弟と一緒に
今までもこれから先も、関わり合うことなど想像もしなかった彼と再会したのは、中学を卒業して二カ月以上経過した春のことだった。
表面の塗装がまばらに剥げた滑り台と、ギシギシと音が鳴り響くブランコしかない寂びれた公園は、まだ小さい弟を遊ばせられる数少ない場所だった。
弟が蹴り偶然足元に転がってきたサッカーボールを、ゆっくりと拾い上げたのは彼だった。
関わるはずがなかった。
もう接点がない春、すれ違うことさえなかったはずだった。
けれど確かに、ただの偶然であっても、間違いなく彼はそこにいた。
「あきちゃん!」
園庭に入ったばかりの姉を目聡く見つけた陽大は、大声で呼びながら駆け走る。
秋生は慌てて手を広げ、勢いよく飛びついた弟をしっかり受け止めた。
「遅くなってごめんね」
腹に抱きつく弟と目線を合わせる為にしゃがむと、陽大も満面の笑顔で姉の顔を見つめた。
ついさっきまで愛想笑いで客に対応していた秋生もこの弟には嘘が吐けず、笑顔も自然と溢れる。
おそらく、ついさっきまで砂場で遊んでいたのだろう。弟の顔にこびりついた泥汚れをついでに拭い取った。
そんな陽大の後を追って傍に近付く保育士に気付き、秋生は急いで立ち上がった。
「こんにちは先生、今日もお世話になりました」
「はい、こんにちは。陽大君、もう帰りの準備を済ませて、お姉ちゃんを待ってましたよ」
ニコニコと笑う保育士の言葉通り、陽大はすでに帽子を被りリュックサックを背負っている。
すっかり帰る準備万端な弟の姿に改めて気付いた秋生は、保育士と共に笑いを零した。
そのまま保育士と元気に帰りの挨拶を済ませた陽大は、秋生と共に保育園を離れる。
さっそく歩道を走り出そうとする陽大を慌てて引き止めた秋生は、今日も陽大の手をしっかり握りしめ直した。
弟の陽大は今年の夏を迎えれば3歳になる。
母は陽大を産んで間もなくすると、今も通う保育園に陽大を預けた。
秋生が生まれつき丈夫なように、陽大の身体も幸い健康で強い。
食は細いが滅多に病気をせず、流行のウイルスが園の中で広まっても1人だけケロリとしていたりする。
最近仕事を持ち始めた秋生は、毎日元気に保育園へ通ってくれる陽大を以前より尚更有難く思う。
そして自分たち姉弟を丈夫に産んでくれた母にも感謝しなければいけなかった。
保育園から自宅までの帰り道は、今日あった出来事を楽しそうに教えてくれる陽大に相槌を打ちながら歩く。
徒歩30分の距離はまだ3歳前の陽大の足では決して短くないが、外が大好きな陽大は途中で根を上げることが少ない。
「きょう、スーパーいく?」
スーパーでの買い物は陽大を迎えに行ったついでに済ませるので、今日も陽大は隣を歩く姉を期待の目で見上げる。
毎日スーパーに寄るわけではなく、3日に一度程度必要な食材だけ購入するのが定番の秋生は、陽大の期待に今日は渋い顔を浮かべた。
「今日はお菓子買わない日だよ。お野菜だけ」
まだ小さい陽大にはお菓子は週に1度、1個だけと決めているので、スーパーに寄ってもお菓子を買い与えない今日は前もってしっかり言い聞かせる。
前もって言い聞かせるのは、当然スーパー内で今日もお菓子を欲しがり駄々をこねる弟に苦労させられたくないからだ。
「おかし、いらないもん。こーえんいくの」
陽大は姉にお菓子購入を断られても、スーパーへ行きたい目的はお菓子ではなく公園だとしっかり教える。
今度は勝手に公園の話を始めた陽大のはりきった様子に、秋生は思わず顔を顰めた。
姉弟がいつも立ち寄るスーパーは保育園の帰り道にあるが、スーパーの隣には公園と呼ぶには名ばかりとも言える小さな遊び場があって、買い物前にそこへ立ち寄るのは陽大の楽しみだ。
保育園でもお昼寝以外は1日中散々遊び、それでも足りないのか帰りはいつも遊具のある場所へ行きたがる。
これからスーパーに寄りすぐにでも夕食の準備を始めたい秋生は、なるべく早く帰宅したいのが本音であって、この時ばかりは弟の楽しみを毎回億劫に感じるしかない。
仕方なく諦めの息を吐くのも毎度のことだ。
20分だけと時間を制限し、少し強めに言い聞かせる。
陽大は姉に楽しみを許された途端、しっかり繋がれたはずの姉の手を振り切る。
秋生は楽しい公園に向かって一目散に走り出そうとする弟を再び慌てて捕まえ、無理やり身体で抑え込んだ。
子供は皆元気なものだが、特に男の子がこれほどやんちゃでじっとしていられないものだなんて、秋生は弟に苦労させられるまで知る由もなかった。
1才前で歩き出し、あっという間に走ることを覚えてしまった陽大は、気が付けば秋生の傍から離れあちこちと何処かへ飛んで行ってしまう。
どんなに言い聞かせてもすぐに忘れてしまうのか、突然興味の対象を見つけては突っ走る。
これまで秋生はそんな陽大の後を必死に追いかけ、無謀な行動を繰り返す弟を抑えるのに振り回されてきた。
スーパーの隣にある小さい公園前まで辿り着き、無理やり握り締めていた陽大の手を離す。
ようやく姉から解放された陽大は今日も元気に公園の中へ駆け走った。
まだ3才前の背丈では高すぎるブランコにどうにかよじ登って座り、さっそく押してくれとせがまれた秋生は弟の背中を繰り返し押してあげる。
今度は隣に乗ってほしいとせがまれたので、弟の背中から離れた秋生も隣のブランコを漕ぎ始めた。
姉に背中を押されなくなった陽大は、まだ自分では漕ぐことができないブランコに早々飽きてしまう。
今度はブランコの傍に落ちていた木の棒で地面に落書きし始めると、秋生もゆっくり漕いでいたブランコを止めた。
すぐ目の前で遊ぶ弟の背中をぼんやりと見つめる。
そんな秋生の姿は、周りの目には年の離れた弟の面倒を見る姉にしか映らないかもしれない。
秋生の瞳の奥には若さ溢れる15歳の少女に似つかわしくない疲労を滲ませているなど、秋生自身が訴えない限り誰も気付くはずがない。
時に厳しい表情を見せるがいつも弟に笑ってる秋生が、弟に背中を向けられた時だけ隙を見せてしまうことも、秋生は自覚していなかった。
「あきちゃん、ボールあったー!」
ブランコに座る秋生がぼんやりしてるうちに落書き遊びをやめた陽大は、公園の隅で薄汚れたサッカーボールを発見する。
おそらく近所に住む小学生が忘れたのだろう、初めてサッカーボールを手にした陽大は再び姉の傍へ急ぐと、すでに期待の目で姉を見上げた。
「じゃあ、少しだけ貸してもらおうか」
秋生は弟の期待を無視できず、若干の迷いを捨てる。
忘れ物のサッカーボールで少し遊ばせてもらう為、ブランコから立ち上がった。
「陽大、あきちゃんに向かってボール蹴ってごらん」
陽大から少し離れた秋生が指示すると、陽大は地面に置いたサッカーボールを初めて蹴った。
まだ不器用な弟の右足にどうにかぶつかったボールは、残念にも向かいの秋生ではなく斜め横へ転がっていく。
姉弟から離れたボールは生憎にも公園の入口から外にまで転がってしまった。
慌ててボールを追いかけようとする弟を止めた秋生は、公園の外に向かってゆっくり走り始めた。