母のおにぎり
「凜生、どうした」
「お父さん、何が?」
夕食中、母の作ったカレーを普通に食べていた凜生はなぜか父に心配され、逆に理由を尋ねた。
「いつもよりカレー食うスピードが遅いぞ」
「……そう? 私はいつもと同じだよ」
「凜生はカレー好きだから、いつもはもっと勢いよく食うだろ。食欲ねえのか?」
「ううん、いつもと同じ」
「じゃあお母さんのカレーじゃ物足りねえのか? 凜生は俺のカレーが好きだから」
「お父さん、そんなことないよ。私はお母さんのカレーも同じくらい好き」
凜生は確かに母の市販ルーだけで作ったカレーより父の隠し味入りカレーの方が好きだが、正直すぎる父に暴露されてしまい慌てて母をフォローする。
「お母さん、ぼくはお母さんのカレー好きだよ」
いつも父と母を平等に気遣う凜生と違って、母が大好きな望生は素直に母のカレーだから好きだと伝える。
結局そんな嘘を吐かない望生と違って父にも母にも嘘を吐いてしまった凜生は、これ以上母の作ったカレーを食べられなくなってしまった。
「お母さん、ごめんなさい。私やっぱり今日はお腹空いてないみたい」
「凜生、無理して食べないで」
「うん……ごちそうさまでした」
「……お姉ちゃん、元気ない」
凜生が母の作ったカレーを残し食卓からも離れると、元気ない姉の背中を見つめた望生もあまりお腹が空かなくなった。
「りーお、はい」
夕食後、望生が父と一緒に風呂に入り、凜生はリビングのテーブルで宿題をしていると、母がおにぎりを差し出した。
夕食の時お腹が空かないと嘘を吐いて母のカレーを残した凜生は、母の差し出したおにぎりを見つめることしかできない。
「お母さん、凜生がお腹空いてないんじゃないって知ってるよ。それに今日の凜生はいっぱい嘘吐いたことも知ってる」
「……お母さん、いっぱい嘘吐いてごめんなさい」
「ううん、お母さんは今日いっぱい嘘吐いた凜生が嬉しかったよ」
凜生は今日母にいっぱい嘘を吐いたことを気付かれていて謝ったのに、なぜか喜ばれた。
もうおにぎりを見つめられないほど驚くと、凜生と初めて目が合った母は本当に嬉しそうな顔をしていた。
「今日いっぱい嘘吐いた凜生はお母さんのためだから、お母さんは嬉しかった。でも凜生はお母さんにいっぱい嘘吐くと、今みたいに悲しくなってしまうんだよね?」
「……うん」
「でもね凜生、お母さんは凜生に嘘吐かれなくても平気なんだよ。ごめんね」
今日いっぱい嘘を吐いた凜生に喜んだ母が、本当は凜生の嘘は必要ないと謝った。
凜生は母の気持ちがよく理解できなくて、首を傾げてしまう。
「お母さんはね、ひどいこと言われても全然気にしないの。今日洸斉おじさんが教えてくれたけど、お母さんは凜生と同じくらい強いんだって。さっきもお母さんはお父さんにちょっとひどいこと言われたかもしれないけど、全然気にしなすぎて忘れちゃった………………あ、思い出した。お父さんは凜生がお母さんのカレーじゃなくてお父さんのカレーが好きだって言ってた。凜生、そんなことないよね? お母さんのカレーも好きでしょ?」
「……うん、好き」
「ありがとう。でももし凜生がお母さんのカレー好きじゃなくても、お母さんは全然気にしない。だってお母さんは凜生の本当の気持ちが一番好きだから」
母が悲しい凜生のために自分の気持ちを正直に教えてくれたので、ようやく凜生も正直になりたくなった。
「お母さん、私は今日剣道の時、お母さんがひどいこと言われたのを聞いてしまったの。だからお母さんにもう一緒に来ないでほしいって言ってしまったの」
「うん、お母さんは舞衣子ちゃんから教えてもらったよ。凜生はお母さんに一緒に来てほしいけど、お母さんが悲しくなるのはもっと嫌だったから嘘吐いたんだよね。ひどいこと言われたって全然気にしないお母さんは、凜生の嘘が嬉しかっただけ。凜生はお母さんを嬉しくさせてくれたんだから、おにぎり食べてほしいな」
母が凜生におにぎりを食べてほしいのはもう悲しまないでほしいからだと、凜生はちゃんとわかった。
「おにぎり食べる」
「よかった…………あ、でもね凜生、お母さん来週は一緒に行けなくなってしまったの」
「え?」
「今日洸斉おじさんに間違って言っちゃったの。来週は行きませんって」
「お母さん、間違っちゃったの?」
「うん、間違っちゃった」
とりあえず来週は道場へ通うことを控えると洸斉に言ってしまった秋生は、結局凜生には間違ったことにしてしまう。
凜生は間違った母に少しだけおかしくなり、再来週からまた一緒に道場へ通う母にようやく笑った。
母も笑い、凜生も笑いながら母のおにぎりを食べ始めた。
「秋生の悪口?」
「うん」
今夜は凜生と望生を一緒に寝かせた後、秋生はリビングのゲージに入れたリキが眠るのを待ちながら、隣に座る柊永と喋る。
「凜生はそれを気にして、カレー食えねえほど元気なくしたのか?」
「……凜生がカレー食べられなくなったのは、柊永のせいだと思うけど」
「俺のせい? 何でだ?」
「凜生は私のカレーより柊永のカレーが好きだって、柊永が正直に言っちゃったから。凜生は私のカレー食べるのも申し訳なくなっちゃったの」
柊永は夕食中、凜生がカレーを食べるのがいつもより少し遅かっただけで元気ないことに気付けたのに、凜生の繊細な気持ちは理解できないらしい。
しかも凜生にカレーを残させた張本人なのに、まったく気にすることなく呆れ顔まで浮かべる。
「秋生はいくら俺にひどいこと言われたって全然気にしねえぞ。何で凜生は秋生の代りに気にするんだ」
「凜生は私が柊永からひどいこと言われたって、私が悪口言われたって、全然気にしないって知らなかったの。今日剣道の時間に私の悪口を聞いてしまった凜生は私も悪口を聞かないように、もう一緒に来ないでほしいって私にお願いしたの。でもさっき凜生は私が悪口なんて全然気にしないってわかったから、おにぎり食べたほど元気になったよ」
秋生は簡潔に凜生が元気を失くした理由とすでに元気を取り戻したことを教え、柊永にも安心してもらう。
柊永は安心するどころか、隣の秋生をとても嬉しそうに見つめた。
「秋生、じゃあもう一緒に行かねえのか?」
「来週は休むけど、また行くよ」
「何で来週だけ休むんだ。もう行くな」
「無理だよ。凜生にも来週休んだら、また一緒に行くって言っちゃったもん。凜生もちゃんと喜んでくれた」
「何でそんな余計なこと言うんだ……」
柊永は結局凜生の気持ちより秋生が道場へ通うことの方がとにかく嫌で、秋生の意志が変わらないとわかると頭を抱えるほど落胆した。
そんな夫の姿に少し呆れてしまった秋生はリキが眠った姿を確認すると、さっさとリビングから立ち上がる。
「秋生、今日は積極的だな」
なぜか自ら寝室へ向かっただけで誤解された秋生は増々呆れるが、さっき落胆していたのに一変して喜ぶ柊永を背中にくっつけながらリビングの電気を消した。