今から蝶を吐きます
いつもご清聴ありがとうございます。
とっておきのモノを飲み込む機会がありましたので、今からわたくしはそれを吐きます。
これはわたくしの、魂ではありませんので、今日に限ってはガヤガヤと声を立てて頂いて構いません。
愛と、良心と、親しみをお持ちいただいて、さぁどうぞ、ご覧くださいませ。
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素人が舞台で踊るには、素人同士集まってお金をかき集め、会場を借り、師匠にお祝儀、プロのビデオ撮影屋を呼んで、衣装だメイクだなんだと万札がたくさん飛んで行くのですよ。お花も欠かせませんね。僕の住む尾張の人間はですね、祝花を用が済んだ瞬間にもぎ取って持って帰るのが大好きなもんですから、日持ち良いのを用意せねばならんのです。はい。こんな風にですね、舞台に上がるのは大変な事ですが、いざ無事に幕が開けばライトを浴びて皆、楽しそうにしております。お扇子をさざ波の様に優雅に振るとですね、仕込んでおいた金銀の粉が舞うのですよ。背景も大抵煌びやかな錦なんですがね、ヤァ、大変幻想的で美しいのですよ。親族やご近所様だけの観客席で、パラパラ音がしますが、これが雑音で、ですね、僕ァ、いっそ殺してやって欲しくなりますが、わかりませんね、役者は嬉しい様子なんです、ですからね、僕は何も言わないです。輝きと言えば、ライトの光で、ですね、チリが良く見えます。チリはたまに、役者になり切った女形の鼻や口に吸い込まれて行きまして、二度と返って来ませんです。でも僕はですね、それが羨ましいです。……アー、舞台の上で、光を浴びながらシナを造る役者は、あれは、男なのですよ。アレが付いておるのです。産毛を綺麗に剃ってですね、白く塗ったうなじを揺らして、憑りつかれた様にピッと息を潜めた後、首をズー、カクン、と動かすと、頭の簪がキラキラ光るんですがね、色っぽいんですよ。別人の様だぁと僕は見惚れます。どうしてそんな事をしたがるのか、僕にはわかりませんよ。はい。しかしですね、皆、恍惚と女になるのですよ。気持ちがわかりますか。わかりませんよ、僕には。
ただですね、わかりませんけどもね、僕は舞台で何者かになろうとしているアナタも、好きなんです。はい。
今日も眩しゅううございますね。僕はどんなアナタにも、目が眩みそうです。
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僕達の間で別れ話がなされたのは、昭和が中頃に差し掛かった頃でしたでしょうかね。
乱れて遊んだ後の事だったです。その時のアナタは乱暴で、僕は泣きました。泣きながら、いつもの様に、放さないでくンさいって、心で叫んで、願って、祈って、奈落に堕ちていました。そこは心を串刺しにして炙る、天国でした、はい。
アナタは三味線をつま弾きながら、僕に背中を見せて、言いました。
その時、アナタは、うなじから声を出しました。僕はそこから聴きました。アナタの、ライトが当たると、照って艶めくうなじから。
「ケンちゃん、アタシャ、結婚する事にしました」
「え、なんて? 今、なんておっしゃいましたか」
ペン、と何かが間違って、弦が鳴ったです。
僕は悲しくその音を聞いたです。
「お父ちゃんとお母ちゃんが、心配するので……心配するので、アタシャ、結婚せな、いかんくなったのです」
僕は随分取り乱して、アナタの背中に縋りました。
アナタは着物が皺になるのを嫌っていたから、僕はいつも気を付けていたですが、その時はアナタも僕も、そんな事気にもしなかったです。
「そんな、結婚なんて。誰とですか? イヤです―――。イヤです。誰がアナタのモノになるのですか。イヤです―――」
「きいて下さいな。アンタさんを、他の人へやったりしないからね」
アナタは太くそう言って、こちらを見もせずに三味線を畳の上に置きました。
その時、猫がどっかで鳴いたですよ。三味線の皮からだったかもしれませんです。
「アタシとアンタさんは、こうだからね、何も心配ないよ。誰が疑うだろう。誰がアタシらを、疑うと言うの? 言ってごらん。ホラ、お言い」
「お願いします、お願い、酷い事を言わないでくンさい。好きです、好きです、好きです」
「ごめんね、ごめんね」
どうしようもなくなって、どうしようもなくなった僕に、アナタはようやくこちらを向いて、そう言いました。今度は、唇から声を出していました。
僕は、雛みたいな声で、「イヤです」と、涙を零していた様な気がしますです。
「好きです、好きです、好きです」
アナタが僕に向けて言ってくれました。
「ホラ、アンタさんも言うんだよ」
好きです、好きです、好きです。
声は重なりませんでした。
大丈夫ですか? 本当に、本当に大丈夫でしょうか。僕は、涙しか出なかったです。
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アナタにお嫁さんが来たですよ。物言いのキツい、豪胆な方でした。僕をよく、ジロリと見ては、女の勘の出す答えを訝しんでいる様子でした。お嫁さんは男勝りなところが多かったですので、勘に頼り切らないところに僕は救われていました。良かったです。はい。
お子様もお生まれになりましたです。
アナタのお父様とお母様は、酷く喜んで、早く死んでしまいました。アナタのお勤めが終わったのだと、僕は喜びましたが、それは僕だけの秘密じゃなけりゃいけないって、分かっているので、うっかりお祝いを言いそうになるのを塞ぐ為、唇を強請りました。
僕はアナタの腕に抱かれる赤ちゃんを見て、神々しさに泣きました。僕には、アナタに与える事が出来ないモノ。アナタの分身。アナタの息吹。アナタの、僕との枝分かれの先に咲いた、花。なんて高みに咲く花だろうと、僕は深い穴の底から見上げている心持でした。この赤ちゃんの行く道には、平等という言葉が飛び交うでしょう。そうなり始めた時代でしたので。しかし、子守番をした際に僕は眠る赤ちゃんの耳元で囁いたものです。
―――愛に平等はありませんよ。だから、あなたは生まれました。ヨカッタ、ヨカッタナァ……ナァ、赤ちゃん。
ぶん殴ってくンさいよ、気に入らないのなら。
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平成の初めごろにはアナタに、お孫さんが出来たです。僕の手も、アナタの手も、節くれ立ち、茶色い木の枝の様な色になってました。
僕達は、肉体的に愛し合う事が出来なくなって、何をどうしたら良いのか分からず、でも、傍に居あったのですよ。切なくて、はい。でも……はい。恥ずかしゅううございますが、はい。
僕は何度か、懐き切った小さな手を引いてアナタの舞台を見に行きましたよ。繋がれなくとも、大好きですからね、どうしようもない程なんですよ。
あの日は、紙吹雪の趣向が素晴らしかった。アナタは丸目の点いた傘を肩に置いてですね、振り返って僕を見たんですよ。見ましたよ。僕を。あろう事か、女の目をして僕を見たですよ。
アナタの目は何で出来てるのかって、僕は思ったです。ぶよぶよしたゼラチンに掛かる蜜の様に光って、僕を打ちのめしました。アナタが。この僕を。僕は涙ぐんで囁いたですよ。もちろん、心で、ですよ。
――――大好きです。大好きです。大好きです。
大丈夫です。好きです、好きです。他に相応しい言葉があるならくンさい。今すぐ叫びましょう。幕など破って舞台に駆けあがったら驚きますか。大丈夫です、老いていく身体など気にしないで。アナタが選んだもの、孤独じゃないのよ。僕が今手を引いてんです。小さくて、ホラ、なんて可愛い、アナタ似の優しい目をして、アナタの事見てる。僕達と違う世界から。不思議。ああ、アナタ。大丈夫、光の中で、その目の中でゆるっと霧散する光の様に、安心して僕の人生を引き裂き犯してくンさい。
紙吹雪の向こうの、女のアナタが、傘にクルリと隠れて、僕はようやく袖で顔を拭ったです……。
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一度も裏切り合わずに、アナタのお葬式の日が来ました。
僕は良く晴れた夏の日差しに縫い付けられた影の様に、葬式会場の外に、立っておりました。入れんかったです。「友人」として泣きたくなかった、僕の最後の我儘なんでした。
はい。
お棺が霊柩車に運ばれていくところを、こっそり見ました。アナタのお子さん二人と、アナタのお孫さんが五人、内三人は背の高い、色とりどりのお母さんになって、よちよち歩きのお子さんと、赤ちゃんを抱いて泣いてんです。たくさん、アナタを囲っとりますね。
あ~、アナタ、アナタ。
僕達では、成し得なかったんだって、諦めて踊りましょうか。
アナタばっか見ておったンで、僕踊れンですよ。お扇子も、お持ちしましたから。
ピン、と弦の音がします。にゃあっつって、猫の鳴き声も。
猫の無体なじゃれつきから、お扇子の様に、ヒラヒラ逃げましょう、僕は。
良く晴れてますから、アナタは日傘を肩に置いて、僕に振り向いてくンさい―――。
*
わたくしの吐き出したものは、どんな色でしたか、どんな形でしたか。どうかあなたの心の隅にでも、ヒラヒラ舞わせて頂けたら嬉しいです。
愛の極みが描く、二対の翅を。