お大尽
日下部様は、力丸と連れ立って初めての駆け較べにやってきました。
両の手だけでは数えられない数の馬が一斉に疾走するのを見ることなど、生まれて初めての経験でございます。何事であれ、初体験というものは胸が高鳴りますね。初めての芝居、初めての花見、そして初めての……。期待しすぎてがっかりということもございますが、こればかりは違いました。すぐ目の前を、地響きをたてて巨体が駆け抜けるのです。苦しそうに口を開きながらも、たてがみも尻尾も風に流されて、それは見事なものでございました。胸の内から暴力的な力が漲ってきたのでございます。群集も贔屓の馬に声援を上げていますので、それにのみこまれてしまいました。
女もいいが、馬もいい。いや、女と馬はどっちもいい。いやいや、女は馬だ。日下部様の中で、一つの説が導き出されました。
何をどうすれば良いのか全くわからない日下部様は、上総之輔の言うが儘に入れ札を買いました。町人どもが一枚百文の札を競うように買っているのを横目に、どーんと気前よく一朱の札でございます。なんて、偉そうにいいましても、文に直せば二百五十ですから、ことさら威張るほどの気前ではございませんで、様子見と申せましょうが、案外小心なようです。
上総之輔に教えられて買った入れ札が見事に大当たりをいたしまして、一朱が一両に化けました。一気に十六倍になって戻ってきたのでございます。さすがの日下部様もこれには驚きました。こんなに凄まじい利を得ることなど金座勤めでは考えられないことでした。金座に較べて庶民的な銀座でさえ、吹立ての取り分は七分しかありません。それを五十二軒の座人、人数にして七十八人で分け合っているのです。三百九十ほどの歩に割って、役割に応じて歩を配分しているだけです。銀座の取り分が年に千両だったとすると、一歩の配当は二両二分ほどでございましょうか。それからしますと、とんでもない儲けでございます。
この大儲けに大はしゃぎをしたのが力丸でございます。なけなしの一朱が一両になったのですから大喜び。それは日下部様とて同じですが、やはり武家の慎みというものがございます。喜びを率直に表現なさらないばかりか、固く口を結んでいます。僅かに小鼻をふくらませただけでございました。
そして昼前の二回目の駆け較べでは、なんと、三十二倍になりました。
元金の一朱は捨てる気でいた日下部様は、手にした一両の半分、二分の入れ札を買っていました。捨てる気でいたのなら、いっそ一両の札にすれば良さそうなものですが、少しでも損を減らしたいのが人情でございます。力丸も一分の札を買っていました。そうすると、日下部様の手元には十六両、力丸には八両になって戻りました。これだけあれば婿の顔色を窺わなくても芸者遊びができるというものです。今度ばかりは慎みをかなぐりすてて喜色満面。力丸にしても、むこう半年の店賃を前払いし、米味噌などを先払いしても、まだ吉原あたりで仲見世女郎あたりと遊ぶことができます。有頂天を通り越して大騒ぎでございます。
中食をはさんだ最後の駆け較べは、なかなか手堅いことが災いして倍になっただけですが、持ち金の半分を投じた日下部様は、朝の一朱が二十と四両に、力丸は気が小さいことが災いしましたが、やはり九両という大金を手にしたのでございます。
勝った金をポンと投じていれば、一朱が一両に、一両が三十二両に、三十二両が六十と四両になっていたはずでございます。思い切りの悪さを上総之輔に指摘され、日下部様は四十両の損、力丸などは五十三両も損をしたことに気付かされました。
いや、二人の悔しがること。二人とも切り餅を二つ捨てたと同じことだから大変です。頭の中を捨てた切り餅が駆け巡ったようでございます。
とはいえ、不意の実入りで二人とも気が大きくなってしまいました。上総之輔に礼をすると言ってきかず、『まゆ桂』へ繰り込んだのですが、たまたまネタ探しで徘徊していた風富屋のライジンに見つかってしまったのです。
『夜の帝王のお出ましか。どうせ金に飽かせて豪遊するつもりだろう。庶民にゃ縁のない世界だが、話の種に覗いてやろうかい』
店の者の隙を狙って忍び込んだライジンは、いきなりとんでもない光景に出くわしました。
『これはまた……、武士にあるまじき行いではないか。これは書き留めておかねば』
ライジンが見たものは、帳場で女将に情を強要する日下部でございました。女将が拒んでいるのに無理矢理でございます。屈強な男の前に女は無力でございますね。何度も何度も拒み続けたあげく、いいようにされてしまいました。しかし、日下部はそれ以上の暴挙に及ぼうとはせず、満足した様子で帳場をはなれたのです。
『もう一息というところではないか。ああなりゃもう終わったようなもの。存分にいただくことができるのに。寸止めができるということは、よほどの経験を重ねたツワモノ。でなけりゃ、支度が整っていないのかもしれない。いや、整えたくても、整わないのかもしれないぞ』
あそこまでいったのなら、パッと捲って、パッと抱えて、一気に……。ほんの一息でできることだとライジンは考えました。実にもったいないことだと思ったのです。
残された女将は、乱れた髪を撫で付けて横座りでございます。無理無体、力づくがよほど好みなのでしょうか、左の手を胸にあて、夢見るような素振り。余韻が静まったのか、薄笑いをうかべると小さく首を振って身を起こしました。
そっと庭先に回ったライジンは、座敷の様子がよくわかる場所を探しました。ところが、絶好と思われる石灯篭には灯が点っています。松の木がありますが、幹が細いので姿を隠すことができません。しかたなく選んだのは、こんもりとした紫陽花です。その中にもぐりこめば、かろうじて屋敷を見渡すことができそうでした。
紫陽花の花にみせかけて顔をつきだすと、庭を向いた日下部が女を一人づつ呼び寄せては羽交い絞めにしています。激しく抗う手はかたちだけ。じきに夢見るような素振りになります。女遊びの達人と評されるだけあって、日下部の技は並大抵のものではなさそうです。女の胸のあたりがモゴモゴしていますが、日下部は膝の上に女を抱き抱えただけで、特に淫らな振る舞いにはおよんでおりません。ところが、女が腕を後ろに回しときに、モゴモゴの理由がはっきりしました。日下部は、女の八つ口から手を挿し入れていたのです。
『なんと破廉恥な』
ライジンは、その様子をつぶさに書きとめました。
半玉から年増盛り、中年増もいれば大年増もいて、歳格好にこだわりはない様子。というより、手当たりしだいです。頭を任されそうな仲居ですら見事に毒牙にかかり、不思議なことに皆一様に桜のような顔色になりました。
ひとわたり女への悪戯をすませた日下部の前に、板前風の男が進み出ました。くるっと後ろを向いて着物の裾をぱっと捲ります。
『おいおい、二刀流か?』
ライジンの疑念を打ち消すように、むき出しになった尻を平手打ちした日下部は、キラッと光るものを下帯にはさんでやりました。
今日は一日、降るでもなし、晴れるでもなし、どんよりと蒸し暑い一日でした。陽が落ちてもムシムシしたままで、酒の酔いも手伝ってむし暑さは増す一方。女たちはしきりと襟元をくつろげていましたが、とうとう一人の半玉が大きく襟をくつろげると、皆がそれにならって大騒ぎでございます。そんな格好で踊るのですから、品もなにもあったものではありません。が、一瞬ですがライジンの目を強い照り返しが襲いました。まるで鏡に照らされたような心地でしたが、それきりです。
『なんだ、気のせいか』
諦めかけたときにまた一度。気のせいではなかったようです。じっと目を凝らしていたライジンは、そこに意外なものを見たのです。
大きくはだけた胸元には、大小さまざまな乳房が盛り上がっていました。どうしたわけかそれが真ん中に寄って深い谷間をつくっています。その中に、キラッと光るものが差し込まれていました。
『まさか……、小判じゃないだろうな』
いくら睨みつけてもそれ以上は見えません。それより、胸の小さい女はわざわざ手で寄せて落とさないようにしているのです。
『これは間違いないや。しかし粋だねぇ……。猫に小判はよく聞くが、乳に小判たぁ粋なことをしやがる。だがしかし、小判だけだとしたら粋も中途半端だな。自分だったら一分金を先っぽにあてがってやるのに。下には手を触れていないからきっと胸だけだろうが、足の運びがおかしかったら一儲けさせてもらうんだがなぁ』
帳場に始まり、座敷での乱痴気騒ぎまでつぶさに焼き付けた眼には無数の血管が蜘蛛の巣をはっておりました。時折乱入したくなるのをぐっと堪え、舌なめずりを繰り返します。そして、絵の心得がないことを残念に思いながら、ライジンは観察を続けました。
晦日の『まゆ桂』でございます。
女将が帳場に女たちを集めて気合を入れています。
「今日は何の日ぃかわかってるな。えぇか、今日は殿さんが散財しに来はります。あんたらもな、借金を返すええ機会や。もっとあんじょうせんと黄金を逃がしてしまうえ。律はん、あんたなぁ、酒が強ぅないんやから、ちょっと慎みなはれ。もっと黄金を出ささなあかんがな。酔うてどないすんの。酔わすんがあんたの務めやろ。欲出さんかいな、ほんまに。あんじょうたのむえ。一花はん、お乳さわられたくらいで悲鳴上げるん止めよし。なんぼ触られたかて減るもんちゃいます。万里永はん、あんた、もうちょっと帯を下目に、合わせをちょっとだけ緩うに、わかるな。凛吉はんもそうや。指二本分がとこ、帯を下げなはれ。二人ともお乳をべべで潰してるやろ、そら、もったいないわ。大けなお乳は有効に使わんとあかん。小春はんと史乃はん。あんたら二人はな、お乳を寄せときなはれ。せっかくの小判を落としたら艶消しやさかいな。まどかはん。あんたはな、お乳の下に手拭い入れとき。ちょっとでも大きく見せな損するで。三人ともちょっと小さい。けどな、工夫しだいで大きゅうでけます。河美子はんを手本にしよし。お乳の張り、おいどの張り、ほんえぇ塩梅や。圭織はんと小豆はん、特に夜兎はん。逃げ回ってどないするんや。芸妓で食べていこ思うんやったら、こんくらいのことで逃げてどないすんの。身体は売っても、心を売らなんだらええのんとちゃいますか? しっかりしなはれ。糸香はんも手ぇ抜いたらあきまへんえ。今が勝負や」
それぞれに細かい指示を与えた女将は、簪で頭を掻きました。どれも的確な指示で、皆、神妙な顔で頷いています。
「えぇか、なんぼお大尽かて、そういつまでも金が続くわけおへん。せやろ? しやさかい、今日が最後や、全部絞り取ったるっちゅう気概をもたなあきまへん。わかるな? わかったら、ちゃっちゃと支度しなはれ。綺麗なおべべ選ぶんやで。それとなぁ、眉を寄せるん忘れたらあきまへんえ。口も少しだけ開けてな、あんじょうしなはれや」
「あのぅ女将さん、身受けの話はどうなりましたか?」
「あぁ、それか? それやったら後でナニすっさかい。またにしょうか。えぇか、何べんも言うけど、粋とイナセは男はんだけとちがいます。粋でイナセな辰巳の芸妓を見せるんやで。ほな、しっかり、気張んなはれ」
……なんともどす黒いものでございますね。妖艶な笑みに隠された女の本性でございます。
次の月も、どこか心に歯止めがかかっている状態でしたが、最終的に元手を三十倍に増やしまして、そのまた次の月も日下部様は大儲けをしました。
上総之輔の言う通りに入れ札を買えば、まず損はしないのです。ですが、初めての時のように馬鹿勝ちすることはありません。日下部様は、それが不満でした。手堅く儲けることも大事ですが、一両が五十にも百にもなって帰ってくる嬉しさ。見事的中させたことの誇らしげな高揚感が忘れられないのです。
やがて馬の性格を覚えた日下部様は、ご自分の判断で入れ札を買うようになりました。また、一度に高額な買い方をします。そんなことをしてみても、うまくゆくことは滅多にありません。気の毒に思った上総之輔が、なんとか損をせずに帰れるようにしてくれているのに気付いていなかったのです。
百両も出せば、どこか居抜きの料理屋が買えるというもの、一軒買い取って誰かにさせようか。でなければ、ちょっと江戸から離れたところに寮でも建てようかという考えもチラリとのぞきます。が、そのための金は次に儲けた分から捻出しよう。とにかく今日ばかりは祝杯だと誘惑に駆られます。結局、今日もあぶく銭とばかりに、お大尽遊びをなさいます。二度目、三度目ともなりますと、日下部様が床の間を背にされただけで、すぐに女たちが膝の上に乗って鼻声を聞かすようになりました。
そして、鼻の下を伸ばして一枚、また一枚と、柔肌に小判を挟むのでした。
「このところ奇策が多くなりましたなあ、日下部殿。奇策は所詮」
ジャラジャラと石をかきまぜながらそこまで言って、白石をつまむとパチンと好い音をたてて盤面に打ちつけ、すっと滑らせます。そして、囲んだ黒石を取りました。
「……奇策ですぞ。奇をてらうよりも、定石通りのほうが無難ではないですかな?」
日下部様の顔色を窺い、そして盤面に戻しました。
「午雲殿、いや、午雲殿。上手くもないのに白を持ちたがる」
日下部様は、相手の陣地に切り込む一手を放ちました。これぞ妙手と言わんばかりです。
「お方の申されようですかな?」
午雲さんの忠告をまったく取り合おうとしません。
「そんなことをしていたら」
パチリ
「草ぼうぼうの壁になりますぞ……」
「なんの。襦袢で草を」
パチリ
「隠しましょうわい」
細く開けた障子から冷たい風が吹き込んだりします。盤面に集中していてもそのときばかりはふっと気持ちがあらぬ方へ切り替わります。気まぐれで連れていった女が大儲けしたことを思い出していました。的中させて大喜びし、人目を気にせず日下部様を濡れた目で見つめるのでした。その日、日下部様は思ったほど儲けが出なかった。最初のレ……駆け較べを上総之輔の予想で儲けただけでして、上総之輔に教えられて大儲けした女が疎ましくさえ思えました。
師走を最後に、桜が咲くまで休んでいた駆け較べが再開すると、日下部様は上総之輔の予想とは違う、倍率の高いものばかり買うようになりました。倍率が高いのは人気がないということ。往々にして実力が伴っていないということなのがわかっていません。そんなことをしているから見る間に手元が寂しくなります。困り果てて上総之輔に助けを求めたのですが、呆気なく断られてしまいました。それはそうでしょう。親切で忠告したのに、聞こうとしないのなら教える必要はないのです。損しようが儲けようが、それは本人の責任です。ましてや、それで上総之輔の損にも得にもならないのです。上総之輔にとって一番腹立たしいのは、自分が信用されていないということでした。
目まぐるしく月日がめぐり、いつの間にやら神無月も残り僅かになったある日、風富屋が売り出した瓦版で騒動がもちあがりました。
『ついに破綻のお大尽。金座勤めの役人が、家督譲って楽隠居。寝ても覚めても酒さけと、通う深川料理茶屋。黒板塀のその奥で、芸者半玉入り乱れ、撒きに撒いたる黄金餅、金座勤めの役得か、湯水のように金を撒く。辰巳芸者は餅肌の、両の乳房をかきよせて、あわいに挿む山吹の、粋な所業が恨めしや……』
軽妙な調子で衆目を引いて売りさばいていたのは、風富屋に雇われた売り子でございました。
金座勤めを返上して隠居した者など限られております。この五年の間だけでも、日下部様以外には符合するお人がおられません。こうなると、それが誰のことか江戸中に広まったようなものでございます。
「万里永姐さん、嫌でござんすよぅ。こんな評判が立っちまったら嫁の貰い手がなくなっちまうじゃありませんか。どうしてくれるんですね」
いざというと気後れするのは半玉の半玉たる所以でございますが、芸妓に昇格するのに必要な身請け人が決まりかけていた矢先の圭織が泣きべそをかいています。
「お前、そんな覚悟で辰巳芸者になろうってか? こんなこたぁ当たり前の稼業だろ、腹ぁくくるこったね」
彼女たちは、度重なる親の無心で借金を増やしていました。そりゃあ心づけを頂けることもありますが、だからといっていつも頂けるわけではありません。そうした小金をコツコツ貯めて借金の返済に充てていたのです。
やれやれ借金がなくなったと安心するのは早とちりで、着物や小物、それに化粧品にかかった費用が追い討ちをかけます。半玉が芸妓に昇格するにあたり、それまでの借金を肩代わりしてくれる旦那を探さねばなりません。芸妓になれば、よそのお座敷からもお声がかかるようになります。方や半玉では店に縛りつけられたまま。お茶を挽くような時など一銭も実入りがないのです。だから、是が非でも芸妓にならねばならないのです。それに、独り立ちした芸妓は、身体を売ってでも稼ぐことができました。ところがそれが水物で、旦那の話などいつ流れるかわからないのです。万里永自身、何度失望させられたことか。しかし、嘆いてみてもどうなるものではありません。圭織を冷たく突き放すのも、万里永にしてみれば優しさのつもりでした。
「そんなぁ。旦那にそっぽ向かれたら披露目ができないんですよ。どうしてくれんだよ」
「ピーピー泣くんじゃないよ、鬱陶しいったらないね」
「万里永姐さぁん」
いくら泣きつかれても、万里永にだってどうしようもないのです。かとおもえば、青い顔で固まっている史乃や小春、それにまどかを、一花が元気付けています。
この三人は、晴れて身受けされることが決まったばかりです。それがご破算になったら、せっかく返した借金をしなおさねばなりません。それに、引かせてくれる贔屓など、おいそれとみつかるはずはないのです。
「凛姐さんはどうなさるんで?」
夜兎がぽつりと呟きました。
「あたしかぃ? あたしゃねえ、弥欷さんと……先から好い仲なのさ。だからさ、あたしのことより自分の心配をおしよ」
さすがに凛吉は肝が据わっておりましたが、弥欷助と所帯を考えていることが知られてしまいました。
「さてね、女将さんはどうしなさるおつもりで? あたしは相乗りさせてもらいますよ」
帳場では女将のまゆをはさんで、律と糸香が話し合っていました。その律が、まゆの考えに従うと言い、糸香も静かに頷きました。
「お律はん、なんや、気合が入っといやすなぁ。せやけど、あてらは肩肘張ることおへん。男はんのすることなんぞ放っときなはれ。阿呆は放っといて、絞れるとこまで絞らなあかん。世の中、お金どすがな。ほかの妓ぉらぁも落ち着くよう、あんじょうたのんますえ」
いい忘れておりましたが、まゆは京女でございます。京の桂川から一字もらって『まゆ桂』という名の店にしたのだそうで、そりゃあもう着倒れの代名詞というべき着こなし。若さで太刀打ちできない分、色香勝負でございます。
佳人、華人、麗人、美人、別嬪、ヘチャ、ブー、鬼瓦、踏んだり蹴ったり……
世の女子を分類しますとこのように別けられるそうでございますが、まゆは最上級の佳人に分類される種族でございます。ところが、槍のように長い棘がございまして、迂闊に手を出そうものなら一突きで昇天させられてしまいます。律は華やか、糸香は別嬪。
それが薄化粧をしているから際立って美しい。そんな美形が頭を寄せてヒソヒソ話をしている絵というものは、なかなかに凄みがございます。
一方、日下部家ではもっと深刻な問題になっていました。
母屋の一番奥まったところに隠居部屋がございます。鮮やかな緑の絨毯には、たっぷりと打ち水がされておりまして、そこに黄色く色づいた楓の葉がはらはら舞っております。石踏みのすぐ脇には、胸ほどの高さに伸びた南天が真っ赤な実をつけておりました。
秋が深まってきた奥庭を眺めても、今の日下部様の心を癒すことは難しいのでしょうか。その枝折戸を開けて、妻の綾那が碗を運んできました。
「殿様、女子が殿方のなされように口を挟むは不躾と忍んでまいりましたが」
長年連れ添った奥方様が一旦口を閉じました。わざわざ浚えた井戸から汲んだという水をごくりと飲む間の長いこと。奥方様はことさら時間をかけて咽をうるおしまして、碗を戻す時に一瞬険しい視線を向けられました。
「何も申すまい……と、思うておりましたが、斯様なものが出回るにおよんでは一言申し上げねばなりますまい」
懐から折り畳んだ紙を抜き出して広げます。日下部様の膝近くに滑らせたそれは、 件の瓦版でございました。
「これが、なんとした?」
「金座のお役を返上した楽隠居とございますが、殿様がことにございますな?」
「何を申すか。金座勤めは儂だけではあるまい。余の者であろう」
脇の下を冷たいものが伝います。あたったばかりの月代にも細かい水滴が滲み出てきました。
「左様でございますか。ではお訊ねいたします。余の者と仰せですが、お役を返上されたお方とは? ここ五年ばかりの間に隠居されたば、殿様しかおらぬはず」
「きっと間違いであろう。よう確かめずに、面白可笑しく書き立てておるのであろう。所詮下々の考えるはそのようなことばかり。苦にいたすでない」
「酒や女子のことなら構いませぬ、なれど……、金子の出所が問題でございます。役得などと書かれては疑念を抱かせるのみ。当家の威信にかかわりまする。そうではございませぬか?」
「なにを愚かな。お役にある時に金子を持ち出したと申すのか? 銀座ならばいざ知らず、金座は要人以外立ち入ることのできぬ場所。役得などあろう筈がないではないか」
「よう存じております。されど、役向きに関わらぬ者にはわからぬこと、まして町人にわかる筈がございません。とはいえ、斯様なものが出回れば、当家のみならず、役所、ひいては御公儀に累が及びましょう。このこと、いかが始末をつけられまするか、しかと承りとう存じます」
「慮外な。市井の嘲笑に屈するは不本意なれど、いかに理を通しても解せぬ者共ではないか。まともに取り合うなど、笑止千万。だが、不名誉なことではあるゆえ、なんぞ手立てを講じてみよう」
「左様でございますか。殿様にはまだお考えがまとまらぬようでございます。日を改めるといたしましょう」
一度たりとも目を合わせることのなかった奥方様は、最後に冷たい一瞥をくれるとご自分の部屋へ戻って行かれました。
『まずい、断じてまずい。なぜ自分の素行が面白おかしく書きたてられるのだろう。自分程度のことなら誰でもしているではないか。それにしても、この風富屋を絞り上げねばならん。いや待て、そんなことをすれば恥の上塗りになってしまう』
そう考えた日下部様は、大きなため息をつきました。せっかくの井戸水が温くなっていますが、かまわず飲み干します。泳がせていた目が水の枯れたツクバイで止まりました。
『水の枯れたツクバイ……。用がない……要が……。い、いかん。猶予がないという暗示か。こうなると婿養子は立場が弱い、なんとかせねば……。それもこれも、駆け較べで負けが続いていることが元凶に違いない。あれで稼いでさえいれば問題はなかったのだ。たしかに水無月の忠告を無視した。しかし、あ奴はこうも言っていたではないか。同好の者が集まってやっていると。とすれば、儂を貶めるために勝ち順を操作することだってできるはず。いや、初めに大儲けさせたのも、奴の罠かもしれぬ』
むらむらと怒りがこみ上げてきました。と同時に、名案が閃きました。
『あ奴は、勝ち順を裏で操作して大儲けしているのであろう。そのからくりを風富屋に持ち込めば飛びつくに違いない。そのかわり、自分のことは間違いだったと訂正させよう』
ぽっかりと洞窟のような目にポッと灯が点りました。
クッ、ククク……。しのび笑いが次第に大きくなり、やがて肩を揺らして笑うのでした。