漆
俺にあてがわれたのは、城の片隅のおせじにも客間とは言えない一室だった。
素性が不明な立場としては贅沢を言うどころか、城内に入れてもらえるだけでもありがたかった。
やや手狭な部屋には布団一式と膝丈ぐらいの机があり、その机にはいくつか書物が置いてあった。
その書物をぱらぱらとめくると、大きな字でひらがなが書いてあったり、簡単な算数だったり、うさぎや亀の絵が描いてあったりで、いわゆる小学校の教科書のような書物だった。
つまり、ここでこの世界の新しいスタートを。と。
あんな事を言ったのにも関わらず、帰蝶の優しさが素直に嬉しい。
と、同時に自分の腹黒さを恨んだ。いずれ、本当の事を打ち明けないと・・・機会があればいいが。
それからの俺は普段の高校生活では有り得ないほどの勉強をした。
何だかんだで、ベースが日本語なので割と理解は早かった。
その事が口伝で城内の噂になり、たまにこの部屋へ様子を見に来る輩が現れた。
どの時代でも興味本位の野次馬は居るらしい。
その連中に、俺はまだおぼつかない言葉と身振り手振りで、帰蝶に拾われた事。そして帰蝶に感謝している事を伝えてくれと頼んだ。
そうやってコミュニケーションを取るうちに、ごくごくたまに仕事を請け負うようになった。
仕事と言っても大それた事ではなく、簡単な経理処理だった。
ただ、この時代、経理処理ができる人間とそうでない人間がはっきりしており、急に手一杯になると、こちらに仕事が回ってくるという案配だ。
俺は、何とかこの時代での生き場所を見つけた。全ては帰蝶のおかげだ。
急に帰蝶に会いたくなった。
だが、それはまだ叶わない。
まだ、俺は現代への戻り方を知らない。