訂正記事
何も知らずにいたのが上総之輔でございます。
日下部様の行状を暴露した瓦版を読んではおりましたが、それは行商での話題作りのためでして、特に何も思い入れなどはありません。読み終えて鼻の先で冷ややかな笑いを一度漏らしたきりでございました。実際のところ、行く先々でその話題にもちきりなので、うんざりしていたのです。
『なんてくだらない事を。長屋の嫁ぁと一緒じゃないか、まるで井戸端会議だ。まったく気楽でいいやな』
愛想笑いの裏では苦虫を噛み潰していたのです。思惑通りに欲望の世界にひきずりこんだことへの達成感など、当の昔に忘れていました。無理無体にさせたわけでもなく、虚言を弄したわけでもありません。すべて事実を見せただけのことでした。自分がしたことは、勝ちそうな組み合わせを教えたこと。そして、勝ったと浮かれている心の隙を突いただけのことです。心の隙を突くといっても悪いことなど一つもしていないのです。儲けを全部つぎこんでいたらどうなったかを教えただけ。ただ、儲けたと喜びながら、実は大損をしたと思わせただけです。たしかに論理のすりかえですが、それは世間話の範疇です。気付かない者が悪いのです。
ところが、馬鹿にして笑っておられないことが持ち上がりました。新たな瓦版が売り出され、ご丁寧にもその最後に『先の瓦版は間違いでございました。金座のお役人ではありませんでした』と訂正文が付け加えてありました。そんなことはどうでもいいことです。その代わり、駆け較べの勝ち順を操作している者がいると書かれています。それが誰を指すのか、知る者ならある一人を特定できる書き方でした。その名指しされた者というのが自分なのです。上総之輔にとって、笑ってすませることではありません。勝負の行方を操作するなどという嘘が広まってしまえば、誰も駆け較べに来ないに決まっています。そうなれば、町衆が一攫千金の夢を追えなくなってしまう。更には、自分の稼ぎもなくなってしまう。死活問題でございます。呑気に行商などしている場合ではありません。
世間の噂話を詰め込んだ引き出しを抱えて歩いているのが行商人です。津々浦々に耳をもつのが行商人。その気になりさえすれば、そこいらの十手者が尻尾を巻くほどの諜報収集能力があるのです。上総之輔は、仕事を放り出して情報集めに精出しました。
瓦版の版元がわかると、ネタ元を突き止めることなど造作もないことでした。風富屋のライジンに直談判する時には、ライジンの秘密すら掴んでいたのです。
「この瓦版、元ネタを仕込んだのはお前さんだそうですねぇ。いや、全部わかっているのですよ。ただねぇ、こういう嘘を書かれては困る人がおりますので、間違いでしたと世間さんに報せてはいただけないかと、ご相談にうかがった次第なのですが」
風富屋は、元柳橋たもと、米沢町三丁目に間口二間ほどの店を構えています。通りに面した二階建てで、中では十人ほどの職人が汗をかきながら版木を彫っていました。
上がり框に格子の衝立が立ててあり、腫れぼったい目を擦りながらライジンが姿を現しました。そこに突っ立ったまま、上総之輔の言うことを面白くなさそうに聞いています。小声で、しかも丁寧な物言いですので軽くあしらえるとふんだのでしょうか、ライジンは惚け通そうと考えたようです。
「仕込んだ……というのとは少し違いますが、お前様は?」
小指で耳垢をほじりながら、しかも突っ立ったままという横柄な態度でございます。
「はい。どう読んでも、私のことが書いてありますのでね。それで、おわかりになりましょう?」
行商をしている関係から、軽くあしらわれることには慣れていますが、そんな上総之輔でさえ鼻白んだくらいでございます。
「えっ、ほ、本人ですって? だけど、いくら本人だからって、ネタ元を話すことは仁義にもとりますからねぇ」
一瞬驚きはしましたが、本当に相手が真実を語っているか判断がつきません。ライジンは、疑うような目つきで次を促しました。
「ネタ元が誰かくらい想像はつきますよ。身の丈六尺のお侍でしょう? そんなことより、間違いでございましたと訂正をお願いしたいのですが」
「じょ、冗談はよしてくださいよ。それは紛れもない事実で……」
確かに日下部様は身の丈六尺はあろうという大男、大丈夫でございます。さりげなくそれを匂わせたことからして、案外本物かもしれない。ライジンの胸が一つドクンと打ちました。
「お調べになったのですね? 間違いありませんね?」
上総之輔は、穏やかに念を押しました。
「調べましたとも。だからこうして」
いやにネットリした目で見つめられ、ライジンは胸の鼓動がだんだん大きくなってきました。
「訂正は……できないと……」
「えぇ、できませんよ、訂正なんて。そんなことしたらあなた、風富屋は出鱈目を吹聴していると宣伝するようなものでしょう? 信用丸つぶれんなってしまいますよ」
面倒くさそうな素振りで提げ物を取り、スポンと小気味良い音をたてて煙管を抜き取ります。クリクリとタバコを詰めて火種を移すその手がわずかに震えています。身辺調査などしてはいまい。本当に調べたのなら、詳しい内容を語るはずだと上総之輔は考えました。そっちがそう出るのならこっちだって……。
上総之輔は、道々考えていたようにするしかないと心を決めました。
「……そうですか。なら仕方がありませんね。目くされ金にしかならないでしょうが、よその版元へ行って私の知っていることを売ってやるとしましょう。商売仇を追い落とすネタですからねえ、面白がって買うと思いますよ。では、邪魔をしましたね」
あっさりと納得してみせた上総之輔は、三和土に下ろしていた荷を背負い、会釈をしてくるりと振り向きました。と、同時でございます。
「お待ちなさい。商売仇と言いましたが、いったい誰の。私? 私のことを売る? はばかりながらこの私、人様に後ろ指さされる覚えなどまるでありませんよ、妙な言いがかりは止してください。いったい私が何をしたと言うのですか」
案の定、喰らい付いてきました。真鍮で作った火皿にカチンと煙管を打ちつけて、煙をプッと吐き出しました。
「いや、誰もお前さんのことだなんて言っちゃいませんよ。神楽坂の芸者に懸想した馬鹿がいるので、その馬鹿のことをね。いえ、ほんの気まぐれですからご心配にはおよびませんよ。されたことの仕返しをして、すっとしたいだけですから。お前さんにとっちゃ赤の他人、見ず知らずの人のことですからどうでもいいでしょう」
首だけ後ろに捻じ曲げてそう言うと、上総之輔は入り口の暖簾をぱっと開いたのです。
「ま、待て。待ってくださいよ、もし。短慮はいけません、短慮は」
あわてて素足のまま飛び降りたライジンが、上総之輔の袖を引きました。
「心得ておりますよ、どこかの番屋にも訴えてやりましょう。そうすりゃ江戸にいられなくなりますから。では、ごめんなさいまし」
真顔で追ってきたライジンを振り払うように一歩外へ出ました。
「だ、だからぁ、短気はいけないって言ってるじゃないですか。……わかりました。わかりましたから、ちょっと場所をかえましょう」
慌てたような、おもねるような、少しどもりながら早口になっています。
「場所? 私はここで構いません、何なら往来の真ん中でも結構ですよ。お前さんと差し向かえで話したところで、言った言わないの水掛け論になってしまいます。それならこうして、見ず知らずの人に聞いていただいたほうが後々のためですからねぇ」
往来の真ん中へ移動しながら徐々に声を大きくしてやります。しかも周囲を見回すようにしたので、道行く人が立ち止まって様子を窺いだしました。
「そ、そんな大声出さなくったって」
「行商してますとねぇ、長屋のおカミさん連中の相手をしなけりゃいけないのですよ。あっちは遠慮なしで喋るでしょう? 自然と声が大きくなってしまいましてねぇ」
よぅし、ここまできたらもう一息。上総之輔は、わざとらしく声高に話してライジンの不安を誘いました。
「わかった、わかったからさぁ、店の中で話しましょうよ」
往来の人の好奇の目が集まりだしました。強引に店へ引き入れた時点で、ライジンの負けは決まったようなものでございました。
「ま、まず、神楽坂というのを教えていただけませんか」
この男は、何をどこまで知っているのだろう。ライジンの胸に疑心暗鬼が膨れ上がります。
「おや、言って構わないのですか? けどねぇ、この期に及んでこういう扱いですか。お掛けくださいもなきゃ、茶の一杯もない。別に構いませんが、人にものを訊ねるのにこれねぇ。なんとも高飛車ではありませんか、えぇ? 嫌味のひとつも言いたくなるけど、まあ、ここは堪えてあげましょうか。……木挽町に、三枡屋という酒屋があるのをご存知で? そうでしょうね、有名な店ですから。先々代までは、そりゃあ羽振りの良い酒屋でした。主人から丁稚にいたるまで働き者で愛想よし、けっこうな身代でございました。ところが、先代が後を継いで十年ほどすると、先々代がお亡くなりになりました。それが切っ掛けでしょうか、突然、先代の主人が色街に狂いましてねぇ……」
「も、もう結構です。それで、お話しというのは、このたびの瓦版を訂正せよということでしたね。手前どもとしては念を入れて調べたことですので訂正までは致しかねますが、お客様に迷惑がかからないように書き直しということなら……」
もう十分でした。上総之輔が誰のことを言っているのか、ライジンにはピンときたのです。なんとか丸く収めたい。ですので書き直しを提案したのですが、上総之輔はかまうことなく続きを語ります。
「と、とにかくお掛けください。すぐにお茶を配ばせますから」
ライジンは、どうにかして翻意させようとしました。立っていられなくなり、ぺったりとへたりこんでしまいました。
「いえ、お構いなく。立って話すのは慣れておりますので。それから、お茶もご無用に願いますよ。嫌味を言われてから出てくる茶なんて、飲みたくはありませんから」
残酷な言葉をぶつけてやります。
「その主人というのは入り婿です。先々代が存命の間は、そらぁもう謹厳実直を絵に描いたようでしたが、重石が取れてしまったのでしょうねぇ。生真面目一途に務めてきたものの、人間、死んだら何も残らないことにようやく気付いたのでしょう。今までの分を取り返すんだってんで、色街へ繰り出すようになってしまいました。人が一生かかってする道楽を、ほんの二年か三年でやりきったというのだから驚きですよ。この主人が懸想したのが、芸者に上がったばかりの凛吉でしてね、すったもんだのあげく引かせてしまいました。並大抵ではない金を注ぎ込んだって噂ですよ。ところが、これがとんだお笑い草の始まりだったのです。自分はもう商いをする気がなくなった。残った者でいいようにやっておくれって、当座の生活費を握るなり店を飛び出てしまいました。小奇麗な家を借りましてね、凛吉と日がな……」
「も、もう、どうかそれくらいで。珍しい話を聞かせていただいた、だけど、それは個人的なことですから、人様に報せるようなことでは。とはいえ、手ぶらというのも気が悪い。これは些少ですがお礼に……」
話の途中で無理矢理割って入り、懐紙になにやら包んで框の上に置きました。
「大笑いなことがありましてね、その馬鹿、凛吉に逃げられてしまったのですよ。どうやらその男、あまりに下手だったそうなんです。所詮素人ですからねぇ、まだ雛っこの芸者に手玉ん取られてしまったのですよ。雛っこ芸者なんて、遊び上手な町娘からすれば大人と子供。それに負けてしまうんだからだらしない。どうやらただの噂ではないようですよ。でね、耳かきを何度かしてもらい、お手合わせは数えるほどだったとか。それほど下手で弱いそうですよ、夜が。なにせ、相手が気付かぬうちに始まって、気付かぬうちに終わってしまう。相手がウトウトし始める頃には、すでに高鼾だったとか。そりゃそうでしょう、でなけりゃ酒屋の娘が、枡屋の娘が承知するわけありませんよ」
「ですから、どうかお許しを」
手探りで包みをこしらえて框に並べるライジン。きちんと正座をしまして両手をついています。後ろでは、版木を彫る職人が手を止めて聞き耳を立てていました。詳しい内容はわからないものの、ふだん偉そうな振る舞いで鼻つまみ者のライジンがうろたえていることが面白いようです。
「それからというもの、そりゃあもう血眼になって凛吉の居場所を探し回ったようです。で、とうとう居場所を見つけてしまいました。それからというもの、凛吉の後を追いかけましてね、いつ、誰の座敷に呼ばれたか、何を歌い何を食べたかまで覗き見しているそうです。座敷が跳ねてからが本番ですよ。客と連れ立って出かけようものなら、行った先の屋根裏に潜り込んだりするそうですよ。凛吉が眠るまでずっと見張っているものですからね、おかげで朝が起きらんない、辰の刻になってようやく起き出すしまつ。未練たらたらなのはかまいません。いくら身請けしたとはいっても、祝言を挙げたわけではない。人別に入れるのを忘れたのが失敗ですよ。ですが、こんな陰気臭いやりかたは子供でもしません。恨みは買うわ、笑い者になるわ、そうでしょ? 奉行所に突き出せば、……簡単には帰してもらえないでしょうねぇ」
まるで井戸端での噂話のように、薄笑いを浮かべたまま上総之輔は口を閉じた。
「どうか、これで収めていただいて……」
どこで調べたのか、自分の行いがつぶさに語られました。ライジンは、あたふたと巾着を探り、手当たり次第にお捻りをこさえては框に置いていました。そして、とうとう冷や汗をタラタラ垂らしながら、巾着ごと框に差し出したのです。もちろん、声は上ずっていました。
「お前さん、さっきから何を置いていなさるのです? ははぁん、口止め料ということですか? 見損なわないでいただきたいですね、五両や十両の金ならいつも持ち歩いているのですよ。どうしても困れば、駆け較べで増やすだけのこと。一日あれば、一両の元手を切り餅五つばかりにできるのですからね」
勝ちを確信した者は居丈高になるものです。が、ここで態度を急変させてしまうと自分が悪者になってしまうということを上総之輔は知っていました。ですから、自分を抑えに抑えていました。
「では、どうせよと……」
垂れ気味の目尻から涙をにじませ、ライジンは見る影なく縮こまっています。
「私は一介の小間物屋です。強請りだなんて思われては大迷惑ですし、脅すつもりなんか、これっぱかりも持ち合わせておりません。ただお願いしているだけなのを、お前さんならわかってくれるでしょうねぇ。ところで、まだ高飛車なことを言うつもりですか?」
「は、はい」
「今日いっぱい待ちましょう。明日の朝、ちゃんとしていなかったら訴え出ますからね」
上総之輔は、版木職人たちに軽く会釈を残して姿を消しました。
先の御報せは間違いでしたという瓦版が撒かれると、こんどは日下部様が談判に向かいます。ですが、そもそも上総之輔の悪行を言い立てたのは日下部様でして、上総之輔の悪行を証明するものなど一つもありません。粘っても無駄だと悟った日下部様は、進退に窮してしまいました。
行く当てもなくトボトボ歩いていますと、いつしか上野の山に来ていました。上野といえば寛永寺、そこには碁敵の午雲さんがいるではありませんか。気晴らしくらいにはなるだろうと訪ねた午雲堂には、一人の先客がいました。
「これは日下部殿、うかぬ顔ですな」
浮くも浮かぬも、浮世離れした午雲さんには縁のないことでございます。碁に勝てば得意がり、負ければ心底悔しがる。それで許されるのであり、それこそが午雲さんなのです。
「これは来客にござったか。知らぬとは申せ、どうかお許しを」
そのまま辞すつもりでいたのですが、午雲さんに呼び止められました。
「こちらはな、琉球の慶賀使、勝連安司 四世・朝宜様に随行された屋具知殿、話をさせていただく機会を得ましてな。話してみるものですぞ、屋具知殿は碁を嗜まれる。それでこうして、碁談義をしておりましたのじゃ。こちらはな、今は悠々自適、楽隠居を楽しんでおられる日下部殿です。愚僧の碁敵でございましてな」
ごく親しい者を引き合わせるような、肩肘を張らない紹介をするあたり、午雲さんが高僧だという噂は、案外本当のことかもしれません。いずれにせよ、いつもと変らぬ穏やかな話し方でございました。
「そのような高貴なお方とは存ぜず、いかいご無礼を仕りました。日下部にござりまする。午雲殿には隠居の無聊を慰めていただいておりまする」
「屋具知です。大和式に矢口とお呼びください。そんなに堅くなられては困るよ、話ができないよー」
かなり抑揚の強い発音でございますが、言葉そのものは十分に理解できるものでした。むしろ、薩摩や津軽の言葉のほうが難解でございます。
「どうなされた、顔色が優れませぬぞ。少しなら隠してありますぞ、般若湯」
初対面の人がいますし、聞けば琉球からのお客様でございます。とても腹の内をさらけ出すことなどできません。ところが、黙ってしまった日下部様の目の前に、ヒラヒラするものが現れました。
「これのことで、お悩みかな?」
午雲さんが文箱をさぐって取り出したものは、一枚の錦絵でございました。
「これはどちらの太夫にござるかな? なかなか艶めかしい腰つきにござるが」
「太夫じゃと?」
ちらりと紙に目を落とした午雲さんは、頬を桃色に染めて別の紙と取替えました。
艶めかしいという一言に、矢口様の眉がひくりとしました。午雲さんが下げた絵をしきりと気にしています。
「……これはまた……。斯様なものを隠しておることが知れたら困りましょう。さすがに僧籍、撞木反りがお好みとは……。午雲殿との仲ゆえ、見なんだことにいたそう」
慌てて取り替えたのは、枕絵でございました。決して午雲さんの肩を持つわけではございませんが、きっと煩悩を振り払うための道具。つまり、修行のための道具として秘蔵しているのでございましょう。紙を見た午雲さんが熟した柿のように赤くなりました。そして文箱を確かめると、箱を間違えていることに初めて気付きました。慌てて違う文箱と取替えますと、ペラペラと中を入れ替えて、恥ずかしそうに肝心の一枚を取り出しました。
件の瓦版でございます。
「はぁ、……まあ、そういうことで」
「左様ですか。それで、このようなものを出したと?」
日下部様が告げ口をした瓦版をヒラヒラさせました。
「ま、まあ、そういうことで」
「……そして、こうなった」
「は、はぁ……」
「日下部殿に勝ち目はないですな。どこへ打っても捨石になってしまう。どうかな、負けを認めては。楽になりますぞ」
「それができれば悩むことなどござらぬ。しかし、拙者は入婿でござるでな、下手をすれば勘当されてしまいましょう」
日下部様は、苦しそうに答えました。いつもの覇気が失われ、萎れたような様子です。午雲さんの心にも痛みが走ります。大儲けした日下部様に招待されて、乱恥気遊びを繰り返していたからで、うっかりしていると自分の乱行が知れ渡ってしまうという危機感があったのです。そんなことが世間に、いや、寺に知れたら庵を取り上げられてしまいます。本山に報せが奔るでしょう。そうすれば、行き場を失ってしまいます。仕事に就かず、他人から崇められろ暮らしが水泡と帰してしまいます。そればかりか、破門という鉄槌を覚悟しなければいけません。それとは別に、どうにかして河美子を午雲堂へお持ち帰りする夢が果たせません。つまり、午雲さんにとって他人事ではなくなっていたのです。
「ならば、どうなさる?」
好色な仮面は袈裟に隠し、午雲さんは哲学者の面立ちを日下部様に向けました。
「ふぅむ……」
「どうですかな、矢口殿。なんぞ良い知恵でもござらぬかな?」
日下部様が腕組みをして考え込むのに付き合っていた午雲さん。実は午雲さんにも妙案などなかったのです。そこで、部外者でありながら話を聞いていた矢口様に、助けを求めてみました。慶賀使の随員であれば、少なからず政にも関わる人物でしょう。このような出来事は、国政では日常的ではないかと考えたのです。もしそうなら、きっと切り抜ける知恵を持っていると考えたのです。
「……」
「矢口殿」
午雲さんは、日下部様に向けていた視線を矢口様に移しました。すると、午雲さんが背に隠した文箱から取り出した枕絵を並べて目尻を下げていました。
慌てて片付けようとする午雲さんの手を、矢口様がピシャリと叩きました。そして、当然のように次々に箱から取り出しました。
「大和の人って、破廉恥だねぇ……。こんなの内緒で見てニヤニヤしてたのがばれると大事だよー。これは、思い切って捨ててしまおうね。汚れ役ならこの矢口、力不足ですが引き受けました」
「い、いや、これは秘蔵……ではなくて、檀家から取り上げたのを忘れていただけで……」
「大丈夫ですよー。私は大和の者ではないからねー。処分してあげるさー。引き受けたよー」
「違うと言っておるではないですか。それは愚僧が焼いておきます。それより、日下部殿の困り事をなんとかするのが大事。なんぞお知恵を……」
「負けだよねー。やればやるだけ恥かくよー」
目を細めて見ていた絵をひったくられた矢口様は、急に冷たい言い方をされました。
「そのような事を言わず、なんとか考えてくだされ」
「考えろって言われてもねー。今、落胆したところだから無理だよ」
木で鼻を括ると申しますが、愛想もクソもないスパッとした断り方をされました。よほど絵に魂を奪われてしまったのでしょう。
「うぅぅ……。では、気に入った絵を差し上げますから」
「全部だね」
「全部ですと? いや、それは……。なんとか半分くらいで」
「そりゃそうさー。あなた、お経を半分にちぎれますか? 私にはできませんよ、そんな罰当たりなこと。家族にも見せてやりたいからねー」
「うぅぅぅぅぅ……、やむをえん、一枚残らず進呈しましょう」
「そうなのー? 悪いさぁ、気ぃ使わせてしまって。……ところで、日下部殿は知らん顔かねー」
「そ、某は、芸者遊びをしていただこうと」
「悪いけど、琉球の女は綺麗なんだよー。ババァの相手はごめんさー」
「若いのがおり申す。十五、十六、十六でござる」
「引き受けたよー。早く言ってくれないと困るよ」
「で、矢口殿。妙案がおありかな?」
日下部様の手前、午雲さんは口では日下部様の立場を心配しています。ただ、目は寂しそうに枕絵をさまよわせていました。
「なんくるないさー」
黙って成り行きを聞いていた矢口様が、惚けた言い方をされました。彫りが深く、毛虫のような眉毛とあいまって厳つい印象を与えますが、なんとも形容のしがたい、軽い声音でした。
「なんく? な、なんでござるか?」
今何と言ったのか、日下部様にも午雲さんにも理解できません。一瞬目を見合わせた日下部様が、何と言ったのか確かめてみたのです。
「どうということはないですよ。勝つことはできなくても、負けなければ良いのでしょう? なんてことはありませんよ」
矢口様は、口の端を僅かに上げてそう言い放ったのです。
「ほう、まだ生きる目があると?」
「コウにすればいいさー。どっちも取れない両竦み。そこに持ち込めば簡単だよ」
碁というのは、自分の石で相手を囲んで取ってしまいます。そこを陣地に自分の支配領域を広げて、最終的にどちらの支配領域が広いかを競うものです。原則的に相手の四隅を囲んでしまえば良いのですが、互いに取り合うことができる状態になることがあります。互いに次の一手で相手の石を取り合える状況、それが無限に続く状況をコウと呼びます。日下部様と上総之輔の確執を盤面になぞらえて、矢口様はコウという言い方をしたのでしょう。
「……コウでござるか。……されど、四隅は取られたも同然。真ん中が空いているだけかと存ずるが」
「相手の目をつぶすのさ。無駄石を置かせれば陣地でなくなるでしょう」
「無駄石……、自滅……。ならば、逆転を狙って遺恨試合を申し出るとか?」
「それ、いいかもしれないね。試合なら立会人がいるわけだし、その人が味方だったりするわけさ。なんなら、やってもいいよ」
落ち窪んでいる目の奥に、チカチカッと閃光が瞬きました。