母の笑顔
「えー!? 真由ちゃん、猫飼ったの?」
「真由ちゃん、本当に猫派だったんだ」
日曜日の午後、リキも含めた家族皆で叔父夫婦宅へ遊びに行った凜生と望生は、真由の膝にいる猫に目を丸くして驚く。
「いや、違うよ凜生望生。私は確かに猫派だったけど、今はリキが一番可愛い」
「真由ちゃんの嘘つき! じゃあその猫は何!?」
「望生、真由ちゃんを責めちゃだめだよ…………でも真由ちゃんが嘘つきなのは本当だよね」
望生は犬のリキが一番と言いながら猫を膝で可愛がる真由を怒り始め、そんな望生を宥めた凜生もさすがに真由をチクリと攻撃する。
「凜生、望生、仕方ないじゃん。この猫はうちに迷ってきたんだよ。ほら、よく見てよ。あんまり可愛くないでしょ?」
凜生と望生に嫌われまいと焦りながら事情を説明した真由の言う通り、確かに彼女の膝にいる猫は明らかに野良猫のような風貌で、ペチャンコ顔だった。
「でも谷口、ブサイクな猫の方が愛着持てるよな。だからここに迷ってきた時もつい放っとけなかったんだろ?」
「……ぐ」
「柊君すごいね、俺より先に真由ちゃんの本音に気付くなんて」
柊永に本音を見抜かれた真由が声を詰まらせ、突然変な猫を飼い始めた真由を不思議がるだけだった陽大は柊永に感心しながら納得する。
「あ、でもリキ連れて来ちゃったけど大丈夫かな……」
「だめだよお母さん! 犬と猫は仲悪いんだよ」
「望生、心配すんな。リキはブサイク猫が好きみたいだぞ」
「本当だ! ペロペロしてる!」
リキと猫の接近を警戒した望生は、リキが真由の膝にいる猫を尻尾振りなめ始めた姿に無事驚く。
「ねえ真由ちゃん、この子の名前は?」
「んー、まだ決めてないんだよね」
「ブサ子でいいんじゃねえか?」
「木野君、さっきからブサブサうるさいよ。ねえ、秋生が考えてよ」
「私?」
「あんた、名前考えるの得意じゃん。陽大だってあんたが名付けたし、名付けセンス皆無な木野君に代わって、凜生と望生の名前も考えたし」
「うーん……」
真由から頼まれた秋生はとりあえず猫を間近でじっくり眺め始める。
「……あれ? 何かこの猫、私にちょっと似てる?」
「え?」
「あ! 本当だ。お母さんにちょっと似てる」
「お母さんにちょっとそっくり!」
秋生はペチャンコ顔の猫が何となく自分のペチャ顔に似てることに気付き、子供達からも認められた。
「そっか。確かにこの猫は秋生にちょっと似てるから、私は放っとけなかったんだ…………でも木野君はさっきこの猫のこと、3回もブサイクって言ったよね?」
「あ! お父さんひどい! お母さんのことブサイクって言った!」
「お父さん、ひどい……お母さんがかわいそう」
ついさっき猫をブサイク扱いしたお蔭で真由にニヤリと反撃を食らった柊永は、子供達からも攻撃される。
「柊君、とりあえず秋ちゃんに謝った方がいいんじゃない?」
「おい、ふざけんな陽大。俺が謝ったら秋生もブサイクになっちまうじゃねえか。秋生は世界一可愛いぞ」
「もうやめてよ柊永、そういうこと言わないで」
陽大からとりあえずの謝罪を勧められた柊永が怒ると、逆に秋生から怒られた。
「秋生は貶されるより褒められる方が嫌だからね。木野君はどっちにしろ救われない」
「ねえ真由、そんなことよりこの子、メスだよね?」
「うん」
「猫の女の子……真由の猫……私にちょっと似てる猫…………あ、マオちゃんなんてどう?」
「秋生すげえ、5秒で猫を名付けた」
「「マオちゃーん」」
秋生が5秒で考えた猫の名前をさっそく呼んだ凜生と望生は、ニャアと答えられる。
「すごい、私はマオだって鳴いた」
「リキは振り向いたけど、マオちゃんは鳴いたね」
「じゃあこの子はマオで決まりだね。よろしくマオ」
最後に飼い主の真由が挨拶すると、猫のマオはまたニャアと答えた。
「陽大君、サッカーやる?」
「凜生、今日は勘弁。俺腰痛い」
「え? 何で?」
「凜生、陽大君は仕事でちょっと家具運び手伝っただけで、ギクッてしちゃったんだって。情けない陽大君の代りに、今日は真由ちゃんが相手になるよ」
「本当?」
「ぼくもやる」
「じゃあ俺もやるか。凜生望生、庭行くぞ」
凜生はいつも真由と陽大の家に来れば陽大とサッカーをやるが、今日は腰を痛めた陽大の代りに真由と弟、そして父の4人でサッカーをすることになった。
4人が庭へ去ると、リビングにはすっかり仲良くなった犬のリキと猫のマオ、そして秋生と陽大が残った。
「……なんか今日、皆ちょっとおかしいね」
「そう?」
「凜生はまあ普通だけど、望生は初めて秋ちゃんと離れたし、真由ちゃんは初めてサッカーやりたがって、柊君は初めて真由ちゃんとサッカーしてる。そして皆ちょっとおかしいのに、気付かない秋ちゃんは一番おかしい」
陽大に一番訝しがられた秋生は、凜生以外ちょっとおかしい皆がサッカーする庭に振り向く。
「望生は剣道始めてから私と離れられるくらい、ちょっと強くなった。真由は腰が痛い陽大をちょっと労わるため、初めてサッカーしたくなった。柊永は初めて真由とサッカーするくらい、ちょっと機嫌が良いだけ」
「……さすが秋ちゃん、やっぱりちゃんとわかってたんだ」
今日は凜生以外ちょっとおかしい理由を教えられた陽大は納得するよりも、やはり鋭かった姉に感心させられる。
「でも俺だって柊君が機嫌いいことくらい、真由ちゃんとサッカーする前から気付いてたよ」
「陽大は昔から大好きな柊君には敏感だったからね」
「まあね。それに今日の柊君は機嫌いいだけじゃなく、初めて落ち着いてる」
「……初めて?」
「柊君が落ち着いてるなんて見た目だけだよ。心の中はいつも慌ただしい。心配したり不安になったり怖がったり。単純に機嫌が良くなったり落ち着いたり喜んだりできない」
柊永の心はいつも負の感情が中心で、純粋に明るい感情だけで埋まることはないと、陽大は姉に教えた。
今日機嫌が良く落ち着いてるだけの柊永は陽大にとって初めて出会う柊永で、おそらく姉にとてつもなく喜ばされた後なのだろう。
「秋ちゃん、柊君に何か言ったの?」
「別に何も」
「とぼけた。秋ちゃんが何か言わなきゃ、柊君はあんなに変わらないよ。秋ちゃん、初めて柊君に愛してるって告白したとか?」
「さあ」
「やっぱり秋ちゃんは誤魔化すのか…………じゃあ俺が代わりに告白する」
「何を?」
一度庭でサッカーする柊永を気にした陽大は姉に告白するため、深呼吸までする。
秋生は明らかに緊張した陽大にやや戸惑いながら、とりあえずその告白を待った。
「俺はずっと黙ってようと思った。あの人からもずっと黙ってることをお願いされた。でも俺はもう26歳の弟だから、秋ちゃんにちゃんと告白したくなった…………あの人には申し訳ないけど」
「……陽大」
「秋ちゃんは鋭いから、俺が言うあの人にもう気付いた」
「陽大、何で?」
「秋ちゃんは俺が今更あの人に会ったこともあっさり気付いたから、俺を責めてる。でも俺はもうとっくに会いに行っちゃったから、あとは正直に告白するだけだよ。俺がひと月半前、戸倉さんに会いに行ったのは、秋ちゃんが戸倉さんを残す理由を知るため」
陽大が元義兄の壮輔に会いに行ったことまですぐ察した秋生は、陽大が壮輔に会いに行った理由を教えられなければ何も知らないままだった。
陽大は姉の心に残る壮輔にちゃんと気付いていた。
そしてひと月半前、壮輔からその理由を知ろうと思い立ったのは、ひと月半前に秋生と柊永がそのせいで仲違いしていたからに違いない。
表面には見えなかった姉夫婦の仲違いは、それでも陽大を壮輔に会いに行かせた。
秋生が壮輔と結婚していた3年間、当時の陽大は表面上は良好な関係だった壮輔を決して義兄と認めず、最後まで頑なに心を許さなかった。
陽大はそんな義兄を頼りにするほど、姉の心に残る壮輔が不可解だったに違いない。
陽大の気持ちを一番理解できる秋生は、陽大の告白にそのまま黙り始めた。
「戸倉さんは秋ちゃんの問題だから、俺に言うのを渋ったよ。でもどうしても教えてくださいってお願いしたら、諦めてくれた」
秋生は結局、陽大の告白を甘く見ていた。
壮輔が会いに来た陽大に問われても、秋生の心に壮輔が残る理由を答えることはないと最初から疑っていなかった。
まさか壮輔が陽大を相手に告白することだけは有り得ないと。
けれど陽大は今、壮輔は諦めたとあっさり言ってしまった。
秋生がそれでも黙り続けたのはわざとではなく、陽大が怖くて言葉一つ掛けることができなかったからだ。
とうとう秋生と壮輔の繋がりを知ってしまった陽大が怖ろしかった。
「お金」
「…………」
「秋ちゃんはお金に困って、戸倉さんに助けてもらった。そのお蔭で戸倉さんは秋ちゃんと付き合って、結婚することもできた。でも結局秋ちゃんと戸倉さんはそれだけだったから、別れてしまった。戸倉さんに最後までお金を返させてもらえなかった秋ちゃんは、戸倉さんを残した…………秋ちゃん、戸倉さんが俺に教えてくれた理由は正しい?」
壮輔は誤魔化してくれた。
結局嘘を吐き、陽大を今さら傷つけないでくれた。
秋生が壮輔を残すのは昔陽大を助けた壮輔だからに違いないのに、壮輔も一生陽大に教えないため嘘を吐く選択をした。
そして壮輔の選択は秋生の為に違いなかった。
「……うん」
秋生は壮輔の思いに報いるため、陽大にどうにか肯定した。
「秋ちゃん……どうして泣くの?」
「ごめんね陽大、今だけ許して」
陽大の前でも今だけは涙を堪えられなかった秋生は、せめて顔を覆いながら謝る。
「……戸倉さんが可哀想だから泣くの?」
ただ顔を覆う秋生は弟の問いに答えなかった。
弟の問いに訂正してはいけなかった。
今の秋生は壮輔にただ喜びの涙を零した。
姉の涙は初めて陽大の心に疑問を残した。
姉は陽大の前で涙を零した後、何事もなかったように元夫を忘れた。
陽大と他愛無い話をしながら笑い、犬のリキと猫のマオを笑って可愛がり始めた。
庭でサッカーしていた4人がリビングに戻ると、姉は真由や子供達と一緒におやつのホットケーキを焼き始めた。
皆で食べ始め、さっそく望生がホットケーキを床に落としてしまうと、姉は相変わらずもったいないと言い平気で口に入れ始めた。
皆がそんな姉に笑い、姉はキョトンとしたあと一緒に笑った。
凜生が猫のマオと写真を撮りたいと言い出し、姉のスマホで写真撮影会を始めた。
リキとマオ、望生とマオ、真由とマオ、母とマオを撮り終えた凜生は、ようやく自分もマオと一緒に写真を撮ってもらった。
猫のマオをいっぱい撮り終えた凜生が、最後になぜか父と母を撮り始めた。
母はめずらしく照れることなく、父に寄り添って笑った。
写真を撮る凜生は父の隣で笑う母に少し驚いた。
父の隣で笑う母はとても幸せそうだった。
母の笑顔は美しく神々しかった。
陽大は涙を零した後に笑った姉を見つめ続け、姉家族が帰った後すぐに出掛け始めた。
車をひたすら走らせる陽大は涙を零した姉に疑問を抱き、その後、笑い続けた姉に確信した。
さっき姉が零した涙は、愛せずに別れた壮輔を悲しんだわけじゃなかった。
壮輔への同情ではなく別の涙だったから、姉は涙を零したあと笑えた。
さっきの姉は壮輔に嬉し涙を零した。
壮輔が姉に同情されるのではなく喜ばせられたのは、なぜなのか。
もしかしたら陽大が壮輔から告白された、姉が壮輔を残す理由に原因があったのではないか。
もしかしたら壮輔が陽大にした告白は偽りだったのではないか。
姉は陽大に偽った壮輔に対し、嬉し涙を零したのではないか。
姉の涙ひとつで姉の心情をほぼ見抜いた陽大は、今日に限って冴え渡っていた。
陽大の心がなぜか胸騒ぎを感じ、陽大を冴え渡らせたのかもしれない。
急げと、急いで元義兄に再び会って確かめろと。
以前の壮輔が陽大に偽りの告白をしたのかどうか確かめる為、陽大は壮輔のマンションに向かって車を走らせた。