陽大の3人で昆虫博物館に行ってるんです。私と真由と望生は昆虫に興味なくて、ここに来ました」
「へえ、凜生ちゃんは昆虫が好きなのかあ…………望生君、昆虫は嫌い? カブト虫とか蝶々」
「飛んでるチョウチョ好き」
「遠山さん、望生は優しいんだよ。生きてる昆虫じゃないと可哀想で、博物館じゃ見たくないんだ」
今日は姉と一緒に昆虫博物館へ行かなかった望生の気持ちを真由はちゃんとわかり、まだ言葉が足りない望生に代わって遠山に教える。
「そっか……優しい望生君は将来必ずお嫁さんを大切にできるわね。望生君、幼稚園で好きな子できた?」
「好きな子?」
「可愛くて大好きだなあと思う女の子」
「お母さん可愛い。お母さん大好き」
「ふふ、ありがとう望生」
「遠山さん、この通り望生は秋生とラブラブだから、もっと大きくなるまで好きな子なんてできないよ。もしかしたら大人になるまでかかるかもね」
「本当ねえ…………秋生ちゃんも私みたいに息子には苦労させられそうね」
「ん? 鬼ババ、俺が何だって?」
真由は母が大好きな望生を明るく懸念し、息子を3人育てた遠山は秋生に同情すると、遠山の次男で今は珈琲店で働く光が傍に近付いた。
「昔はあんたに散々苦労させられたって嘆いてたの。まあ今もだけどね」
「何言ってんだよ鬼ババ、秋生さんが辞めてから働き手が見つからないこの店で働いてやってる俺は、今じゃ大感謝ものじゃねえか」
「ていうか光、もう30歳過ぎたのに母親を鬼ババ呼びしてる時点で、感謝なんてされないよ。もういい加減にお母さんって呼んであげな」
遠山家の3人息子のうち次男の光は高校卒業後一度は就職したが、秋生が店を辞めた9年前から代りに働き始めた。
軽い性格のお陰で客受けが良いが、母親の遠山をいつまでも鬼ババと呼ぶのは子供時代から変わらず、真由もつい呆れてお節介を言う。
「真由さん、俺と鬼ババは一生こういう親子関係だから良好なんだよ。ね? 鬼ババ」
「私はあんたと良好になるより、早くお嫁さんと良好になりたいわ…………はあ、うちは3人も息子がいるのに、何でまだ1人も嫁がいないのかしら」
遠山は秋生が働いてた9年前まで中々彼女ができない長男によく悩んでいたが、今は中々結婚しない息子3人にまで悩みが拡大したらしい。
「光、彼女いるんでしょ? さっさと結婚してあげたら?」
「だめだよ真由さん、俺には兄貴がいるからね。年功序列」
「ちょっと光! そんなこと言ってたら、あんたも一生結婚できないわよ! お兄ちゃんは気にせず、さっさと結婚してちょうだい!」
遠山は長男の結婚をとうとう諦めたのか、彼女はいるのにのんびりしてるだけの光を必死に焦らせ始めた。
「あ、杉山さん、いらっしゃーい。今日も綺麗だね」
光はちょうど今老齢の女性客が訪れたお蔭で焦る母親をあっさりかわし、息子に逃げられた遠山は再び項垂れる。
「はあ…………私は一生このまま嫁には縁がないのかしら。きっと最初に大物の秋生ちゃんを逃がしちゃったせいね」
昔遠山は秋生を長男の嫁にしたがっていたが、結局長男が奥手すぎるあまり秋生は最初の結婚をしてしまった。
その後秋生はまた1人身となり内心さり気なく期待したが、結局柊永に取られてしまった。
今頃嘆く遠山の気持ちを当時もしっかりわかっていた秋生は、ただ望生を膝に乗せながら苦笑するしかない。
「結局男は積極性が一番ね…………望生君、優しいだけじゃだめよ。将来好きな子ができたらグイグイね、グイグイ」
「グイグイ?」
「そう、グイグイ。望生君のお父さんは超グイグイだったから、逃げたがりな秋生ちゃんでもちゃんとGETできたの…………ん? ていうことは男に興味ない真由ちゃんをGETできた陽大君も、見かけによらず相当グイグイね。真由ちゃん、陽大君からどれだけグイグイされたの?」
「陽大はグイグイじゃなくてチョロチョロだよ。いつも私の周りにチョロチョロ現れるんだ。私は長い間チョロチョロな陽大に散々参らされた」
「望生君のお父さんは超グイグイで秋生ちゃんGETして、陽大君はチョロチョロで無事真由ちゃんGETか…………あーあ、うちの長男はいつも男の巣窟の研修室でジメジメだから、一生GETならずね」
「遠山さーん、そろそろ明るくなりなって。ほら望生、店長さんを応援してあげな!」
「店長さーん、エイエイオー」
「望生君……ありがとう。じゃあついでに私のお膝おーいで」
「お母さん」
結局最後も望生にフラれた遠山はとうとう客席テーブルで突っ伏し、真由もとうとう慰めを諦めた。
「じゃあ遠山さん、また来るねー」
「光君、お邪魔しましたー」
「店長さん、光君、バイバーイ」
今日は散々落ち込んだ遠山も最後は息子の光と共に明るく手を振ってくれ、秋生達は夕方前に店から出る。
「凜生達、もう昆虫見終わってるかな」
「どうだろうね」
「お母さん、真由ちゃん、かーえろ」
「うん、帰ろ」
「秋生さん」
秋生と真由が望生の手を繋ぎながら帰り始めてすぐ、秋生は静かな声で呼び止められる。
望生の手を一度離した秋生が振り向いた背後に、9年ぶりに見る遠山の長男がいた。
長男の優は9年ぶりでも大人しい雰囲気は変わることなく、引き止めた秋生を見つめた。
「優さん、お久しぶりです」
「はい、お久しぶりです」
「さっきしばらくお店にお邪魔してたんですよ」
「はい」
「……あ、真由は覚えてますか? ずっと昔、一度会ったと思うんですけど」
「はい」
久しぶりの優と挨拶を交わした秋生が一緒にいる真由を教えても、優は昔一度だけ会った真由を覚えてると肯定しながら秋生を見つめ続けた。
秋生と優の間に初めて沈黙が生まれた。
昔はいつも秋生が笑顔を浮かべながら誤魔化した、優との沈黙だった。
「望生、真由ちゃんと一緒に店長さん家の庭を探検しようか」
「お母さんは?」
「お母さんはあとで望生を見つけにきてくれるって。秋生、私達行ってくるから」
優に一度も視線をもらえなかった真由は手を繋いだ望生と共に離れ、店の裏にある店主宅へ向かった。
秋生は店から少し離れた場所で、優と2人残された。
昔はいつも笑顔を浮かべながら誤魔化せた優との沈黙は、2人になっても続く。
秋生が今日初めて誤魔化せなかったのは、優と9年ぶりに再会した緊張からではない。
向かい合う優に初めて目をそらされなかったせいだ。
昔の優は時々秋生と顔を合わせる度、必ず目をそらした。
秋生はいつも赤い顔で俯く優と向かい合い、それでも笑顔を浮かべながら沈黙を誤魔化した。
それは秋生が店で働き始めた21歳から、秋生が店を辞めた30歳まで一度も変わらない、秋生と優のやりとりだった。
今39歳になった秋生は同じく39歳の優と昔のやりとりができず、初めてずっと見つめ合う。
「……いつも言うことを聞きませんでした」
「………………」
「今初めて抵抗したんです」
それは優の告白だった。
そして秋生にだけはわかった。
いつも言うことを聞かなかった優の目は、今初めて優の心が抵抗し、秋生を見つめ続ける。
優はいつも恋する秋生を見つめ続けられず、今初めて恋する秋生を見つめ続けた。
優の恋は18年かけて今ようやく動き、優の恋は告白と共に今ようやく終わる。
優は自ら秋生への恋をようやく終わらせる為、恋する秋生を初めて見つめ続けた。
初めて優に見つめられ続ける秋生は、優ほど恋に不器用な男を知らない。
けれど優の不器用すぎる恋は秋生の心に残った。
不器用すぎるからこそ秋生の心に一生残す、優の恋だった。
優の恋を心だけに受け取った秋生は、ようやく笑顔だけを浮かべた。
秋生の笑顔も初めて見つめ続けた優は、初めて秋生に同じ笑顔を浮かべてくれた。
「お母さん、みーつけた」
「あーあ、お母さんが望生を見つけようと思ったのに」
店主宅の庭を覗き込んだ秋生は望生にすぐ見つけられてしまう。
少しのあいだ望生と一緒に店主宅の庭で遊んでいた真由は、さっそく望生に抱きつかれた秋生に同じく近付く。
「優さんは?」
「さあ、仕事行ったのかな。昔も昼夜問わず研究してたから」
「そう…………長かったね」
「待たせてごめん。帰ろうか」
「秋生は男の気持ちをすぐ誤魔化すんだから…………優さん、やっと秋生にフラれたんだね」
真由の曖昧な言葉を誤魔化して帰ろうとした秋生が、真由のはっきりした言葉は誤魔化せなかった。
今日初めて優を誤魔化せなかった秋生は、真由にも誤魔化さないことにする。
「真由、私はフッたんじゃないの」
「え?」
「優さんの気持ちをやっと受け取っただけ」
優は今日初めて秋生に誤魔化させなかった。
昔いつも笑顔を浮かべながら誤魔化し続けた秋生は、今日初めて優から逃げられなかった。
秋生が優の恋を昔ずっと受け取らなかったから、優の恋は今日ようやく終わっただけだった。
けれど秋生の心には優への罪悪感ではなく、優から受け取った不器用すぎる恋がある。
優の不器用すぎる恋は秋生の心に優しさしか与えてくれなかった。
今真由に浮かべた秋生の優しい笑顔は、優が与えてくれた。
「お母さん、すぐるさんとお話ししたの?」
「うん」
「バイバイした?」
「ううん、忘れちゃった」
「お母さん、大丈夫だよ。今度すぐるさんに会ったら、こんにちはすればいいんだよ」
「そうだね。今度は望生も一緒にこんにちはしようね」
「うん」
「よし。じゃあ望生、帰ろう。きっとお姉ちゃんが待ってるぞ」
「お母さん、真由ちゃん、かーえろ」
再び母と真由に手を繋がれた望生は少しの間遊んだ店主宅の庭から離れ、家に帰り始めた。