遺恨試合
江戸を東へ出外れたところに砂村がございます。元々深川は江戸の朱引き外。つまり、江戸ではなかったのでございます。深川の東外れが木場でございまして、その東が砂村でございます。その砂村に隣接している八郎衛門新田。その北外れに弥勒堂がありまして、そこが遺恨試合の場となっていました。
当初は日下部様と上総之輔の二人だけのはずでした。しかし、日下部様が末法正直に約束を守るはずがありません。自分が勝つところを誰かに見ていてもらわねばいけません。普通に考えれば、いつでも助太刀を頼めるように屈強な若者を揃えるところですが、日下部様はどこまでいっても女でございました。『まゆ桂』の芸者衆を呼び寄せたのです。自分が勝つと思い込んでいるからこそできることでした。
誰が気を利かせたのか杭が打ってありまして、縄が張ってあります。そのようなものがありますと、縄張りの外ならかまわないということで、びっしりとゴザが敷かれました。まさに花見見物でございます。もみ手をした目つきの悪い者共が、場所をさがしてウロウロする客をつかまえては席を売ります。懐に余裕のない人も大勢いますから、すでに黒山の人だかりができていました。
力丸などは昨夜から泊り込みで場所取りをしていました。でなければ、特等席など手に入れることはできなかったでしょう。明け六つの前には、お店者らしき者が良い場所を選んではゴザを敷いていきます。そのあとで仕出し屋が重箱を置いてまわります。ゴザには目印のために華やかな内掛けが翻っています。
そのうちに甘酒売りが現れました。次いで蕎麦屋も現れます。寒さしのぎの唐辛子売りが店をひろげれば、焚き火に軽石を投げ込んでいる者もいます。どうやら温石を売ろうとしているようですね。
「拙者親方と申すは、お立ち会いの中に御存知のお方も御座りましょうが、御江戸を発って二十里上方、相州小田原一色町をお過ぎなされて、青物町を登りへおいでなさるれば、
欄干橋虎屋藤衛門、 只今は剃髪致して、円斎となのりまする……」
外郎売りが滑らかに口上を述べているすぐ隣には南京タマスダレが軽妙な客寄せを始めるしまつです。
「これはまた……とんだお祭り騒ぎでやすね」
弥欷助が呆れていますが、重箱だけならまだしも、七輪まで持ち込んだ自分たちのことは別格とでも考えているのでしょう。
「あいすいません、あいすいません……」
力丸が露払いとなり、律が続きます。その後から女将が腰を低くして群集の中を分け入りました。
「見ろよ、おい。えれぇ艶っぽい姐さんが行列つくってるぜ」
「えっ、どれどれ。あっ、ありゃあお律ってぇ売れっ子だぜ。いい女だねぇ……」
「後から来る大年増知ってっか? また上品な女だねぇ、ゾクゾクってくるぜ」
「さしずめ、女将ってとこだな。だけどどうでぇ、えぇ、後から後から続いてよぅ。大名のお行列みてぇだな」
「馬ぁ鹿。お腰元衆があんなに色っぽいわきゃねぇだろ。おっ、半玉もきやがった」
「お、おい。俺、あれでいいや。一番背の低いの。色白でよぅ、華奢だろ? 俺、ああいうのが好みなんだ」
あからさまに話し合う罰当たりもおりまして、ざわついていますが、芸妓たちは慣れたもので力丸に続いて特等席に腰を落ち着けました。
芸妓衆の登場で鳴りを潜めていた物売りが、思い出したように売り声を張り上げますと、辺りに喧騒が戻ってまいりました。
弥欷助は、持ち込んだ七輪で茶を沸かしています。試合が始まるまでの寒さしのぎにはお茶が一番のようでございます。
突如、地響きがあたりを圧し包みました。賑やかだった群衆が急に黙り込み、不安そうにあたりを見回しますと、遠く海っぺりの方角に土埃が舞っています。その中心で何かが動いておりました。
ドドドドドドドド……
土埃を巻上げて駆け来たったのは騎馬武者の集団でございます。その数、およそ三十。正面から風が吹き付けるために誰も寄り付かないところに勢揃いすると、新たにヒズメの音がしてまいりました。
パッと割れたところに登場したのが、水無月上総之輔でございます。
墨染めの上下は筒袖でございます。足には草鞋、脛当てを巻いているので身体の線がくっきり見えております。袖口もしっかり絞られ、手甲を巻いておりました。そして、刺し子の上に毛皮で作った羽織を翻すように、三菱の模様がある鹿毛から降り立ちました。
「いやぁ、えらいまた見栄えのする登場やんか。ちょっと、どないしょう、ここがキュウってなってしもたがな。田舎者や思ぅたけど、よう見たらえらい男ぶりやないの。一花はんに万里永はん、それと夜兎はん。あんたら、あのお人に喰らい付くんやで。ふらふらんなるまで吸いつくすんや、わかってるな」
女将が見せる鬼の素顔でございます。
「せやけど、殿さんどこにいたはんのや、早ぅしてもらわんと寒なってきたがな。お茶ばっか飲んでたら下が近ぅなるし、辛気臭いなぁ」
すっきり晴れた空でございますが、ところどころに雲がかかってございます。その雲が陽を遮ると、とたんに寒さがおしよせてきました。
ちょうどそのとき、日下部様は温石を買っているところでございました。それをしのばせておけば、保温はもとより、防具の代わりになると考えたのです。
懐にぎっしりと温石を詰め込んだ日下部様は、その巨体を広場に進めました。
桟敷席から拍手がおこります。その拍手に負けまいと外郎売りが声を張り上げて、まさに縁日のようでございますな。
ライジンは、罰当たりにも弥勒堂の中に入り込み、内側から閂をかけておりました。そこからだと全景が手に取るようでございます。
中央に進み出た日下部様に黄色い声援が盛んにかかっております。その声の主を見てみようと視線を這わしたライジンは、見てはいけないものを見てしまいました。
粋な芸者衆が弁当を広げて見物しておりますが、その中に忘れもしない顔を見つけたのでございます。あろうことか、その横には男ぶりの良い若者がいまして、それと必要以上に親しげにしているのです。
「凛吉……」
誰もいないことを幸いに、小さく女の名を呼んでいました。
「これより、日下部富三郎良介と、水無月上総之輔の遺恨試合を行う。ただし、果し合いではないので、くれぐれも怪我をさせぬよう心していただきたい。本日の立会いは、琉球国からの慶賀使としてお越しになった勝連安司様に随行された矢口殿がお引き受けくださった。くれぐれも見苦しいことのないようにされたい」
風除けに張られた幔幕の中央、床几から立ち上がった午雲さんがよく通る声で第一声を放ちました。
「はい、大和の皆さんこんにちはー。今、ご紹介いただいた矢口ですぅ。今日は思い切り闘って決着つけようねー。ただ、お願いがありますぅ。卑怯なことは、やめようねー。琉球では、卑怯なことをして勝っても、外を歩けないよー。勝負がついたら、これまでのことは忘れようねー。恨みもなにも、捨ててしまおうねー」
抑揚のせいなのか、軽い挨拶でございました。挨拶が終わると同時に、また陽が翳り、とたんに矢口様の頬に鳥肌が立ちました。
「おそれながら、失礼ではございましょうが、これを膝の上に」
上総之輔は、羽織っていた毛皮を矢口様に差し出しました。
「あらぁ、温かいねー、ありがとうねぇ」
殊のほかお喜びでございます。
「卑怯なり、水無月。賂で手心を求めんとてか。ならばこちらにも考えがある」
日下部様は、上総之輔に厳しい言葉をぶつけると力丸を呼び寄せました。そしてなにやら命じると、力丸が小豆と夜兎を連れてきました。
「矢口殿、湯たんぽにござる」
二人を矢口様に押しやりました。何のことやらわからなかった矢口様ですが、二人が両脇にぴったりくっついてくれると、じんわりと体温が伝わってきます。世間でいえば早熟な嫁という年頃。悪ぶっても初心でございますし、肌に張りと艶がございます。かえって艶消しにさえなる薄化粧がきれいにのっております。若いだけあってまことに温かい。鬢つけ油の匂いが鼻をくすぐるのか、矢口様は目尻を下げて、ひっしと二人を抱き寄せました。
「うぬっ、何と卑怯なる振る舞い、勘弁ならぬ。おそれながら、可愛がっていた兎が死に、土に返すも可哀相と襟巻きにしたものでござる。首を温められませ」
上総之輔は、襟元から純白の毛皮を取り出すと、矢口様の首に巻きました。
「これも温かいねー」
「く、くそう……。力丸!」
次に連れてこられたのは河美子でした。これを午雲さんに寄り添わせます。
「おうおう、ぬくい温い」
午雲さんは大喜びで、手文字を始めました。
『こんやこそ』
『だぁめ』
河美子が午雲さんの誘いを笑いながら受け流しています。
『何を勿体つけておるのだ。色よい返事をせぬか』
日下部様がしきりと合図を送るのですが、河美子はまったく気付いておりません。
「さて、始める前に持ち物を調べる。定められた獲物以外は没収するからな」
午雲さんは、まず上総之輔を呼びました。
頭の先から足の先まで、妙なものを隠し持っていないか検査です。
「これ、これはいったい何だ?」
帯の後ろに隠してあったものは、撒きビシでした。他にも、帯の中に車剣が忍ばせてあり、襟をさぐれば、分銅のついた細い鎖が出てきました。そして手甲で手が止まりました。
「籠手を守る防具にござる」
手甲の上に、太い鉄棒が縫いつけてありました。およそ三分角、長さは四寸ほどありまして、しかも、片方の先は尖っています。
「では、どうして抜けるようになっておるのだ?」
「いや、そ、そうせねば手首を反せなくなりますから」
上総之輔は、大きく開いた手をヒラヒラさせてみせました。
「ところで、反対側が突き出ているのはなぜかな?」
「それは、……咄嗟の時に抜き取り易いように、で、ござる」
「咄嗟とは?」
「……」
「ところで、このような武具を使いこなすとなれば、並大抵の手だれではあるまい。どうかな、一間も離れたところから、三分の板を抜くくらいやってのけような」
午雲さんは、感心したように棒を手にし、何気ないふりをして訊ねました。
「なんの、二間離れて抜く者は稀におり申す。が、手前は三間でも抜きまするぞ。いや、その爽快なこ……」
得意になって説明しながら、うまうまと白状させられたことに上総之輔が気付きました。
「……没収じゃ」
「さて、日下部殿、鉢巻に挿してある小柄を取りなされ。それと、最前から足を引き摺っておるが、如何されたかな?」
「いや、摺り足が基本にござれば」
「と申してお主、試合に臨むに草履履きは怪しかろう……。脱がれよ」
「何も隠してはおらぬと申すに」
「そうかな? では、簪を挿しておるのは、何ゆえ? 衆道にござるかな?」
「しゅ、衆道など気味の悪いこと」
「やはり小柄であろう? それと、袂が重そうじゃ。中身を出しなされ。それに、これもだめじゃ」
裏に鉄板を貼り付けた草履や、目潰しの玉、そして温石もすべてはきだすことになってしまいました。
「温石は、我らが使わせてもらいますぞ。それにしても、両名とも卑怯の度がすぎる。恥を知りなされ。まあ、今更ではあるがのう。よい。では、まず舌刀勝負をいたす」
「舌?」
「刀にござるか?」
「左様。舌鋒鋭く相手の気合を殺ぐのだ。存分になされよ」
「……」
「……」
「何も言うことはないのか? 良いのだな?」
「そもそも、何も知らぬ者を賭け事の場に引き込み、小面憎いことにわざと勝たせ、やがて抜き差しならぬようにする。そのようにして己の私腹を肥やすなど言語道断。天誅をくわえてくれるわ」
舌刀勝負など感えていなかった日下部様は、それでも何か言わねばと焦っていました。ましてこういう場では早いもの勝ち。咄嗟に口火を切ったはよかったのですが歯切れが悪い。先を取るには力不足。
「これは推参な。知恵ある者の忠告を無視し、目先の欲に奔ったが故の大損に気付かぬとは噴飯ものよ。あまつさえ、己の非を他に擦り付けようなど、自業自得であろう」
対する上総之輔にとって、己の失敗をかくそうと目論んだ日下部様に非があることは明々白々。堂々としていれば良いのです。
「むむむむむ、年端がゆかぬと思えばこそ大目に見ておったに、捨ておけん。青い尻をひっぱたいて赦してやろうと思うておったが、勘弁ならん。覚悟いたせ」
「なんと笑止な。腎虚と聞き及びしゆえ、哀れと思うて黙認しておったを知らいでか。存分にかかってまいれ、返り討ちにしてくれるわ」
「おのれっ」
「言い返すこともできぬか。さもあろう、腎虚だからな。今に見よ。赤い玉がポロリと出てくるそうな。もう出掛かっておるのではないか? それ、その慌てよう、図星であろう。そうなれば貴様の毒牙にかかる女はいなくなる。天晴れ、世のためになることを初めてできるのだ、ありがたく思え」
「ぬぅぅぅぅ、ゆるさん。絶対に許さんぞ」
日下部様は激しく動揺して、身体をブルブル震わせています。そして、静かに鯉口を切りました。
「それまで! 舌刀勝負はこれまでとする」
午雲さんが大声で制止させました。
「なにゆえか! このような問答では拉致が明かぬ。一刀の下に斬り捨ててくれるわ」
よほど腎虚が応えたのでございましょうか、日下部様は蒼白になっておられます。
「これより得物の検査を行う。約定に従い、刃引きかどうか確かめる。なお、刃引きであっても刺すことは禁ずる。まずは日下部殿、これへ参られよ」
北からの風が強くなってきました。時折ですが、霧のような雨がしぶいてまいります。得物検めが終わった二人は、広場の真ん中で対峙しました。
バタバタバタバタ
日下部様の袴が風を受けてはためいています。対する上総之輔は、位置取りに失敗して強風に目を細めていました。ところが、大柄の日下部様は、まともに背中から風を受けています。すでに膝を痛めている日下部様は、突風に煽られて上体を大きく前後に揺らしていました。対する上総之輔は、小柄なことを利用して日下部様を風避けにしています。目を細める向かい風は、馬の遠乗りで慣れていましたから、群集が見るほどに不利な位置取りではなさそうです。
「馬庭念流、まいる」
クンと鯉口を切った日下部様が二尺三寸五分の業物を抜き放ちました。下げ緒を鞘にからげてゆっくり正眼に構えます。ところが上総之輔は、柄に手を添えただけで抜こうといたしません。静かに腰を落として前のめりになりました。ただ、草鞋の中で親指が忙しなく動いています。
「臆したか、水無月」
正眼から大上段へと構えを変えた日下部様が気合を発しました。
ジリッ、ジリッ、少しづつ間合いがつまっていきます。
「でぇーぃ」
大きく一歩踏み込みざま、裂帛の気合とともに打ち下ろした袈裟掛け。が、まだ遠い。一尺も離れたところを切っ先がなめます。
打ち下ろす気合を合図に、上総之輔は左へ一歩飛びました。そしてすぐに間合いを取ります。
念流は型稽古が基本にあります。相手が右に変ったらどうするということも考え尽くされていました。若い頃、身体に覚えさせたことは無意識に発揮されます。ましてや、衆目の中、刃引きとはいえ本身での勝負です、考える以前に身体が動いていました。ぐっと柄頭を捻って剣尖を上総之輔に向けます。左足を引いて立ち上がると、じりじりと正対し、型通り正眼に戻しました。
次に振りかぶる時が勝負だと上総之輔は思っていました。腕が視界を奪う一瞬こそが勝負だと。飛び込みざま、胴を払えば一瞬で決着がつくと。懐に飛び込みさえすれば相手は攻撃ができなくなります。上げかかった腕を下ろすには、一瞬の遅れがでるものですし、急に間合いが詰まると討ち下ろせなくなるでしょう。だとすれば、十分余裕をもって勝てると考えました。
上総之輔の思った通りでした。構えたままじっと動かないことを侮ってか、相手は上段に構えを変えようとしています。剣尖だけじわじわと上げていた動きが一瞬止まり、腕が持ち上がりだしました。
「きぇーーーー」
上総之輔は、奇声とともに相手の懐に飛び込みました。もうぶつかるような間合いではじめて刀を抜きました。
しかし、飛び込むのを知った相手は、半歩退がりざま、防御に変じたのです。
見守っている群衆がどよめきました。刀を抜かずにじっと隙を窺っていた上総之輔が異常な早業をみせたのです。しかし、それは日下部様に弾き返されてしまいました。そして、上総之輔の得物を見て驚いてしまいました。
一尺五寸はあろうかという柄にくらべ、刀身はどう贔屓目に見ても一尺少々。まるで長刀のようでございます。脇差しほどの刀を長く思わせるために、わざわざ長い鞘に挿していたのです。しかし、短いのは刀身であり、柄を含めた長さは普通の刀とさほどかわりません。それに、有利なことがあります。刀身が短ければそれだけ素早く抜くことができますし、全体として軽いのです。しかも、鍔を支点とするなら、微妙な取り回しができます。
上総之輔が抜かなかったのは、抜刀術を意識していたからかもしれません。とはいっても、見物人はそんな斟酌などしません。遠慮のない罵声が満ちました。
「なんだい、ありゃ。脇差じゃねぇのか?」
「馬鹿野郎、匕首にきまってらぁ」
「ちっちぇえなぁ」
「だけどお前、馬に乗って登場したんだぜ。馬並みとは言わねぇけどよ、せめて並の大きさでなきゃあな。あれじゃあ、こ、子供みてぇだぜ。アハハハハ」
それくらいなら構わなかったのです、男の軽口ですから。いくつかぶん殴ってやればいいのです。しかし、あれはいけません、あれは。
「ちょっと見たかぃ、短小だよ……。いやだよぅ、あんなの」
「そうそう、上手い下手は仕方ないとしてさぁ、短小ってのは嫌だねぇ」
年若い女の情け容赦ないからかいは堪えました。顔が真っ赤になりました。
「うぬっ、其の方、なかなか抜かぬと思えば、短小であったか。みすぼらしいゆえ抜くことができなんだか。何とか申してみよ、短小ばらが」
「や、やかましい! 短小のどこが悪い。ちゃんと子もできたわ!」
子ができたとは……、上総之輔はいったい何を考えているのでしょう。
「そ、それで子ができた。これはけっさくだ。犬でも猫でも子を産むわ」
「た、短小だって役に立つわい。いくら長かろうが、腎虚では役にたつまい」
「じ、腎虚ではないわ、腎の病だ」
「それが腎虚ではないか」
「ち、ちがう! 断じてちがう」
「腎虚、腎虚、腎虚」
「くっそう……、短小短小短小、短小!」
その時です、とつぜん黄色い声が上総之輔に手ひどい攻めを始めました。
「やーぃ、短小の旦那。都々逸みたいにできませんかねぇ」
「ちょいと誰か、相手しておやりよ」
「厭でござんすよぅ姐さん。硬さが肝心だけど、短小ではねぇ。姐さんに譲りますよぅ」
「ちょいと、お足積まれても厭だよぅ。誰か引き受けておやりよ、お足出すからさぁ」
大年増が叫ぶのなら許せましょう。しかし、そう言ってあざ笑っているのは、年増盛りと半玉ではありませんか。上総之輔は、顔から火が出そうになりながら怒鳴りました。
「やかましい! アバズレがゴチャゴチャ言うな! 妻はなぁ、妻は感じておる。十分満足してるんだ!」
「男って馬鹿なのよねぇ。騙されてるのに気付いてないなんて。槍でぶすりとされたいのが女さね。お足を配ばなくなったら一服盛られるに決まってるじゃない。キャハハハハ……」
「みたか、若い女にまで……」
からかわれという言葉を、日下部様はのみこみました。というのも、上総之輔の背後に陣取っていた馬が一斉に立ち上がったのです。前足を高くかかげ、隆々としたものを見せつけました。
上総之輔を侮蔑することを忘れ、自信を失いかけている現実に直面したのです。
「ウヌヌヌヌ……」
バリバリと歯軋りを鳴らしました。その時です。突然誰も考えもしなかったところから怒鳴り声が響きました。
「この短小野郎! 人のことを下手糞だなんて笑いやがって、自分は惨めなものじゃないか。なんだい、短小野郎!」
近そうで遠い、はっきり聞こえていながら、妙に声が震えています。一声叫んだあとに、さめざめとした嗚咽が続きました。それが次第に忍び笑いとなり、ついには哄笑となりました。
「下手糞だよ、……あぁ下手糞さ。始めも終わりも気付いてもらえないような下手糞さ。だけどなぁ、大手を振って銭湯に行けるんだ。手前ぇとは違うんだよ、馬ぁ鹿。よ、よくも馬鹿にしてくれたもんだ。アーッ、ハッハッハッハッハ。か、書いて……、書いてやるから覚えとけ。江戸中にばら撒いてやる」
陰々と続く怨嗟は、広場の外れ、弥勒堂からでした。
ダダダダダッ……
食いしばった唇から血を噴出しながら、上総之輔は堂へ奔りました。
ダンダンダンダンと扉を叩く音が小さく伝わってくるだけで、何を言い合っているのか、扉を開けようとする攻防が見えるだけです。
ヒャッヒャッヒャ……
引き攣った笑い声がしました。
「江戸中にばら撒いてやる……いい気味……ァミロ……。もう人前……ヒィーッ、ヒッヒッヒッヒッヒ」
「やれるもんなら……、お前の秘……てやるからな。お前なんか、張り……にだって敵わない……見てない……吉が来てる。情夫が……」
ところどころだけ声が伝わってきますが、あまりに途切れ途切れなので何を言っているのかわかりません。
「いやぁーーーーー。嫌だいやだ、聞きたくない」
絶叫が途絶えてしばらくすると、腑抜けのような男が出てきました。
上総之輔は、幽鬼のように頼りなげな男を追い立てるように自分の応援団にあずけ、乾いた鼻血を拭いもせずに日下部様に対峙しました。
「それまで! 双方、刀を引け」
まだ決着などついておりませんが、午雲さんの命ならば従わねばなりません。
「矢口殿が裁定を下された。双方の闘いぶりをみてのことゆえ、よっく承れ」
「それでは裁定を下しますが、日下部殿、歯軋りは止めようね、歯茎から血がでるよー。水無月殿も落ち着こうねー、血圧上げちゃだめだよ。冷静に、れいせいに。ご両人、初めに言ったことを覚えてるよね。卑怯な振る舞いはダメと言ったよー。まず、水無月殿からいこうかねー。卑怯な道具はだめだと言ったのに、隠し持ってたねー。撒きビシが十個もあったよー。車剣が五枚と、分銅のついた鎖。それに、手裏剣が八本もあったねー。全部で二十四だねー。次に、舌刀で腎虚と言ったよー。身体の不具合を言い立てるのは、男のすることじゃないねー。赤い玉も、同じだよ。全部で三回だね。立会いの最中にも五回も言ったよー。こんなこと言われると、男として自信なくしてしまうよー。全部あわせると、三十二だねー」
午雲さんは、矢口様の言ったことを手元に書きつけておりました。
「次に日下部殿だねー。手裏剣持ってたねー。おでこに三本、髷に五本。鉄の草履が二つに目潰し四つ。温石が十個もあったんだよ。全部で二十四だねー。舌刀は問題ないけど、立会いで侮辱したよ、七回も。短小ばっかりは自分でどうにもできないことなんだよー。だけど、子供ができたのだから認めてやらねばねー、そんな悪口は、男らしくないよー。大きすぎると邪魔だよねー、私も困っているさー。それはともかく、全部あわせると三十一だよー」
「お訊ね申す。その三十二とか三十一というのは、どういう意味でござるか」
日下部様は、腑に落ちない様子で訪ねました。
「卑怯の回数さー。水無月殿、三十二卑怯。日下部殿、三十一卑怯ねー」
「ならばこの勝負、拙者の勝ちということでござるか?」
「普通ならそうさー。だけど大事なこと忘れてるさ」
「大事なこと……とは?」
「袖の下使っちゃったよ。水無月殿、羽織と襟巻き。日下部殿、湯たんぽ三つ。それも加えると、二人とも三十四卑怯ということで、引き分けだねー。それと、賄賂は、ありがたく貰っておくからねー」
なんと、矢口様は引き分けと裁定を下したのです。そういえば、勝ち目のない勝負をコウにもちこめば、双方ともに手が出せなくなると言っていましたし、勝てなくても、負けなければとも言っていました。卑怯な振る舞いの回数で決着をつけるという前代未聞の裁定は、その言葉を見事に実行したものだったのでございます。
「おお、さすがは慶賀使様の随行をされるだけのことはある。名裁きですな」
午雲さんは感心しながら河美子の手を握っておりました。
「ちょっとー……、ちょっと待っとくんなはれ。賄賂はありがたく……、うっとこの妓ぉどすがな、まだ借金残ってますんやで」
タタタと駆け出してきたまゆが、食って掛かりました。
「それは日下部殿に言ってもらわないと、こっちは貰ってしまったのだからねー。二人とも、琉球で暮らそうね。琉球は、竜宮城みたいなとこさー。何人でも妻がもてるんだから、日陰者ではないさー。何も心配いらないよ」
矢口様は上機嫌で二人を抱えています。
「本当でしょうなぁ。本当なら、愚僧も同行したいが」
正面を向いたまま、午雲さんは唇さえ動かさずに囁きました。
「大丈夫さぁ、……ばれなきゃ。でへへへへへ……」
鼻の穴をパカッとおっ広げた矢口様は、自信たっぷりに呟きました。