サイン
職員室で渡されたくれよんの箱の真ん中にある赤を握りしめる。
こぼれ落ちた赤と同じくギラギラした日射しは強く、そんな中でも努力を惜しまない運動部の熱血の声はどちらも不快だった。
沢野藍、怪我のため休養。
可愛すぎる女子高生バドミントン選手、落胆の涙。
踊る赤い見出しも、気に入っていたユニホームの赤もそれに合わせたラケットの赤もすべて見たくない。
怪我をして一月が経とうとしている。けれど、あの時に見た鮮烈な赤は藍の頭から離れずに、結果すべてを拒否しようという防衛本能が働いていた。
「お邪魔します」
冷房の効いていない蒸した廊下を進み、隣接する中庭の大きな木のおかげで日陰となっている教室を礼儀正しく訪問する。
洗いざらしの真っ白いカーテンが靡き、何も描かれていないキャンバスが藍を迎え入れた。
少し気持ちが落ち着いた藍は、ぐるりと室内を見渡す。石膏像と目が合った気がしてぎょっとするも、すぐに息を整える。
「何か用?」
「わっ!」
白地のキャンバスに顔を近付けていると、背後から声が掛けられ藍は思わず飛び上がって驚いた。
ふわりと絵の具の香りが鼻を抜け、白いシャツに黒いエプロンを着けた男子生徒が横を通り抜けていく。
「誰か部員に用? 僕しかいないよ」
「誰にも用はないよ。課題をやりに来たの」
「そう。じゃあ、ご自由に」
男子生徒はすぐに藍に興味をなくしてキャンバスの前に座る。追い出されるのも困るが、勝手のわからない空間で放り出されるのもまた困ってしまう。
「ねぇ、どうしたらいいの?」
「先生にでも聞いたら。僕は一介の部員だから」
「その先生は美術室に誰かいるだろうから教えてもらえって言ってたの」
藍に課題を言い渡した教師は素晴らしい作品が出来上がることなど望んでいない。ただ、怪我をして一人鬱々とした生徒が何かしら動く理由をくれたのだ。
「それって僕しかいないじゃないか……で、何したいの」
「わかんない」
「ふーん、じゃあ適当にやりなよ。道具も好きに使っていいから」
椅子を一つ引っ張り出してくれた以外、男子生徒は藍に何も教えることなく自らの定位置に戻ってしまう。けれど、藍はやる気に満ち溢れている訳ではないため黙って椅子に座る。
静かな美術室でただ二人は座って過ごした。
日が暮れて立ち上がった藍の目に、男子生徒の前で未だ真っ白なキャンバスが映った。
「また、明日」
男子生徒が何も描かなかったことへの疑問より、真っ白なキャンバスが頭の中にこびりつく赤を上書きしてくれるような気がして藍はそう呟いていた。
翌日も藍は美術室を訪れていた。
相変わらずいるのは男子生徒一人だけだが、染み付いた絵の具の香りはこれまで多くの生徒がこの部屋で絵を描いたことを教えてくれていた。
「ねぇ、今日も一人なの」
「多分ね。誰かに用?」
昨日のことなど覚えていないというような返事に藍は少しむっとする。
「だから、課題をやらなきゃいけないって言ったよね」
「聞いたけど、昨日何もしてなかったからさ」
強く言ったつもりはなかったが、肩を竦めてみせる反応をされたため八つ当りしてしまったと反省する。
「何していいのかなんてすぐに思い付かないんだもん」
「ふーん、じゃあ頑張って」
なるべく柔らかい言い方を選んだというのに、相手はどこ吹く風で軽く流してくる。
「ちょっと、少しは面倒みてくれる素振り見せようよ。同級生を助けてよ」
「ふーん、同級生なんだ」
「へっ? 私、話題の人だから知っててタメ口なのかと思ったんだけど。私のこと知らないの?」
バドミントンの大会で勝ち上がったのは女子高校生、そして容姿もそれなりに整っているからとテレビや雑誌に取上げられた。そして、それは怪我をした時も同じで藍を追い詰めるように大々的に報じられた。
「いえ、知っててタメ口だったんですよ。僕、一年生です」
「えっ、結局知ってるの! なのにその態度」
「別に部活の先輩でもないからいいと思って。でも、うるさそうなんでやめますね」
自分が有名なことをひけらかして話すのは嫌だなと、歯切れ悪く語った藍だがどうやら本当は知っているらしい。
どこまでも掴みきれない相手に藍はため息をつく。
「はぁ……知ってるみたいだけど、私は沢野藍。二年生よ」
「ふーん、どうも」
軽く頭を下げてきただけの対応に藍は苛立ちを隠せなくなってくる。
「それで、あなたは?」
「えっ、僕のこと知りたいんですか? 変わってますね」
人懐っこそうな丸い目を瞬かせての返答は本気で驚いているようで、藍は毒気を抜かれてしまう。
「同じ美術室にいるのに名前も知らないなんて変でしょ。課題のことでお世話になるんだし」
「お世話することは決定なんですね、まぁいっか。僕は七瀬虹一、可愛すぎるバドミントン選手に比べたら何の変哲もない美術部員ですよ」
「……普通、そういうことは本人の前で言わなくない」
お互い恥ずかしいだろうと藍は熱くなった頬を手であおぐが、七瀬は相変わらず飄々としている。
確かに藍はぱっちりした瞳に長い睫毛、すっと通った鼻筋にぷっくりした唇でスレンダーとさすが可愛すぎるの代名詞を貰っただけのことはある容姿だ。けれど、女子同士ならともかく、男子は面と向かって可愛いと言うことは少ないため焦ってしまう。
「それで、今日は課題やらないんですか」
「えっ」
穏やかそうな垂れ目に常に軽く微笑を湛えている七瀬だが、食えない男だと藍はまじまじと観察していた。そこで突然話を振られたため、 間抜けな声が出る。
「課題ですよ。それをやりに来ているんでしょう」
「私、手を怪我してるもん」
描けないよと包帯で巻かれた手を振れば、七瀬は興味を失ったように「そうですか」と自らのキャンバスの方を向いてしまう。
てっきり描けるだろうと言われると思って構えていた藍は拍子抜けしてしまうが、安心もする。
「七瀬くん――いや、後輩なんだから、七瀬でいいか。ねぇ、描かないの?」
白いキャンバスに何を描こうとしているのか、藍は七瀬に尋ねてみる。
「まだ、構想を練ってるところですから。沢野さんは早めに課題やった方がいいですよ。終わらないと、また来るんでしょう」
オブラートに包むことなく率直に邪魔だと言ってくる七瀬だが、藍はそんな言葉では引き下がらない。
「なるほど、追い出したいのね。でも残念ね、リハビリも兼ねてるんだからゆっくりでいいのよ」
挑むように相手を見つめて口の端を上げ不敵に笑う。口角がぎこちなく動いたのは、久しぶりに笑ったからだった。
「おはよう、七瀬」
「……おはようございます、沢野さん」
出会って三日目、爽やかに挨拶をしてみれば無視はされなかった。ただ、とてもめんどくさそうな顔をされただけだ。
「課題やらないのなら、わざわざ美術室に来なくてもいいんじゃないですか」
「こんな手じゃ遊べないよ。折れたラケットが手の平をざっくり切って四針も縫ったんだよ。右手に力入らないのはすごい不便で何もできないから暇なんだ」
はためく白いカーテンに赤い血が見えたような気がして藍は目を瞑る。それからゆっくり目を開けば、美術室に目立った赤はない。
「くれよんはリハビリにいいと思いますよ。力あまり使わないし、細かいものじゃなく……りんごなんてどうですか?」
どうやら今日こそは課題をやらせようと必死らしく、どこからともなくりんごが取り出される。けれど、藍の持っているくれよんに赤はない。
「残念、りんごは描けないよ」
どんな反応をするだろうかと得意気に胸を張った藍が一本欠けたケースを見せれば、七瀬は緑のくれよんを迷わず掴む。
「青りんごだと思えばいいですよ」
「……どうしても描かせる気なんだ。どうなっても、知らないよ」
「大丈夫ですよ、これくらいで怪我はどうこうならないですって」
七瀬が差し出すくれよんを素直に受け取った藍は、画用紙に向かう。確かに力は籠めなくても、くれよんの柔らかく丸い先端は鮮やかなみどりの線を描き出す。
「手、そんなに痛いんですか?」
「ううん、大丈夫」
心配に嘘で返すのは忍びなくて藍は痛くないことを告げる。だが、七瀬はもう一度尋ねてくる。
「大丈夫ではないですよね? だって、これりんごじゃないですよ」
藍が描いたりんごは丸に毛が一本立ったようなもので、横にりんごと書かれているため絵の正体がはっきりわかるという出来だ。
「りんごって書いてあるでしょ! それに言ったよね、どうなっても知らないって」
「それって、怪我じゃなくて下手くそってこと――」
「悪かったわね、絵心なくて」
くれよんを置いて拗ねたように顔を背けると、横から吹き出す音が聞こえてくる。
「これは課題やりたくないでしょうね」
「ちょっと、ひどい言い方! 一生懸命描けばいいのよ」
「りんごを一生懸命描いて苗木……くくっ」
我慢できないと七瀬は声を震わせ、次第にそれは笑い声に変わる。
「苗木って……でも、ふふっ確かにそうかも」
顔を正面に戻すと七瀬が目を細めて笑っていて、藍も思わず釣られてしまう。
昨日久しぶりに動かした口角が、今日はもっと自然に持ち上がった。
***
「やる気のない奴は出ていけ!」
体育館から聞こえた怒号に藍は思わず身をすくませた。休憩の時に開放される体育館の中扉は、練習中は風が入るため決して開けられない。この扉が開くのはどうやらもう少し先のようだと、藍は相変わらず強い日差しを放つ空を見上げた。そこにはいかにも涼しげな青が広がっていて、少しだけ暑さが紛れる気もする。
「はぁ」
小さくため息をついて足元を見れば、カサリとビニール袋が音を立ててスポーツドリンクのラベルの青が顔を出す。
辛い練習の合間、ふいにおでこにドリンクをくっつけられて飛び上がり笑い転げた。涙も笑顔も共有した仲間と飲んだドリンクは、冷たくて甘くて美味しかったことを思い出す。
藍は怪我をしてから久しぶりに体育館を訪れようとしていた。
「よし、十分休憩! これ以上怪我人が出ないようにしっかり休めよ。いくら強くても怪我しちゃ意味がないからな。もう沢野の席はないと思え! お前たちが勝つんだ」
顧問の声はいつもよく響き、藍たちを叱咤激励してきた。だが、今日藍まで届いた声は聞きたいものではなかった。
「藍が怪我をしていなくても、私が上に行くはずでした」
「可愛いなんて外見のことで有名でしたけど、実力では負けていないつもりです」
中扉に向かって歩いてくるのが、近付いてくる会話で感じとれる。藍はなんとかよろけるように立ち上がると、足元にあったビニール袋を掴んで走り出す。
久しぶりに全力で走ったため、息が切れるのは早かった。それでも止まることはできず、試合よりも苦しみながら藍は美術室までの道のりを駆け抜けた。
「どうしたんですか、そんなに慌てて」
勢いよく飛び込んできた藍に、七瀬は驚いたように目を見開きながらも落ち着いて聞いてきた。
「はぁ、はぁ……うーんと、ほら、差し入れ」
荒れた息を整えながら、藍は知り合ったばかりの後輩に泣き言を漏らさないと決めた。
「なるほど、バド部に差し入れに行ったけれど声を掛けられなかったんですね。どうせ、陰口でも叩かれていたんでしょう」
隠そうと思っていたことを言い当てられてしまい、藍は否定のタイミングを逃してしまう。そのため、七瀬の予想は肯定されたようなものだ。
「みんな気合が入ってるだけだよ。私だって、チャンスに誰かが抜ければアピールすると思う。それに私はバドミントン以外で注目されちゃったから、認めていない人も多いんだ」
「つまり、嫉妬ですね。新しい選手は可愛いくないから認められるんですか?」
「いや、そんな極論止めてよ」
元々怒るような気力はなかった藍だが、七瀬の歯に衣着せない物言いに怯んでしまい話題を変えたいとさえ思ってしまう。けれど、七瀬は止まらない。
「未だに沢野さんに嫉妬しているようなら、実力も知れてます。大丈夫ですよ、僕の知ってる限り可愛いすぎるバドミントン選手で沢野さんを越えられそうな人はいませんよ」
「ははっ、そんなに言うならモデルやってあげるよ」
誰よりも可愛いと言われたようなもので、藍はヤケクソ気味に笑うことでやり過ごす。
「七瀬君、やってもらったらどう?」
「えっ?」
教室の端から聞こえてきた声に藍は驚いて振り向く。すると、そこには大きなキャンバスに隠れて小柄な少女がちょこんと椅子に座っていた。
「今日は自由参加ではなくて、美術部の数少ない活動日なんですよ。差し入れ、ありがとうございます」
バドミントン部に声を掛けられなかった想像の話は流されて、いつの間にか手の中にあったスポーツドリンクが七瀬の手に渡っている。
「あっ、いえ、どうぞ」
「ありがとうございます。それで、モデルの件なんですけど――」
「冗談だよ、沢野さんも冗談でしょう。」
いつもなら七瀬の方が乗ってきてからかってきそうなものだったが、真顔で断られてしまう。モデルなどやる気はなかったが、こうもばっさり切られると悔しさを感じてしまう。
「そうなんだ。じゃあ、私はここで作業してますから話し掛けないでくださいね」
「ねぇ、美術部って生意気な子しかいないわけ?」
ヘッドホンをつけてキャンバスに向った少女を見て、藍は七瀬に尋ねる。
「秋までに絵を完成させて出品しなきゃいけないから、そろそろスパートかけないといけないんですよ」
「へぇ、七瀬は急がなくていいの? そのキャンバス真っ白じゃん。それとも、もうできてるの?」
「まぁ、ぼちぼちです。それより、僕は沢野さんの面倒をみなきゃいけないんですよ。早く課題やりましょう」
これまで手伝う素振りなど見せなかったというのに、七瀬が積極的に誘ってくる。夏休み行く宛もない藍は投げやりになって美術室に通っていたが、本気で邪魔になっているなら考えを改めなくてはいけない。
「やる気はない訳じゃなくなったよ……でも、下手じゃん」
「下手とか上手ではなくて、描きたいものを描けばいいんですよ」
「半笑いで言われても説得力ないんだけど」
藍の絵を思い出したのか七瀬の声は震えていて、励ましにはなっていない。
「いえ、本当、気持ちです」
まだ肩は揺れていたが、真面目な顔で返してきたため拗ねて見せるのは止めて本音で臨む。
「そもそも描きたいものがないの。子どもの頃だってお絵かき帳にいっぱいのサインを書いて楽しんでたくらいで、絵は描いてなかったの」
「じゃあ、サインでも書きますか」
スケッチブックを広げて提案されるが、藍は喜ぶ訳がない。
「子どもじゃないんだけど」
「最近だってサインしてたじゃないですか。その感覚ですよ」
「えっ! 私、さすがに有名になってもサインはしてないよ」
まったく身に覚えがなくて、藍は目を瞬かせる。そうすれば、七瀬はばつが悪そうに目を逸らしてボソボソと言い訳のようなことを述べているようだ。
「先輩、試合に勝った時にサインしてますよね。七瀬君はそれを言っているんだと思いますよ」
いつの間にヘッドホンを外したのか、隅で絵を描いていた少女が教えてくれた。そして、それだけを告げるとまた自分の作業に没頭し始めた。
「試合……あぁ、よく知ってるね」
観戦したことがあるのかと驚いたが、どうやら七瀬はそれを知られるのが嫌だったらしい。
「あんなに騒ぎになれば、学校の誰もが見たことありますよ。それより、描くんですよね」
ツンとした言い方の中に照れが混じっているのは間違いなく、藍はようやく七瀬に年下らしい可愛げを見出だす。だが、それを口にすれば課題を一緒にやってくれなくなる可能性があるためぐっと我慢してくれよんを握る。だが、もっと良いことを思い付いて七瀬に向き直る。
「ねぇ、りんご描いてみて」
「この芸術的なりんごの横に描けなんて、沢野さんはすごいですね」
すぐにいつもの辛口が戻ってきて、藍は馬鹿にされているとわかりながらもホッとする。
「いいから、いいから」
歪んだ苗木と評されたものの横に青りんごが描かれる。それはさすが美術部と言える出来で、藍は感心した声を上げる。
「へぇ、りんごに見える」
「他に何に見えるんですか。苗木でも描きましょうか」
「そういうこと言うところは可愛くないな」
口を尖らせる
「可愛いとこなんてありましたか」
「試合見てたことを隠すところ――あっ、なんでもない」
慌てて口をつぐんだが、言おうとしたことはわかったのだろう七瀬は眉を寄せる。
「なんですか、言いたいことあるならはっきり言っていいですよ」
余計なことを言ってしまったかと軽率な発言を反省する一方、それも年下らしくて可愛いと思ってしまう。藍はどうやって七瀬の機嫌をとろうか考えながら思わず微笑んでしまう。そうすれば、七瀬はさらに眉の皺を増やした。
「はぁー、暑い」
「こんな日に部活とか辛い――あれ、藍がいる!」
突然、騒々しくドアが開けられると同時に藍の存在が認識される。
「あれ、あんたたちって美術部だったの」
入ってきたのは藍のクラスメートやその友人たちで、美術とは縁がなさそうだった。
「幽霊部員ですよ」
「ははっ、辛辣な後輩でしょ」
藍の疑問に的確かつ失礼に答えたのは七瀬で、友人たちは笑ってそれを肯定する。
「そうだね。でも、本当に来てないみたいだもんね。私、ここ数日毎日通ってたけど会うの始めてじゃん」
「なんで、藍が美術室なんかに通ってるの? 体育館行きなよ、スポーツ少女」
「怪我して練習できないから、これまでの公休の分の美術の課題やってるの」
手を見せれば、みんな痛々しそうな顔をする。同情されたい訳ではなかったので、藍は明るく笑ってみせる。
「でも、くれよんは握れるんだ。ほら、りんご」
「……一つ変なりんごがあるよ」
「この綺麗なのは七瀬が描いて、曲がってるのが藍でしょ! 大体、なんで緑色なのよ」
一瞬の沈黙の後、みんなに笑顔が戻ってくる。藍はほっとして会話に混ざる。
「前衛的なのよ」
「やっぱり藍は体を動かしてる方がいいよ。どう、リハビリに中庭で遊ばない」
早速のサボりの誘いに藍は呆れた表情を隠せなかった。けれど、向こうにも一応言い分があるらしい。
「私たち、提出する作品はもうできてるの。だから、ここにいても邪魔になるんだよ」
「えー、でも」
渋る藍だが、どこからか鋭い視線を感じて反射的に振り返る。そうすれば、教室の隅にどこか行けという強烈なオーラを纏った少女を見つけてしまう。
「私がうるさくしてる訳じゃないのに……」
「沢野さんがいる限り先輩たちはお喋りを続けるでしょうね」
七瀬が肩を竦め、遊びに出て行くしか方法はないと藍に向かって頷く。どうやら助け舟を出してくれるつもりはないようだ。もしかしたら、七瀬も面倒なお荷物の藍を追い出したかったのかもしれない。
「わかったよ」
「やった! じゃあ、藍は左手でね。なんか本格的になって楽しいな」
「え、バドミントンやるのー。怪我して休んでる人に優しくないよ」
渋々中庭に出た藍だったが、遊びの内容を聞いて腰を引く。 けれど合図がないままシャトルは高く打ち上げられ、藍は頭上を通過しようとする羽を素早く捉える。
左手でも的確に芯を捉えれば力をこめなくても高く遠くへ飛んでいく。
「でもさ、やっぱり天才同士わかりあえるんだね」
「天才って誰が?」
続くラリーに乗せて会話が始まる。
「藍と七瀬」
「私は天才なんて凄いもんじゃないよ。でも、七瀬ってそうなの?」
山なりにシャトルを返せば、強く打ち込もうという動作がから回って相手が空振りする。
「そうそう。コンクールで何度も賞をとって、将来は美大だ留学だって騒がれてるよ。でも、最近スランプみたいでさ。ぶさっとしてたんだよ」
「いつも不遜な態度ではあったけど、特にあたりが強かったね。でも、藍と楽しそうにしててよかった」
ルールは特に決めていないため、会話と共に打ち合いに参加する人数が増える。
「えー、あれ楽しそう? 馬鹿にされてたよ――えい!」
まったく知らなかった事実に感心しつつ、藍は自分ばかりが有名だと思って驕っていたなと恥ずかしく思う。そのほんの少しの動揺を隠すため、手首のスナップを効かせて鋭い返球をする。
「ちょっと、左手でもそんなの打てるの!」
「ははっ、なんか打てた」
自然に笑みが溢れて、もっと打ちたいと気持ちが高まる。
「右ならもっと……」
白い包帯を見つめれば、赤がまだ視界をちらつく。けれど痛みはない。無意識に右手を激しく動かしながら遊んでいたというのに、手の平は疼くこともなかった。
「あー、七瀬スケッチしてるの!」
包帯に手を伸ばしかけた時、友人たちが美術室の窓辺に走り寄る。七瀬は迷惑そうにするものの、先輩には逆らえないのかスケッチブックを盗られていた。
「さすが、上手だね」
「どれどれ?」
藍が近付いて覗き込むと、そこには鉛筆で描かれたバドミントンをする藍の姿が様々な角度から描かれていた。
「へぇ、すごい! これ、私の課題にしたらいいんじゃない」
「いや、すぐばれるって。それより、美人度高く描きすぎじゃない?」
美化されていると茶化す声がすると、七瀬はむっと口を引き結ぶ。 からかわれて恥ずかしいのだろうと藍は話題を変えられないか思案する。しかし、気遣いは無用だったらしく七瀬が首を振る。
「僕は嘘を描きませんよ」
あまりに真面目な態度のため、からかいの声はピタリと止む。
「たくさん写真を撮られたけど、そのどれよりも良く描いてもらえてる気がするな。ありがとう。私、また楽しそうにできてるって気付けた」
藍が小さく呟くと、みんなが肩を叩いてくれる。
「汗かいたー! 飲み物買ってこよう」
「それなら、自分で買ってきたスポーツドリンクあるじゃないですか」
「いいの、買ってくるから」
先程無理矢理押し付けたペットボトルを七瀬が取り出すも、藍は即座に断りを入れる。どうしても、少し一人になって考えたかったからだ。
相変わらず太陽はギラギラとしているし、体育館やグラウンドからは気合いの入った声が聞こえてくる。だが、もうそれらを不快に感じることはなくなっていた。
「遊びでやれば楽しめるのにな……いつから私は楽しめなくなったんだろう」
友人たちとしたバドミントンは楽しかった。けれど、部活に戻っていいものか藍は決断できない。今日聞いた仲間の発言だけが引っ掛かっている訳ではない。
快挙
女子高生
可愛い
年齢制限のない大会で勝ち進んだのは偶然ではないが、必然でもない。注目を集めれば、また次の快進撃が期待される。
けれど期待と失望は表裏一体で、それは人の態度と同じように簡単にひっくり返ることを藍は知っている。
結局気持ちの整理はつかないまま、藍は美術室に戻ってきてしまった。飲み物を買ってくると出掛けたが、何も買っていないことに気付き一瞬迷うがそれは杞憂に終わる。
「あれ、誰もいないの?」
教室を見回すと、黒板に伝言が残されていた。どうやら顧問の先生に呼び出されて職員室へ行ったらしい。
「何してよっかな――あっ、スケッチブックでもみてよう」
パラパラとページを捲っていくと、今日のスケッチ以外のものもある。藍はそれを食い入るようにみつめた。
「厳しい顔、緊張してる顔に泣き顔……そして笑顔。なんだ、私笑ってたじゃん。しかも、今よりももっと良い表情で」
指で一つ一つなぞるって確かめるように頷く。
七瀬は嘘を描かないと言った。
「それなら、楽しむためにはまた戦わなくちゃ」
困難を乗り越えた先にあった笑顔を見に行きたい。藍は右手をゆっくりと持ち上げて握ったり、開いたりしてみる。
痛みはもうない。ただ、少し怖いだけ。
包帯を取り去ってポケットに突っ込めば、何かが指にあたる。
「赤……」
握り締めたせいで粉々になった赤のくれよんの残りがポケットから現れる。
頭の中を駆け巡る赤にめまいを覚えるがぐっと踏みとどまる。迷わないと決めて足に力を入れ、前を見据えれば真っ白なキャンバスが藍の心を落ち着けてくれる。
藍は深呼吸してから意を決したように右手を動かす。やはり痛みはなく、思い通りのことができた。
「よし」
満足すると藍は美術室のドアを開けた。それは帰るためではなく、逃げ出した体育館に戻るためだ。
「あれ、藍帰るの?」
職員室から連れ立って美術部員たちが戻ってくる。黙って去るのも悪いと思っていたため、藍はちょうどよかったと手を振る。
「私も部活に行くね」
高く上げた藍の右手に包帯がないことは、みんなすぐに気付いただろう。
「結局、課題やらなかったですね」
「うん。でも、多分私が部活に復帰すればチャラだと思うから」
七瀬はそれもそうかと肩を竦めて藍を見送ってくれる。
「それじゃあ、お元気で」
このまま別れればもう接点は少ないというのに、七瀬はあっさりとしたものだ。だから、藍は去り際に七瀬のシャツの裾を引っ張った。
「ねぇ、七瀬も楽しんで。私、絵は下手だったけどお絵描きの時間にサインを書くのは楽しかった!」
「はぁ」
急に脈絡のないことを言われて七瀬は戸惑っているようだが、藍はそれ以上の説明はせずに走り出す。
呼び止められることはなく、藍は勢い付いたそのままに体育館の扉を開けて部活に復帰した。
***
白熱灯の灯りが熱気に揺れて、こもった空気が重苦しく体にまとわりつく。
声援か野次か、大きな声はやけに遠くから聞こえているようで頭の中を通り過ぎていく。
「マッチポイント 20 ―19」
崖っぷちなのに口角が上がる。意地の悪そうな笑い方はきっと望まれたものではないことを藍は知っていたが、そう考えれば考えるほどに笑みは深くなる。
強烈なスマッシュを辛うじて上げるラリーがもう何度続いただろう。まだ可能性は残っている。あと一点追い付けば、二点差がつくまでのサドンテスだ。
拾う、拾う、拾う。
いつか訪れるチャンスを待ってひたすらスマッシュを上げ続ければ、やはり甘い球がきた。
「マッチウォンバイ山下。 21 ―19 」
藍が放ったスマッシュを相手は触ることはなかった。ネットに引っ掛かったシャトルがゆっくりとコートに落ちて試合終了。
天井を見上げて汗を拭っても、握手をするため差し出しても藍の右手はもう赤くはない。
「負けちゃった」
「練習不足だよ!」
「もう一回鍛え直し」
悔しさと、ほんの少しの清々しさに藍が口元を弛める。
部活に復帰して数ヶ月、なんとかレギュラーには戻ったものの練習不足は必至だった。けれど、努力は仲間も認めるところがあったようで以前のように良好な関係を築けていた。
「沢野! 美術の先生が呼んでいたぞ。ちゃんと課題は提出したのか?」
「えっ、免除にならないですかね。部活にも参加していることだし」
「公休の代わりだから無理だろう。休憩中、職員室に行ってこい」
顧問の先生に告げられて、藍は当てが外れたと職員室を目指す。
「失礼します」
「おぉ、沢野。練習中に悪いな。課題のことで聞きたくてな」
恰幅の良い美術の先生が藍に気付いて手を振ってくる。
「すみません、課題やってな――」
「七瀬がな、コンクールの絵を手伝ってもらったから課題は免除してやって欲しいって頼んできたんだ。いやー、助かったよ。七瀬はコンクールに出す絵が遅れていて、どうしようかと悩んでいたんだ」
「手伝いですか……邪魔になってなかったのなら良かったです」
特に七瀬の役に立っていた自覚はないため、藍は首を傾げながらも曖昧に笑っておく。それでも否定しないのは、手伝っていないと告げて課題を命じられたら面倒だからだ。
「作品、見たか?」
「いえ」
部活に復帰してから、藍は一度も美術室には足を運んでいない。
あのキャンバスに七瀬は何を描いたのか、藍は興味を持った。
「それならぜひ見ておけ! 美術室の鍵は開いてるから」
どうやら課題は免除のようで、藍は足取り軽く職員室を後にする。
「美術室の方から戻ろうかな」
少しだけ遠回りしようと、藍は体育館とは逆方向へ迷わず進む。
秋風が黄色く色づいたいちょうの葉を運んできて、ついでのように汗をかいたままの藍の身体を冷やす。季節はすっかり移り変わっていて、紅葉する中庭に隣接する美術室は藍の知らないものに変わっていた。
「どれかな――って、これ!」
いくつも置かれていたキャンバスの中で、七瀬の作品を見つけるのは簡単だった。
赤で表現された熱気、赤いユニホーム、赤のラケット。
タイトルは『サイン』
藍がスコアシートにサインし、顔を上げた一瞬の笑みを切り取った絵が間違いなく七瀬の作品だろう。
「私の赤の上に描いたんだ……確かに協力したかもね」
美術室を最後に訪れた日、藍は七瀬の真っ白なキャンバスにポケットから取り出した赤のくれよんでサインして帰った。スランプだと言う七瀬に楽しんでと伝えたくて行ったことだが、どうやら彼は藍のメッセージを受け取ってくれたようだ。
背景やユニホームの赤で塗り潰されてサインはわからなくなっているが、藍は自分と七瀬だけが知っている場所をそっと撫でる。
「嘘、描かないって言ったくせに」
「僕、嘘は描きませんよ」
ポツリと呟く藍の後ろに、いつの間にか七瀬が立っていた。
「私、勝ってないよ」
負けちゃったと力なく笑えば、七瀬はむっとした顔で首を振る。
「まだ、わからないじゃないですか」
「まだ……そっか、まだわからないね」
「はい」
たったそれだけの短い会話だった。
藍は七瀬に約束などしなかったし、七瀬もエールを送らない。
七瀬の描いた絵がすべての答えだった。
***
「20―15、マッチポイント沢野」
藍は落ち着いて息を吐く。そうすれば、味方の声援が良く聞こえ、相手の焦った表情がわかる。
ライン際に浮き上がらないよう攻めこんだ低いサーブを相手は打ち上げるしかなかった。
左手を高く上げた目測を付ける。ラケットを伸ばすと、当然のことながら右手が頭の上に見えた。
赤
藍が思い出したのは、怪我をした日の赤ではない。
「マッチウォンバイ沢野、21―15」
審判に歩み寄りスコアシートにサインをする。
なんの変哲もない黒のボールペンが、藍にだけは赤いくれよんに見えて小さく笑う。
「ほら、嘘じゃなかった」
生意気な七瀬の声が聞こえた気がして藍は顔を上げ、絵とそっくりな満面の笑みを浮かべた。