前日譚 藍と剣志郎──大学編
夏が過ぎ去り、秋が訪れようとしていた頃の話である。
杉野森学園高等部で同じクラスになって以来、竜神剣志郎はある女子のことがずっと気になっていた。
彼が今まであったことがないタイプの女子だったのだ。
その女子の名は、小野藍。
はるか邪馬台国の時代から続く由緒ある神社の巫女もこなしていて、所謂才色兼備の女性だ。
中学三年生の時、両親を航空機の事故で失って祖父母に育てられた藍は、神社という環境もあったが、それ以上に厳格な祖父仁斎の影響もあり、非常に男性に対してガードが堅い。
というより、あまり男子に関心がないのかも知れない。
剣志郎は杉野森学園に在学していた当時もそれとなく藍にラブコールを送っていたのだが、鈍感なのか、トボケているのか、藍は一向に剣志郎の思いに答える様子がなかった。
そんなもやもやした気持ちで過ごしていたため、剣志郎は藍と同じ国立大学を受験したのだが、不合格となり、浪人生活を余儀なくされた。
それでも彼は、大学なら藍ももう少し男性に関心を持つようになるのではないかという淡い期待を糧に、何とか翌年、同じ大学に合格し、藍の後輩になることができた。
後輩にはなれたものの、一学年違うという現実は、思った以上に大きな壁となって剣志郎の前に立ちはだかった。
講義は全く別。
カリキュラムで重なるところはない。
唯一の接点は、サークル活動であったが、神社の仕事が忙しい藍は、部活動もサークル活動もせず、講義が終わるとそのまま家に帰ってしまうので、剣志郎は同じ大学に通学していながら、藍の顔を見ることすら稀になってしまっていた。
そんなある週の金曜日。
最後の講義も終わり、剣志郎はいつものように大学の最寄りの駅に向かってトボトボと歩いていた。
友人達が合コンやデートに忙しい中、彼は置いてきぼりを食ったように一人で家路についていた。
藍以外恋愛の対象にしたことがない、あまりにも一途なこの男は、藍に会えない、いや、顔を見ることもできない日は、何もする気がなくなる程辛かった。
それなりの身長と顔立ちをしていて、他の女子には人気があるようなのだが、藍に一途なのを男友達共がばらしてしまうので、その気配すら感じないうちに、女子達は剣志郎から離れてしまっていたのだ。
女子達は藍には勝てないと思う程、藍は男子に人気があったのだ。
だからと言って、剣志郎はそのことを悔しがったりもしない。
端から見ていると、気の毒な程だった。
だから知らない者からは、剣志郎は全くモテない男に見えたはずだ。現に藍は今でもそう思っているフシがある。
剣志郎は、交差点を左に曲がり、自分が住むアパートの方角に歩を進めた。その時、
「剣志郎」
と彼の後方で女性の声がした。
剣志郎はその声に耳を疑った。
4月の入学当初、何回か顔を合わせただけで、その後は夏休みに入るまでほとんど話をするどころか、顔すら見られなかった藍の声だったのだ。
「えっ?」
剣志郎はドキンとして振り返った。
空耳ではなかった。
そこには、間違いなく藍が立っていた。
ショートカットの髪、ちょっと吊り上がり気味の目、程よい高さの鼻、上品な大きさの唇。 もう何年も会わなかったような気がする程、懐かしい顔だった。
もう少し服装に気を使えば、素材はいいのだから、ファッション雑誌の表紙を飾れるくらいの容姿なのに、彼女はいつも名前と同じ藍色のジーパンと、真っ白なTシャツという、シンプルな出立ちなのだ。
肩にかけたバッグも、ブランドものではない。
もしかすると、百円均一の店で買ったものかも知れないのだ。
「今帰るところ?」
藍は、長い間顔を合わせていないことを感じさせない口調で、剣志郎に尋ねた。
剣志郎は呂律が回らないのではないかと思う程内心ドキドキしていたが、何とか冷静さを保って、
「ああ、そうだよ。珍しいな、こんなところで会うなんて」
と応じた。藍はニッコリとして、
「実はさ、私、アパートを借りて、一人暮らしを始めたんだ」
「えっ?」
剣志郎は藍の意外な話にキョトンとした。
( 何? どういうこと? 何の話? )
剣志郎は一生懸命藍の意図を考えた。
だが、わからなかった。藍は続けた。
「今日はこれから何か予定あるの?」
さらに難問だ。これはどういう意味だ? 俺は試されているのか? 剣志郎はますます混乱した。
「ないんだったら、買い物付き合ってよ。夕食ご馳走するから」
「ええっ?」
剣志郎は思わず大声を出してしまった。藍はその声の大きさにびっくりして、
「ど、どうしたのよ?」
と訝しそうに剣志郎を見た。剣志郎は作り笑いをして、
「い、いや、何でもないよ。そうか、一人暮らしを始めたのか……」
と必死になって胸の高鳴りを抑えた。藍はまだ剣志郎の様子が変なのを不審に思っているようだったが、
「ダメかな? 忙しい?」
「と、とんでもないよ。大丈夫さ。付き合うよ」
剣志郎は声を上擦らせて答えた。藍はまたニコッとして、
「そう。良かった。じゃ、行きましょ!」
と剣志郎の左手を掴むと、歩き出した。
剣志郎は藍に手を握られたのと、あまりに急激な展開に顔が真っ赤になってしまっていた。 周囲を歩いている学生達も、二人の様子を見て何か囁き合っているように思えた。
( 俺達って、どういう関係に見えているのかな? )
剣志郎はそんなことを想像して、ついニヤニヤしてしまった。
すれ違ったカップルがその顔を気持ち悪そうに見ていたのを、剣志郎は知らない。
「大丈夫? 重くない? 一つくらい持とうか?」
藍はレジ袋を5つも持っている剣志郎に尋ねた。
剣志郎は本当は指が千切れそうなくらい辛かったが、
「大丈夫だよ。剣道の防具の方がずっと重いよ」
と平静を装ってみせた。藍はクスッと笑って、
「そう。じゃ、あともう少しだから」
と前を歩いて行った。剣志郎は藍が前を向くと同時に、グターッというように肩を落とし、息も絶え絶えにレジ袋を支えて歩いた。
痩せ我慢もここまで来ると哀れを通り越して、滑稽である。
「奥さん美人だから、サービスしとくね」
鮮魚コーナーのおじさんが、人によってはセクハラだと騒ぎかねない言葉をかけたのも、剣志郎にはドキドキものだった。
「違いますよ、私達夫婦じゃありませんから」
と真剣な顔で否定する藍を想像したのだが、彼女はそんなおじさんの冗談にただ微笑んだだけで何も言わなかったのだ。
( まさか藍は本当は俺のことを……)
剣志郎はそこまで考えて、何とか妄想を打ち消した。
そんなはずがない。
藍は俺が気を悪くすると思って、何も言わなかっただけだ。
あまり都合のいいように解釈するのは良くない。
剣志郎はそう考えて、レジ袋を持ち直した。
「そこだよ」
藍が指差したのは、控え目に言っても、藍のような若い女性が一人暮らしを始めるのに選ぶアパートではなかった。
築三十年は経っているだろう、木造建築である。
ヘタをすると、風呂なしかも知れない。
「一階の一番奥の部屋だから」
藍は進みながら言った。そしてバッグから鍵を取り出して、
「さっ、どうぞ」
とロックを解除してドアを開けた。剣志郎は、
「お邪魔します」
と言いながら、玄関に入った。
玄関のすぐ脇がキッチンになっている。
ガスコンロが一つの、シンプルな流し台がある。
その向こうが浴室だ。
取り敢えず、銭湯生活はしないでいいようだ。
その反対側がトイレになっている。
ユニットバスではないところが、昔ながらのアパートである。
キッチンとの間に半開きのガラス戸があり、その奥に部屋があった。
広くても六畳くらいの畳敷きの部屋だ。
家賃はいくらくらいだろうか? 壁は張り替えてあるらしく、汚れはない。
床も張り替えたらしく、きれいだ。顔が写る程ではないが、キッチンの窓から斜めに射し込む西日で輝いている。
「何してるの、早く上がって」
「あ、ああ」
藍に促されて我に返った剣志郎は、靴を脱いで部屋に上がった。
後ろを見ると、藍が自分の靴と剣志郎の靴を揃えている。
それも何故か剣志郎にはドキンとする仕草だった。
「ありがとう、そこに置いといて」
と藍は流し台の上を右手で示した。
「ああ」
剣志郎はそう応じて、レジ袋を流し台の上に置き、やっとまさに「肩の荷」を下ろした。
「そうだ、夕食にするまでまだ時間がかかるから、先にお風呂に入って」
藍の言葉に、剣志郎は心臓が飛び出すのではないかと言うくらい驚愕した。
「えっ? 風呂?」
「そう。入らないの、お風呂?」
藍はキョトンとした顔で尋ね返した。剣志郎は妄想が暴走しそうだったが、
「いや、その、別に風呂は入らなくてもいいよ。できるまで待ってるよ」
と部屋に入ってテーブルの手前に腰を下ろした。すると藍は剣志郎の右隣に立って、
「何言ってるの! ビールも冷えてるから、入っちゃいなさいよ。遠慮なんかしなくていいのよ」
「遠慮してるワケじゃないけどさ……」
剣志郎が動かないでいると、藍は奥の押し入れからタオルと着替え用なのだろうか、作務衣を出して剣志郎に押しつけ、
「ほら、早く! 私、これから忙しいんだから!」
「あ、ああ」
藍があまり熱心に勧めるので、剣志郎はその迫力に圧倒される形でとうとう風呂に入ることになった。
「出かける前にタイマー予約しておいたから、もう十分温かいはずよ。ゆっくり浸かってね」
「ああ」
さっきから同じことしか言っていない剣志郎は、すっかり藍のペースにハマっていた。
( これは、誘っているのか? )
剣志郎は禁断の地に踏み込んだ宣教師のような心境になっていた。
( いや、藍はそんな軽い女じゃない。俺の思い過ごしだ )
剣志郎は風呂場に入りながら、葛藤していた。
「それにしても……」
浴室のドアは磨りガラスになっていて、中は脱衣所と浴槽のあるスペースに分けられている。
二つを隔てているのは、ホテルによくあるカーテンだ。
剣志郎は着衣を全て脱ぐと、カーテンを開けて、浴槽を見た。
ステンレス製の、大きめなものだ。
ピカピカという程ではないが、目立った傷もない。新しいもののようだ。
「この浴槽に藍が……」
剣志郎は良からぬ想像を始めてしまった。ハッと我に返り、
「な、何考えてるんだ、俺は?」
と顔をブルブルと横に振って、妄想を断ち切り、蛇腹式の蓋をクルクルと丸めて開き、ピンクのポリの風呂桶で掛かり湯をすると、ゆっくりと湯船に身を沈めた。
「ハァーッ……」
彼は両手で顔を洗い、浴室の天井を見渡した。
壁も天井もきれいだ。
外から見たこのアパートのイメージと随分違う印象を受ける。
「そうか。外観は古臭いけど、中は新しいので、ここを選んだのかな? でも、藍の自宅って、大学から徒歩で15分くらいのところだよな。わざわざアパートに引っ越すなんて.... 」
やっぱり誘ってるのか? 剣志郎はどうしてもそんな妄想をしてしまった。
「まさか後から入って来て……」
お背中流しましょうか、なとどいう妄想は、時代劇の見過ぎである。
剣志郎は何とか妄想を頭から追い出し、髪を洗い、身体を洗った。
長居をするとどんどん妄想の虫が成長しそうなので、剣志郎は早々と風呂を上がった。
「あら、もう出たの? まだ支度できてないわよ」
藍は部屋の隅に何かを置いていたのだが、剣志郎が出て来たので慌ててキッチンにやって来た。
「何してたのさ?」
藍の行動に疑問を持って、剣志郎は尋ねた。すると藍は苦笑いして、
「別に何もしてないよ」
と答えた。剣志郎は部屋の四隅を見た。
そこには白い箱が置かれているだけで、何も変わった様子はなかった。
「そう」
彼はそれ以上追求することもせず、テーブルの前に腰を下ろした。
改めて部屋を見回すと、若い女性の一人暮らしの割には、冷蔵庫とテーブルしかないという、何とも殺風景な雰囲気だ。
「冷蔵庫にビールが冷えてるから、それ飲んでて。もうすぐ支度できるからさ」
藍は忙しく手を動かしながら言った。
剣志郎は立ち上がって、部屋にある小型の冷蔵庫に近づくと、中から缶ビールを一本取り出した。
彼がいつもコンビニで買っているのと同じ銘柄だ。
( あいつ、俺がこれしか飲まないの、知ってるのかな? )
剣志郎は不思議に思いながらも、それを手にテーブルに戻った。
「冷凍室に、ジョッキを冷やしてあるから、それ使ってね」
藍は包丁で何かをきざみながら、振り返らずに言った。剣志郎は冷凍室のドアを開いた。
そこにはガラスのジョッキではなく、陶器のジョッキが入っていた。
「これ、備前焼じゃないか? いいのか、こんな高そうなのを使って?」
剣志郎はビビりながらそのジョッキを取り出して藍に尋ねた。
少し霜が降りたように白くなっているそれは、心地よい冷たさだった。
「確かに備前焼だけど、高くないよ。貰い物だし」
「そ、そう」
少しだけホッとして、剣志郎はテーブルにジョッキを置いた。
そして、缶ビールのプルトップを起こし、口を開け、ジョッキにビールを注いだ。
備前焼のジョッキの本領発揮で、まるで生クリームのような細かい泡が立ち、ビールを覆い隠した。
「こいつはうまそうだな」
「そうだよ。いつものビールが、とっても美味しくなるから」
藍がキッチンから大皿を二つ両手に持って現れた。
数種類の刺身と、唐揚げがそれぞれ載った皿である。
どちらも剣志郎が毎日食べても飽きないほどの好物である。
「小皿はあるわよね。醤油は自分で適当に入れてね」
「ああ」
キッチンに戻って行く藍の後ろ姿を見て、剣志郎は、ジョッキのビールをググッと飲んで、
( 明るくて綺麗な妻の手料理を食べながらの晩酌。いいなァ……)
とまた妄想を膨らませた。
「はい、サラダね」
次は深皿に盛られたポテトサラダだった。
これも剣志郎の大好物だ。
その隣に置かれたのは、フルーツの盛り合わせ。
林檎、蜜柑、葡萄、バナナ、パイナップル。どれも剣志郎が大好きなものだ。
「あのさ」
そんな豪勢なもてなしを受けていながらも、ふと疑問に思うことがあった。
「何?」
藍はテーブルの反対側に正座して剣志郎を見た。こんな至近距離で藍と向かい合って話をするのは久しぶりである。
「変なこと聞くけど、どうして俺なんかを夕食に招待してくれたのさ?」
剣志郎はジョッキに残りのビールを注ぎながら尋ねた。藍はニコッとして、
「別にいいじゃない、そんなこと。剣志郎とは、長い付き合いだしさ、たまにはこういうのもいいでしょ?」
と言って、サッサと立ち上がり、キッチンに戻った。
剣志郎はますますわからなくなった。
( どういう意味だ? 只単に、俺とは長い付き合いだから、夕食に招待してくれただけなのか? でもそれなら、風呂に入れとか言わないよな。やっぱり、誘ってるのか? )
また良からぬ妄想モードが始まりかけた。
「ごめんね、忙しくして。さっ、どうぞ」
藍は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、剣志郎にお酌した。剣志郎は赤らんだ顔をさらに赤くして、
「あ、悪い」
と言いながらも、藍のお酌に内心ワクワクしていた。藍は缶をテーブルに置いて、
「私も少し頂いちゃおうかな」
と言って、別の缶を冷蔵庫から取り出した。剣志郎は慌てて藍から缶を取り上げ、
「冷凍庫にもう一つジョッキあったよな。俺が注ぐよ」
「わかった」
藍は立ち上がって冷凍庫からジョッキを持って来た。
「はい」
「おう」
藍のジョッキはガラスだったが、剣志郎がビールを程良い速さで注いだので、見事な泡が立ち、ビールを覆った。
「注ぐのうまいね、剣志郎」
と藍は言い、
「乾杯!」
「乾杯!」
二人は微笑み合ってグラスを合わせ、グッとビールを飲んだ。
「まだビールがうまい季節なんだね」
藍はジョッキのビールを飲み干して言った。剣志郎はそれを見てビックリし、
「お前、酒強いのか?」
「強いって程じゃないけど、お猪口一杯で悪酔いする程下戸じゃないわね」
「そ、そうか……」
それなら藍にいくらビールを勧めても、酔い潰して妙なことをしようと企んでいるとは思われないな、と剣志郎は心の中でホッとした。
しばらく二人は久しぶりに話をしたのも手伝って、杉野森学園高等部の頃の話や、今受けている講義の話、インパクトのある教授の話、キャラの濃い友人の話などをして、大いに盛り上がった。
「それにしても、久しぶりだったよな。全然キャンパスで顔会わせない日も多かったもんな」
酔いが回り始めた剣志郎が、呂律が回らなくなった口調で言った。藍は笑いながら、
「そうだね。杉野森学園の頃に比べると、会わない日が多くなったよね。だから、こんな形で一緒に御飯食べるのもいいかなって思ったんだよ」
すると剣志郎は、酒のせいもあってか、普段なら決して言えないようなことを言い出した。
「でもさ、このシチュエーションてさ、どう考えても、藍が実は俺に気があって、誘っているとしか思えないんだよね」
「えっ?」
藍はさすがにその言葉にはギクッとしたようだ。剣志郎はトロンとした目で藍を見て、
「本当は俺のことが好きなんだろ、藍? 白状しろよ」
と尋ねた。藍は剣志郎が悪酔いしているのだと考え、
「何バカなこと言ってるのよ。随分酔って来たわね。もう寝る?」
「寝る? 何言ってるんだよ。俺とお前は恋人同士じゃないんだから、一緒に寝るなんてできないよ。俺は帰ります」
剣志郎はそう宣言するとスッと立ち上がり、玄関に向かってフラフラしながら歩き出した。
「危ないわよ、剣志郎」
藍は慌ててふらつく剣志郎の右腕を掴んで引き止めた。
剣志郎はニヘラーッと嫌らしい笑みを浮かべて、
「何だよ、藍、俺に帰って欲しくないのか?」
剣志郎は完全にいつもの彼ではなくなっていた。
「飲ませ過ぎたかな……」
藍はそう呟くと、
「お布団敷くから、ちょっとこっちにいてね」
とキッチンに連れ出し、座らせた。
剣志郎は何かブツブツと呟いていたが、藍はそれには応じずに部屋に戻り、テーブルをキッチンに移動し、押し入れの中から布団を出して敷いた。
「この位置で大丈夫かな?」
藍は部屋の四隅の白い箱を見渡し、布団を少しずらした。
「さァ、用意できたわよ、剣志郎」
と藍が声をかけると、剣志郎はキッチンの床に顔を押しつけるようにして眠っていた。
「もう、仕方ないなァ」
藍は剣志郎を引き摺り、布団に寝かせた。そして、
「酔っている時に変なこと言わないでよ」
とムッとした顔で呟いた。
「あれ?」
どれほど時間が経ったのかわからないが、剣志郎は布団の中で目を覚ました。
部屋の中は真っ暗で、何も見えなかった。
「どこだ、ここ?」
しばらく思案して、ここが藍のアパートの部屋だと思い出した剣志郎は、仰天した。
「お、俺、泊まっちまったのか、藍の部屋に?」
しかし部屋の中を見回しても、藍はどこにもいない。
「怒って出て行っちまったのかな?」
とにかく藍を探して謝ろうと考えた彼は、起き上がろうとした。
その瞬間、まるで木が裂けるような鋭い音が鳴り響いた。
剣志郎は仰天して布団から這い出ようとしたが、手も足も痺れたように動かなくなっていた。
動かせるのは、首から上だけである。
「まさか、これ、金縛り?」
全身に嫌な汗が出て来た。
寝ぼけていた頭がすっかり覚め、周囲に何かいないか目と首だけで探した。
すると、足下の方に白いものが見えた。
「何?」
剣志郎は寒気がした。明らかに人間ではない。
もちろん、動物でもない。では一体何だ?
「もしかして……」
剣志郎はビクビクしながら目を凝らして、その白いものを見た。
その白いものは、始めはボンヤリとしていたのだが、次第に輪郭がハッキリして来た。
それは、若い女のようだった。
髪が長い。そして酷く痩せている。顔色は無いに等しい程白い。
いや、全体的に白い感じだ。どう見ても藍が変装しているのではない。
その上、足は見えない。宙に浮いているような状態である。
女はスーッと顔を剣志郎の方に向けた。その目は瞳がなく、只白かった。
明らかに生きている女ではない。
「ま、まさか……」
幽霊? 俺には霊感なんてないはずだ。どうして見えるんだ? 剣志郎は混乱していた。
「見つからないの……。見つからないの……」
その女の霊は、頭のてっぺんからだすような高い声で言った。
「な、何が?」
剣志郎は女の霊に恐る恐る尋ねた。すると女の霊は剣志郎にスーッと近づき、
「指輪。私の大切な指輪。どこにもないの。だから一緒に探して」
剣志郎はギョッとして、
「し、知らない。そんなもの知らない! 一人で探してくれ!」
「一緒に探してェッ!」
穏やかだった女の形相が一変し、周囲に得体の知れない黒い塊を伴って、剣志郎に襲いかかって来た。ところが剣志郎の寝ている布団の上まで来た時、女の霊は何かに弾かれたように、
「ギャッ!」
と叫んで後退した。と同時に玄関のドアが開き、藍が飛び込んで来た。
「やっとお出ましね、今日のメインゲストが」
「メインゲスト?」
剣志郎は藍の言葉に応じて、女の霊を見た。女の霊は憎しみの目で藍を睨んだ。
「お前が、お前が指輪を隠したのか!?」
女はそう叫ぶと、藍に突進した。藍は部屋の隅に走ると、白い箱を退けた。白い箱は紐で繋がれていて、四つの箱が同時に隅から動かされた。
「ギャーッ!」
女の霊が叫んだ。
部屋の四隅にあった白い箱の下には、清めた塩が盛ってあった。
箱を退けることによって、盛り塩の結界が完成し、女の霊はその中に閉じ込められてしまったのだ。
「貴女はもう肉体を失って、この世界から去らなければならないの。いつまでも指輪に妄執していたから、おかしなものに取り憑かれてしまったのよ」
女の霊から、黒い塊が次々に離れて消滅して行った。藍が柏手を二回打つと、剣志郎の金縛りが解け、あたりの重々しい空気がサッと軽くなった。
「あ、身体が動く……」
剣志郎はすっかり驚愕していた。藍はジーパンのポケットから指輪を取り出し、
「ほら、貴女の探していたものは私が見つけたわ。もう探さなくていいのよ」
女の霊は悪いものが皆離れたおかげで、もとの穏やかな顔になり、姿も白一色から普通の色合いに戻った。よく見ると、藍とは違う種類の、大人しそうな美人である。
「指輪……。私の指輪……」
女の霊は藍に近づいた。藍は指輪を差し出し、女の霊に渡した。
「ありがとう。ありがとう……」
女の霊は何度も礼を言い、消えて行った。
それと同時に、指輪がコロンと畳の上に落ちた。藍はそれを拾い上げて、
「浄霊完了ね」
と呟いた。そして、部屋の明かりを点灯した。
「何だったんだ、一体?」
剣志郎はまだ呆然としていた。藍は指輪を眺めながら、
「あの人、恋人にプレゼントされた指輪をなくしてしまって、どうしても見つけ出せなくて、この部屋で睡眠薬を大量に呑んで自殺した人なの」
「どうしてそんなことで死んでしまったんだ? 指輪なんて、また買えばいいじゃないか」
と剣志郎が起き上がって言うと、藍は剣志郎を見て、
「そうよね。そんなことくらいで死ななくてもいいはずよ。じゃあ、どうして彼女は自殺までしてしまったのかと言うと、この指輪に理由があったのよ」
と指輪を見せた。剣志郎はキョトンとして、
「えっ? どういう意味?」
「この指輪は、恋人の母親が買ってくれたものなの。彼女ができたらこれをプレゼントしなさいってね。母一人子一人で暮らして来て、苦労ばかりして来た母親の姿を見て育ったから、その恋人は母親の思いの深さに感動したの。ところがその母親は、それからしばらくして亡くなってしまったわ。病気でね」
藍の話に、剣志郎はしんみりとして、
「そうか。買い替えのきくものじゃなかったんだな。だから思い詰めてしまって……。悲しいな」
藍は剣志郎の言葉にゆっくりと頷き、
「ええ。しかも、なくしたのは、その母親が入院した当日。3ヶ月後に母親は亡くなって、葬儀の段取りとか進めて行くうちに、恋人に指輪をしていないことを気づかれたの。最初は誤摩化していたのだけれど、あれはお袋の形見と同じだから、葬式には必ずして来てくれって言われて、追い込まれてしまったのよ。それまで懸命に探してどうしても見つからなかったのに、あと何日かで見つけられるはずがない。彼女は仕方なく、恋人に全て打ち明けたわ。恋人は、母親を亡くしたショックも手伝って、いつもなら絶対に言わないような言葉で彼女を非難したの。その上、このままじゃお袋が浮かばれない、どんなことがあっても探し出せって、彼女に詰め寄ったの。最愛の人に罵られて、精神的にかなり参ってしまった彼女は、とうとう自殺を思い立った。死んでお詫びをするしかないと、考えてしまったのね」
「……」
剣志郎は、あまりに悲しい女の最期を知り、絶句してしまった。藍は指輪を握りしめて、
「彼女が自殺した日が、恋人の母親の葬儀の朝だったの。さすがにその恋人も、彼女の遺した遺書から自殺の原因が指輪にあることを知り、驚愕したらしいわ。いくら謝っても取り返しがつかないことを言ってしまったと感じた彼は、母親に続いて恋人まで失ったショックで、後を追おうと考えたの」
「そんな。そいつも死んでしまったのか?」
剣志郎はビクビクして尋ねた。すると藍は首を横に振って、
「彼は生きているわ。でも、それは死ぬより辛いことがわかったからなの」
「どういうことだ?」
剣志郎は藍をジッと見て言った。藍は握っていた手を開いて指輪を見、
「彼は自殺をしようと思って、洗面所に行き、剃刀で手首を切ろうと考えたの。剃刀の入れてある引き出しを開いて、彼はそこに丸められたティッシュペーパーを見つけたわ。その時彼は雷に打たれたような衝撃を受けたの」
「何があったのさ?」
剣志郎はさらに尋ねた。藍は剣志郎を見て、
「彼は思い出したのよ。母親が倒れた日のことを。彼女と母親と自分で夕食をとった日のことをね。食事は和やかに進んで、彼女はそのまま泊まることになったの。そして、彼女はお風呂に入った。その時、彼がほんのちょっとした悪戯心で、洗面台の上に置かれていた、彼女にプレゼントした指輪をティッシュペーパーに包んで、引き出しに隠したの」
「まさか……」
剣志郎はその偶然が引き起こしたその後のことを思い出し、胸が痛くなった。
「彼女が入浴していた時、母親が倒れたわ。彼女は恋人の叫び声に、すぐにお風呂から出て、指輪も何も忘れてすぐに服を着て、浴室を飛び出した。そのまま母親は入院し、彼も彼女も指輪のことを忘れてしまっていたの」
「何て残酷な偶然なんだよ。誰も悪くないじゃないか。誰のせいでもないじゃないか……」
剣志郎は目頭を抑えて言った。
「彼は自分がした悪戯で恋人を死に追いやってしまったことを知ったわ。彼には何の悪意もなかったけれど、結果として恋人は自殺してしまった。それだけは否定できない事実だったわ」
剣志郎は目を上げて藍を見た。藍も目を赤くしていた。
「何よりも彼が自分自身を許せなかったのは、指輪を隠したことを思い出すことなく、恋人を罵ってしまったこと、そして母親が浮かばれないと言いながら、実は自分が一番母親を悲しませるようなことをしていたのだということ」
藍はまた指輪を見つめて、
「この指輪は、その恋人から預かったものなの。このアパートに自殺した彼女の霊が出るって聞いて、ここの大家さんを介して、私の家に依頼があったのよ。何とか浄霊してくれないかって」
「そうだったのか……」
剣志郎はすっかり重い気持ちになっていたが、ハッとあることに思い至った。
「今の話だと、藍はこの部屋に幽霊が出ることを知っていたんだよな?」
剣志郎の質問に、藍はギクッとした。剣志郎は立ち上がって藍に詰め寄り、
「俺を夕食に誘ったのは、そのことを知っていて、なんだよな? どういうことなのか、説明してくれないか、小野藍さん?」
と言い放った。藍は後ずさりして、
「この部屋は何人かの人が借りていて、そのうち何回か、女の幽霊が出ると言って引っ越した人がいたの。それで、私がここに寝泊まりしたんだけど、全然出て来なくて。何故なんだろうと思って、幽霊を見た人を調べたら、男の人だけだったのがわかったの」
と苦笑いしながら説明した。剣志郎は腕組みして、
「それで、何の事情も説明しないで、俺を呼んで、酔い潰してここに寝させたってわけか」
「ちょっと違うけど、大体そんな感じね」
藍は苦笑いをしたままだ。剣志郎はムッとして、
「あのなァ、もしかしたら、俺は取り殺されていたかも知れないんだぞ。どうして何も教えてくれなかったんだよ!」
「教えたら絶対来てくれなかったでしょ、剣志郎は」
と藍は反論した。剣志郎は少しだけ怯んだが、
「そ、そうかも知れないけど、どっちにしたって酷いじゃないか。殺されるとこだったんだぞ」
と言い返した。すると藍は、
「それは絶対にないわ。彼女は指輪を一緒に探してくれる男性を求めていただけだから、あのまま私がここに来なくても、貴方が殺されることはなかったわ。ただ、ずっと一緒に指輪を探し続けなければならなかったでしょうけど。それに、貴方がかけていた布団には、お清めした注連縄が縫い込んであったから、彼女は貴方に近づくことはできなかったはずよ」
とさらに反論した。剣志郎は、女の霊が彼に近づこうとして何かに弾かれたように後退したのを思い出した。
「人は不幸な死に方をすると、記憶の大半を失ってしまうらしいの。だから彼女は、断片的に残っている記憶で、指輪と恋人を結びつけて、ここに引っ越して来た男性に自分の恋人を重ね合わせて、一緒に探してもらおうとしていたのよ。そんな彼女の一途な思いが、霊界に行けない一因になって、悪い霊に利用されてしまったのね。だから、取り殺すなんて、あり得ないわ」
藍の言葉に、剣志郎はまたシュンとして、
「あの女の人に悪いこと言っちゃったな。一人で探してくれ、なんてさ」
と呟くように言った。すると藍は軽蔑の眼差しで、
「ふーん、剣志郎って、美人には優しいのねェ」
「な、何だよ、そんなの関係ないだろ? 彼女が可哀想だったからさ。それだけだよ」
剣志郎はほんの少しだけ図星だったので、赤面して言い訳した。そして、
「彼女は大丈夫なのか? 記憶喪失のままなんだろ?」
「心配いらないわよ、優しい竜神剣志郎さん。彼女は指輪が見つかったのを知って、記憶を取り戻したはず。だからもう何も迷うことはないわ」
「そ、そうか」
剣志郎は藍に冷やかされたので膨れっ面をしながらも、悲しい女の霊がどうやら救われたらしいことを知って、ホッとした。
「さてと。まだ夜中の二時を過ぎたばかりだから、もう一眠りしよっかな」
と藍は玄関に向かった。剣志郎はピクンとして、
「お、おい、どこに行くんだよ?」
藍は振り返り、
「隣の部屋。私、二部屋借りたのよ。さっきもそこで待機していたの。ほとんど寝ていないから、眠いのよ。お休み」
と言うとまた背を向けたので、剣志郎は、
「ちょっ、ちょっと待ってくれ。あんなことがあった直後に、この部屋に一人にしないでくれよ」
と泣き出しそうな顔で言った。藍は呆れ顔で、
「いい大人が何言ってるのよ。そんなにここが怖いの?」
「こ、怖くはないけど、何となくその、えーと……」
剣志郎は顔を赤くして懸命に言い訳をしようとしたが、言葉が思い浮かばなかった。藍は仕方なさそうに、
「じゃあ、隣の部屋で寝る?」
「えっ?」
剣志郎は思ってもいなかった藍の答えにビックリした。彼は、できれば夜通しここで藍と話していたかっただけなのだ。
「いいのか?」
剣志郎は真っ赤になって尋ねた。藍は肩を竦めて、
「いいも何も、そうするしかないでしょ」
「そ、そうか」
と剣志郎は布団をまとめて持ち上げようとした。すると藍が、
「布団は隣の部屋にも敷いてあるわよ。持って行かなくても大丈夫」
「えっ?」
剣志郎は鼻血が出そうだった。心臓が肋骨を破って出て来そうなくらいドキドキと鳴った。
「じゃ、お言葉に甘えて……」
と剣志郎は玄関に向かった。すると藍が、
「はい、これ隣の部屋の鍵」
「へっ?」
剣志郎はキョトンとして鍵を受け取った。藍は剣志郎を送り出しながら、
「布団は敷いただけで私使ってないから。じゃ、お休み」
「えっ?」
藍はドアを閉じると、ガチャッとロックをし、部屋に行ってしまったようだ。
剣志郎は自分のオッチョコチョイ加減に落ち込んでしまった。
藍は部屋を替わろうと言っていたのだ。
それを自分は変な妄想を働かせて、一緒に寝るつもりになっていた。
恥ずかしさで死にたいくらいだった。
「はァ……」
剣志郎は深い溜息を吐いた。
「俺って、本当にバカだな……」
彼は隣の部屋の前で鍵を開けながら、そう呟いた。
「藍は今頃、俺が寝ていた布団で……」
バカな男の妄想は、全く反省がなかった。
しんみりしたかと思うと、ついおバカな展開にしてしまうのが、私の表現力の限界を如実に表しているような気がしてしまいます。
剣志郎が藍との関係を進められない遠因が、この事件にあるというのが、今回のテーマです。