母の悪口
「あ、今日も凜生ちゃんのお母さんとリキがいる」
「本当だ」
稽古が始まる数分前、道場に集まった子供達のうち小学校高学年の女子2人は、道場外から見学する凜生の母と犬のリキに気を取られる。
「こら、稽古を始めるぞ」
すぐに指導者の洸斉から注意を受けた女子2人はとりあえず反省しながらも、再びこっそりと凜生の母と犬のリキに視線を向けた。
「……ねえ、今日も帰る前リキに触らせてもらおうよ」
「うん、リキ可愛いよね」
「私もリキみたいな大きい犬欲しい」
「私もレトリーバー飼いたいけど、うちのお母さんにだめって言われた」
「うちのお母さんは小さい犬じゃなきゃ嫌だって。お世話大変だから」
「……ていうかさ、凜生ちゃんのお母さんが暇なんじゃない? いつも水曜日リキと一緒に来て、ずっと外で凜生ちゃんと凜生ちゃんの弟見てるんだよ。子供命って感じ」
「でも凜生ちゃんのお母さん、先生と仲いいみたいだよね。いつも帰る前喋ってる」
「親戚だから仲いいんだよ。先生は凜生ちゃんの大叔父さんだから」
「ふーん、だから凜生ちゃんと先生って似てるんだ」
「凜生ちゃんは先生よりお父さんそっくりなんだよ。私凜生ちゃんのお父さん見たことあるけど、すごくカッコよかった。ちょっと怖そうだったけど」
「そうなんだ…………でも凜生ちゃんの弟はお母さんそっくりだよね」
「凜生ちゃんと弟、反対だったらよかったのにね」
「だめだよ。凜生ちゃんがお母さんそっくりだったら、男子ガッカリしちゃうじゃん。凜生ちゃんのお母さん、あんまり可愛くないもん」
「こら、そこの2人、集中しなさい」
「「すみません」」
稽古が始まってからもこっそり喋っていた女子2人は再び洸斉の注意を受け、ようやく本当に反省する。
友達の舞衣子と共に偶然女子2人の背後にいた凜生は、年上の女子2人が喋っていた話をすべて聞いていた。
「凜生、どうしたの?」
今日もリキと共に道場外から子供達の稽古を見学した秋生はいつもより覇気のない凜生を気にしていたが、稽古が終わり傍に来た凜生は明らかに元気がなかった。
秋生が心配しても凜生は首を振るが、俯きながら口を開いた。
「……お母さん、これからは一緒に来ないで」
「え? 何で?」
「お家で休んでてほしいの。ここでずっと待ってると寒いし疲れるから。お母さん、お願い」
凜生は水曜日必ず一緒に剣道場へ通う母にこれからはそうしないでほしいと断ると、着替えをするため母から離れた。
「お母さん、見てた?」
「うん、今日も頑張ったね。望生カッコよかった」
秋生は凜生を気にしながらも、後から傍に来た望生をいつものように褒める。
「望生、着替えておいで」
「うん」
望生も着替えさせるため傍から離すと、今度は舞衣子が秋生の傍に近付いた。
「舞衣子ちゃん、どうしたの?」
さっきの凜生と同じく元気がない舞衣子も心配すると、舞衣子は躊躇いがちに口を開いた。
「……おばさん、凜生ちゃんが悲しくなりました」
「舞衣子ちゃん、凜生に何かあったの?」
「凜生ちゃん、稽古が始まる前、おばさんの悪口聞いちゃったんです…………凜生ちゃんはおばさんがすごくかわいそうで、悲しくなりました」
舞衣子が凜生の悲しい気持ちを同じく悲しい顔で教えてくれ、秋生はさっき道場へ一緒に通うことを断った凜生の気持ちも理解した。
「舞衣子ちゃん、凜生のこと教えてくれてありがとうね。着替えておいで」
「……はい」
か細く返事した舞衣子も着替えをしに傍から離れると、秋生はこの時間一緒に喋る義叔父の洸斉を自然と探した。
「義叔父さん」
「秋生ちゃん、凜生に何か言われたかい?」
秋生の探した洸斉が今日も目の前に近付き、やはり稽古中様子がおかしかった凜生のことを最初に尋ねられた。
「凜生は私が寒くて疲れるから、もう一緒に来なくていいと言いました。舞衣子ちゃんは凜生の気持ちを教えてくれました」
「凜生の気持ちは?」
「悲しいそうです。私は凜生が元気ないことにしか気付けませんでした…………しかも凜生を悲しくさせたのは私でした」
「秋生ちゃん?」
「私が水曜日いつも一緒に来るから、凜生は私のことを少しだけ気にされてしまったんです」
「……うーん、つまり凜生は周りの子から秋生ちゃんの陰口を聞いてしまったのか。凜生は秋生ちゃんの耳には絶対入らないよう、一緒に来るのを断った」
秋生が曖昧に説明した凜生の悲しい気持ちを洸斉は的確に当て、説明し直した。
「秋生ちゃんは困ったな。変わらずここに来たいけれど、凜生の悲しい気持ちも無視したくない」
「義叔父さん、私はとりあえず来週ここに来るのを休んで、また来たいと思います。凜生にもそれまでには私が一緒に来たい気持ちをわかってもらいます」
「それがいい。凜生は周りの陰口に負ける子じゃないし、秋生ちゃんも負けないと本当はわかってる。秋生ちゃんはただ陰口など信じないと、凜生を明るく励ませばいいんだ」
「はい」
来週だけ道場に通わない意志を伝えた秋生は、洸斉にも凜生の励まし方を教えられた。
「秋生ちゃん、それでも私は謝らなければいけない」
「……義叔父さんが私にですか?」
「私は秋生ちゃんを焦らせすぎてしまった。私が失敗したせいで、秋生ちゃんは前よりもっと家に縛られている。先週ふた月ぶりに会った私の甥は、正直言って見られたものじゃなかった」
秋生は洸斉に謝られなければいけない理由を溜息交じりで教えられ、先週洸斉と2ヵ月ぶりに会った柊永を思い出す。
毎週土曜日、凜生と望生は剣道場へ行く前に祖父母の家で昼食を食べるが、先週の土曜日は秋生と柊永も一緒だった。
その日の昼食は洸斉も呼ばれ、普段会う機会の少ない柊永と洸斉は2カ月ぶりに顔を合わせたのだが、柊永は洸斉に対して敵意を剥き出しにした。
もちろん柊永の叔父に対する失礼な態度は秋生が洸斉を慕ってるから発生したのだが、秋生もさすがにあの時の柊永には参らされた。
洸斉に敵意を向けた柊永は秋生と洸斉を挨拶以外は一言も喋らせない為に、秋生を完全に我が物とした。
普段秋生を我が物としてる望生にも負けないほどだったのだから、はっきり言えば大の大人が見苦しい姿を晒してるようなものだ。
柊永は両親と兄夫婦がいる前でも秋生の手を絶対離さず、嫌がる秋生にも自ら昼食を食べさせようと世話を焼く。
秋生の視線までも洸斉に向けられないように、柊永の目は隣の秋生を監視する有様だ。
柊永の両親宅で過ごした2時間、秋生は柊永にすっかり辟易し、凜生と望生は母を我が物にするだけでなく監視する父にポカンとし、柊永の両親と兄夫婦からは苦笑交じりで見守られ、そして柊永から敵意を向けられた洸斉には見るに堪えない思いをさせてしまった。
先週の柊永を思い出し終えた秋生は今向かい合う洸斉に対し、改めて申し訳ない思いが込み上げる。
「義叔父さん、謝るのは私です。私は義叔父さんのお蔭で負い目を捨てられたことに嬉しいだけですけど、柊永に義叔父さんまで警戒させてしまったのは私です。負い目を捨てる決意をしたのは義叔父さんのお蔭だって、正直に言ってしまったから」
「結局秋生ちゃんが負い目を捨てて一番喜んだのは柊永だ。秋生ちゃんに負い目を捨てさせた私は、柊永から感謝されてもおかしくない。今の正直すぎる柊永はただ私が大嫌いなだけだよ。私はこうして毎週秋生ちゃんと喋ってしまうから」
「……いえ、私が義叔父さんを勝手に特別に思ってしまったせいです。義叔父さんが柊永から嫌がられてしまったのは私のせいなので、私に義叔父さんを大切にさせてください」
洸斉が甥の柊永に嫌われた根本的な原因は洸斉を慕う秋生の心なので、秋生は柊永の代りに義叔父を大切にしたい思いを伝える。
洸斉は先週の柊永以上に、自分をまっすぐ見つめる秋生に度肝を抜かれるほど驚かされる。
「……凜生は完全に柊永似かと勘違いしていた。凜生の目は秋生ちゃんの目そっくりだ」
「え?……そうですか? 初めて言われました」
「いつも家族を大切にしようとする凜生の目は強いが、優しさも秘められてる。今私を大切にしようとする秋生ちゃんの目は優しいが、やはり強さが隠されていた。秋生ちゃんは誰かを大切にしたい時、ただ優しいだけじゃなく強さを見せる…………柊永は優しくて強い秋生ちゃんに大切にされたくて、とても惹かれてしまったのかもしれないな」
洸斉は甥の柊永が高校時代から恋人の秋生しか眼中になくなった姿に、当時は散々呆れさせられた。
しかしこの優しくて強い秋生から決して目を離せないほど惹かれてしまった柊永を、今なら理解できる。
そして柊永がこの優しくて強い秋生に惹かれただけ失うことに脅えてしまったから、柊永は過去に秋生を本当に失ったせいで壮絶に成り果て、洸斉も悲しませた。
そんな柊永の壮絶な心も今ようやく理解した洸斉は、自分をまっすぐ見つめる秋生から目をそらす。
「秋生ちゃんから大切にされる男は、みんな柊永と同じになってしまう。妻子持ちの私は遠慮しておこう」
最後は冗談ぶって秋生の気持ちを遠慮した洸斉は少しばかり本気で逃げる為、秋生の傍から離れた。